始めよう
海軍大学校の一室。分厚いカーテンが外光を遮り、重苦しい沈黙が漂っていた。
山本英輔は、密かに呼び寄せた二人の若き将官を前に座らせる。艦隊派の南雲忠一、条約派の沢本頼雄。そして、中央の席にはワシントン帰りの東郷一成。
山本が口火を切った。
「諸君を呼んだのは他でもない。東郷中佐が持ち帰ったもの……空母一隻分の枠、いや、それ以上の“構想”を聞かせたい」
南雲は渋い顔で唸る。
「構想だと? 外交屋の詭弁で数字をひねり出しただけではないのか」
沢本も冷ややかに言葉を継ぐ。
「条約は国家の意思です。裏から制度を作って艦を増やすような真似は、列強から“約束破り”と見なされましょう」
視線を受け止めた東郷は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……違います。この制度債は“通貨”ではない。あれは、軍功を担保とする“記録”です。通貨性を落とすことで、大蔵省の管轄から外れる。財政ではなく統帥権の範囲に置くのです」
南雲は煙草に火をつけ、煙を吐きながら鼻で笑った。
「通貨ではないだと? だが財閥に嗅ぎつけられれば“裏金”と叩かれるのは目に見えている」
沢本も腕を組む。
「議会も騒ぐでしょう。貴様自身が軍法会議に立たされかねん」
東郷の目は揺るがなかった。
「だからこそ、先に正当性を確立するのです。枢密院、大審院、軍法会議……年度ごとに監査を受ける。これにより発行は制限されるが、それが逆に力になる。この制度は正当性を得られる」
山本が頷き、言葉を添える。
「つまり、制度債を“統帥権の発動”として位置づけるのだな。軍務の証明である、と」
沢本は眉をひそめた。
「……自ら枷をはめて動く、と?」
「ええ。枷をはめるからこそ、自由を得られるのです」
東郷の声は静かだった。
しばし沈黙が流れる。やがて山本が、場を締めるように言った。
「だが国内の敵は多い。財閥、議会、そして内閣も……。枠を押さえるには後ろ盾がいる。東郷、頼れる筋はあるか」
(政府や議会を飛び越えて事を進めるには、天皇の諮問機関たる枢密院、司法の最高機関たる大審院、その両方を黙らせるだけの『大義名分』が要る……)
東郷は一瞬言葉を飲み込み、それから低く答えた。
「……父は、今も枢密院に席を持っています。父に証言を願います。ですが、あの方は論理だけで動く方ではない。この計画が、本当に日本の未来を拓くという我々の“熱”が伝わらねば、決して頷いてはくださらないでしょう」
南雲は黙ったまま煙をくゆらせ、沢本は視線を落として沈思した。
山本はそんな二人を見回し、心中で呟く。
薩摩の血がまた一つ歴史を動かそうとしている。これは単なる金融の策ではない。国家の正義を、新しい形で与信化する試みだ――
南雲が煙草をもみ消し、低い声で切り出した。
「俺の故郷・米沢ではな、昔、財政が逼迫した時に“藩札”を刷ってしのいだことがある。あれは確かに役に立った。だが、信用を失えば紙切れだ。発行の時機を誤れば、この制度債も同じ道をたどるぞ」
「そして何より、発表のタイミングを外せば、敵に餌を与えるだけだ。世間に出すのは、必ず海軍の大きな実績と結びつけねばならん。さもなくば、ただの裏金扱いだ」
沢本が静かに頷き、言葉を継いだ。
「……同感だ。ただ、私が気になるのは別の点だ」
彼は東郷に向き直った。
「“与信”を掲げるなら、それを裏付ける物として記録が必要になる。艦隊の行動、工廠の建造、兵学校の教育実績……。すべてを正確に数値化し、積み上げなければならない。さもなくば、発行の根拠が宙に浮く」
東郷は黙って耳を傾けた。沢本はさらに言葉を重ねる。
「それから――外に向けては“通貨ではない”と証明する必要がある。私はこう考える。制度債は円と直接兌換せず、海軍内部の商品券のように扱うべきだ。海軍内部での装備調達や給与補填に用い、円への兌換は基本的に認めない。そうすれば、“裏通貨”と呼ばれるのを避けられるだろう」
南雲が鼻を鳴らした。
「なるほどな。海軍内部、あるいは海軍との取引で回るだけなら、外の連中も口を出しにくい。だが逆に、内部で信頼を失えば終わりだ。だからこそ発表の時は重要だと俺は言っているんだ」
東郷は二人の言葉を胸に刻み込むように、静かに頷いた。
南雲の「タイミング」、沢本の「与信の根拠」。どちらも、制度を根付かせるには欠かせない視点だった。
東郷は思わず身を乗り出した。
「……つまり、我々の歴史を統計として蓄積し、それを未来への信用に変える――そういうことか」
沢本は短く頷いた。
「そうだ。条約派だ艦隊派だと派閥に分かれている場合ではない。海軍全体の実績を“与信の資産台帳”としてまとめること。それがなければ、制度債は机上の空論に終わる」
南雲は口元を歪め、皮肉交じりに言った。
「結局は“数字”か。だが数字とは便利だな。勝った負けたを超えて、軍人の血と汗を一枚の紙に変えてしまう」
言い終えると、部屋の空気が沈黙に包まれた。
南雲は腕を組み、沢本は眼鏡を直し、東郷は視線を落としたまま深く息を吐く。やがて三人の眼差しが、自然と山本英輔へと向けられた。
年長の校長は、その視線を静かに受け止め、ゆっくりと口を開いた。
「――いいだろう。艦隊派も条約派も、立場は違えど手を貸すと口にした。ならば、これはもはや一人の中佐の奇策ではない。海軍そのものの試みとして扱うべきだ」
彼は一同を見渡し、声を低めて続ける。
「発表の時機は南雲の言う通り。形は沢本の言う通り、記録と商品券の体裁でいけ。東郷は枢密院の父上を動かせ。私は大学校の名で統計部局を立ち上げる。……この四人で、まず最初の土台を築こうではないか」
沈黙ののち、南雲が鼻を鳴らした。
「やれやれ……“薩摩仕込みの紙切れ”に、俺たちの未来を賭けることになるとはな」
沢本は小さく笑みを浮かべた。
「未来は記録に残る。ならば、残すに値する実績を作るまでだ」
東郷は拳を握りしめ、言葉を絞り出した。
「……ありがとうございます。必ずや、この“仕組み”を日本の生存の力に変えてみせます」
山本は軽く頷き、立ち上がった。
「では――始めよう」
その瞬間、四人の間に流れていた不信と隔たりは消え、代わりに新たな火種のような決意が生まれていた。