父の沈黙
1922年(大正十一年)、早春。ワシントン会議が閉幕した直後のことである。
東京・麹町の東郷邸では、春の陽光が庭の木々を照らし、穏やかな空気を漂わせていた。
縁側に腰を下ろした東郷平八郎は、新聞を広げ、無言で目を走らせている。日露戦争の英雄の顔は能面のように硬く、感情を読み取ることはできなかった。
そこへ帰国したばかりの息子、一成が旅装も解かずに現れ、父の前に深く頭を下げた。
「ただ今、戻りました。ワシントンでの任務、無事に終えることができました」
平八郎は新聞から目を離さず、わずかに頷いた。
「……うむ」
それだけであった。
一成は正座し、会議の報告を始めた。
主力艦の保有比率が五・五・三に定められたこと。
四カ国条約の成立により日英同盟が消滅したこと。
そして、自らが戦艦の空母改装枠を二隻から三隻へと拡大させたこと。
言葉にはどこか誇らしさが滲んでいた。自分も父のように国益のために戦い、成果を持ち帰ったのだと。
だが声の奥には、隠しきれない影があった。ワシントン滞在中、祖国から届いた一報――妻が身ごもったままスペイン風邪に倒れ、帰国を待たずに息絶えたという知らせ。その喪失感は外交の勝利と同じか、それ以上に深かった。胸の痛みを悟られまいと、彼は努めて声を張った。
報告を終えても、父の反応は変わらない。
「……そうか」
それだけだった。
庭を吹き抜ける風が枝葉を揺らし、沈黙が落ちる。息子の心に不安が広がった。自分のやり方は、父の目には小賢しい駆け引きにしか映らなかったのではないか。
やがて平八郎は新聞を畳み、初めて息子をまっすぐに見た。老いた鷲の眼光のごとき鋭さに、一成は思わず背筋を伸ばす。
「一成。お前がワシントンで何をしたか、細かい手並みには興味はない。聞きたいのはただ一つだ。アメリカという国の、本当の恐ろしさを肌で感じてきたか」
「その工業力、資源の豊かさ、そして底知れぬ国力は――」と言いかけた息子を、父は鋭く遮った。
「違う。そんな目に見えるものなどどうでもよい。鉄の数や油の量なぞ、戦となれば変わる。わしが言うておるのは、彼らの持つ思想だ」
「思想……でありますか」
平八郎の声は低く、しかし重かった。
「彼らは我々と同じように艦を削った。だが我々がそれを屈辱と感じる一方で、彼らはそれを『世界平和への貢献』と信じて疑わぬ。自らの正義のためならば、平気で身を削り、それを他国にも強制する。白色艦隊の時も思ったが、その無邪気な狂気こそが、アメリカという国の恐るべき力の源泉だ」
平八郎は一度言葉を切り、遠い目をした。
「わしは日本海でロシアの艦隊は大砲で潰した。だが、この新しい怪物を、大砲の撃ち合いだけで倒せるものか……」
再び息子を見据えた眼差しには、衰えを知らぬ光が宿っていた。
「お前が手に入れた空母一隻分の枠。それは確かに小さな勝利やもしれん。だがな――その勝利と引き換えに、我々はあの国の『正義』の土俵に上がることを約してしまった。忘れるな。本当の戦はこれからだ」
そう言い残し、平八郎はゆっくりと立ち上がり、奥の間へ姿を消した。
一成は父の背が見えなくなるまで深く頭を下げ続けた。父はすべてを見抜いていたのだ。小さな勝利の背後に潜む、本当の戦いの始まりを。
やがて縁側に座り込み、父が先ほどまで眺めていた庭に目をやる。春の陽光は暖かく、鳥の声も響いている。だが一成の世界は影に覆われていた。
「『正義』の土俵……」
父の言葉が胸の中で反響する。
ワシントンで自分が行ったのは、まさにそれではなかったか。各国に合理や誠実さを説き、すべての国が利益を得るという正義を盾に、日本の実利を勝ち取った。それはアメリカ的な価値観の土俵の上で、彼らの理屈を逆手に取ったにすぎない。
自分はルーズベルトに、そしてアメリカに勝ったつもりでいた。
だが父の言葉は、その驕りを打ち砕いた。勝ったのではない。彼らのルールで踊ることを受け入れてしまっただけなのだ。
――違う。自分は断じて踊ったわけではない。
思わずそう叫びたい衝動が喉までこみ上げた。しかし一成は声に出すのをこらえた。父の言葉は、あまりにも正確に、自分の心の奥に潜む驕りを射抜いていたからだ。反発は、言葉にすればするほど惨めな自己弁護に堕ちてしまう。
沈黙の中で、一瞬の葛藤が胸をかすめ、やがて静かな諦念に変わった。
ふと、懐の資料から一枚の名刺が落ちた。
Franklin D. Roosevelt / Attorney at Law
シンプルな活字が目に刺さる。
あの男もまた、アメリカの「正義」を体現する一人。しかしその瞳の奥にあったのは、無邪気な狂気だけではなかった。こちらの「生存の論理」を冷徹に理解し、その上で叩き潰そうとする国家の意志であった。
一成は静かに拳を握りしめた。父は大砲だけでは怪物に勝てぬと憂えた。ならば、自分は何で戦うべきか。答えはすでに出ている。
彼らが思想で迫るならば、こちらも思想で戦う。
彼らが仕組みで世界を覆うならば、こちらもさらに強靭な仕組みを築く。
ワシントンで勝ち取った空母一隻分の枠。それはもはや単なる軍艦ではない。父の言葉を聞いた今、それは日本の生存を支える目に見えぬ仕組み――技術力、資源、思想を結集するための小さな、だが決定的に重要な種子に思えた。
東郷一成は父との対話を胸に刻んだまま、数日後、軍令部の会議室に姿を現した。そこには同期の将校たちが集められていた。艦隊派の南雲忠一は腕を組み、無口なまま苛立ちを隠さず、条約派の沢本頼雄は机上の書類を睨みつけていた。
「……兵学校の採用枠が、大幅に削られる」
沢本が低く告げると、室内に重苦しい空気が流れた。
「艦隊が縮小する以上、士官の数も減らせ、というのが政府の論理だ」
南雲が顔をしかめて吐き捨てる。
「馬鹿げている。人材を削ってどうやって艦隊を動かす。戦わずして己の力を弱めるようなものだ」
そこへ別の同期が口を挟んだ。
「聞いたか。兵学校では“合格者の中から自主退学を認める”などという訓示まで出されたそうだ。未来を誓った若者に、退けと命ずるなど……」
ざわめきの中には焦燥と怒気が交じっていた。将来を閉ざされた若者の一部は既に過激な思想に傾きつつある、と噂されていた。
東郷は沈黙しつつ、アナポリスでの記憶を反芻していた。
米海軍士官学校では毎年数百人が送り出され、淘汰されつつも厚い人材の層が築かれていた。その層こそが、巨大な艦隊を支える真の力だった。
対して日本は――。わずかな枠を削り、現場を干上がらせている。これではいずれ、思想の過激化や組織の空洞化を招くだろう。父が言った「思想の恐ろしさ」は、国外だけでなく、国内からも牙を剥きかねないのだ。
東郷は視線を窓外に向けた。灰色の空に、冷たい風が走っていた。
「……本当の戦は、これからだ」
その言葉は、父の声と、仲間たちの怒声と、己の胸中の決意とを重ね合わせながら、静かに心の奥底で響き続けていた。




