有馬の密談
六甲の山々が錦のように燃え上がっていた。
1927年(昭和二年)の晩秋、神戸有馬の空は澄み渡り、老舗旅館「月光園」の庭を染める紅葉は、見る者の心を奪うほどのあでやかさを見せている。しかし、その燃えるような美しさとは裏腹に、離れの座敷を満たす空気は刃のように冷え切っていた。
部屋の中央、二人の男が火花を散らすような緊張の中、向かい合っている。
一人は、蒋介石。国民党を率いて北伐の途上にありながら、共産党の粛清を行い、そして手痛い敗北を喫して一時下野した中国の新しい龍。日本の支持を取り付け、再起を図るため、この温泉郷に身を寄せていた。
もう一人は、東郷一成。帝国海軍の中枢にあって「制度債」という、誰もその本質を理解できず、されど誰も無視できぬ新しい力を操る謎の男。
異質な二人の間には、さらに三人の男女がそれぞれの思惑を胸に座している。
日本の財政を一身に背負う老練な蔵相、高橋是清。アメリカで教育を受け、新しい中国の夢を見る蒋介石の若き妻、宋美齢。そして、日中の連携による「アジアの解放」を純粋に、しかし熱狂的に信じる陸軍の巨頭、松井石根。
「……東郷大佐。本日、こうしてお会いできたこと、光栄に思います」
最初に沈黙を破ったのは蒋介石だった。その日本語は流暢で丁寧だったが、瞳の奥には、一度は天下を掴みかけ、そしてそれを失った男の焦燥と屈辱が色濃く滲んでいた。数日前、彼は首相の田中義一に北伐への支援を嘆願したが、色よい返事は得られなかった。
失望。それが今の彼の心を支配していた。だが、まだ諦めたわけではない。目の前の海軍の男が、日本のもう一つの「財布」を握っているという噂を耳にしていたからだ。
「こちらこそ、蒋介石閣下。ご媒酌を務めてくださった松井閣下には、感謝の言葉もありません」
東郷は静かに頭を下げた。しかし、その視線はどこか冷ややかだった。
(……アジア主義、か)
彼の脳裏に、アナポリス留学時代の記憶が蘇る。白人たちが当然のように口にする「マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)」 未開の有色人種を我々が導いてやらねばならぬという、あの善意に満ちた傲慢さ。
今、松井石根の瞳の中に、彼はそれと同じ種類の光を見ていた。アジアを善導してやろうという、純粋で、そして危険な光。東郷はその光が父のいう狂気と同根のように思えてならなかった。自らの正義のためならば、平気で身を削り、それを他国にも強制するという。
「東郷大佐」蒋介石は単刀直入に切り出した。
「我が国民党の北伐は、中国を共産の脅威から守るための聖戦です。しかし、そのためには資金が足りない。……貴方が操ると聞く『制度債』とやらで、我らを支援していただくことはできませぬか」
その剥き出しの要求に、松井石根は満足げに頷いた。しかし、東郷は少しも動じない。
「……蒋介石閣下。そのお話の前に、まずはこちらをご覧いただきたい」
東郷は懐から一枚の紙片を取り出した。上海の闇市場で出回っているという、「偽造制度債」の現物だった。
「……これは?」
「貴方の部下の一部が、我々の制度を悪用して作り出した贋物です。……彼らはこれを使い、市場を混乱させ私腹を肥やしている」
蒋介石の顔がみるみるうちに険しくなっていく。傍らの宋美齢も、すっと眉をひそめた。
「……閣下。貴方は我々に支援をお求めになる。しかし、その足元では、貴方の統制から外れた者たちが我々の信用を食い物にしている。……この状況で、我々がどうして貴方を信用できるとお思いか?」
静かだが、刃のように鋭い指摘に、蒋介石は言葉に詰まった。
その絶妙な間合いで、それまで黙って茶をすすっていた高橋是清が口を開いた。
「……蒋介石さん。東郷の言いたいことは、つまりこういうことですわい」
老練な財政家は、にこやかな、しかし一切の感情を感じさせない目で蒋介石を見つめた。
「……あんたが本当に欲しいのは、カネじゃない。国を治めるための『信用』でしょうが。今のあんたには、それがない。部下も、国民も、そして我々日本も、あんたを信用しきれていない。……違いますかな?」
蒋介石は唇を噛み締めた。彼の最も痛いところを突く言葉だった。共産党を粛清したことで、彼の軍はその最も規律正しい部隊を失い、敗北した。残った部下たちは略奪を繰り返し、民衆の心は離れつつある。
(この島国の軍人が……)
内心の屈辱を、冷めた茶をすすることで必死に抑え込む。偉大な中国をまとめようと戦っている自分に対し、かつて格下と見なしていた相手から説教を垂れられる腹立たしさ。
沈黙を破ったのは、再び高橋是清だった。
「……蒋閣下。松井閣下の熱意はさておき」老財政家は、にこやかな、しかしすべてを見透かすような目で言った。
「今日は商談に参りました。閣下はカネがご入用。そして、こちらの東郷大佐はカネの新しい使い方をご存知だ。……ただ、それだけの話でございますよ」
あまりに率直な物言いに、部屋の空気が少しだけ正直になった気がした。
蒋介石は、初めて東郷の顔をまっすぐに見た。
「……東郷大佐。あなたの噂は上海の商人たちから聞き及んでおります。『制度債』とかいう奇妙な紙切れで、英国の銀行家たちを手玉に取っている、と」
「噂は噂でしかありません」東郷は静かに応じた。
「……私はただ、取引の新しいルールを提案しているだけです。そして、そのルールは、貴殿の北伐にもお役に立てるやもしれません」
彼は懐から、本物の制度債を一枚取り出した。
「例えば、貴軍が漢口の租界から製鉄所を接収したとする。しかし、今の貴軍にはそれを動かす資金も技術者もいない。結果、その製鉄所はただの鉄の塊と化す」
「……」
「しかし、もし、その製鉄所が生産する鉄鋼を担保として、我が海軍がこの『制度債』を発行したとしたら? 我々がその制度債で日本の技術者を雇い、貴軍の兵士たちを労働者として訓練し、製鉄所を再稼働させる。そして、そこで生産された鉄鋼の一部を、我々が制度債の返済として受け取る。……これならば、貴殿は一銭も使わずに、漢口の工業力をその手に収めることができる」
それは、悪魔の囁きだった。宋美齢の瞳が鋭く光った。
「……東郷大佐。それはつまり、我が国の産業の実質的な支配権を、貴方のその紙切れに委ねろと、おっしゃっているのですか?」
「いいえ、奥様」東郷は彼女に初めて微笑みかけた。
「支配ではありません。“共同経営”です。我々はリスクを共有する。そして、利益も共有する。……ただし、一つだけ条件があります」
「……何ですかな」
「この取引はすべて、日本円ではなく、現地の銀貨と、そしてこの制度債だけで決済すること。……これが、高橋蔵相がこの場に同席された理由であります」
是清が、そこで重々しく頷いた。
「左様。東郷大佐のこの仕組みは、あくまで海軍の独自の活動。日本政府としてこれを保証するつもりは毛頭ない。故に、日本の通貨である円をこの取引に巻き込むことは断じて認められん。……これは、あくまであなた方と海軍との“私的な契約”に過ぎぬ、ということをご理解いただきたい」
その言葉に、蒋介石はすべてを理解した。
日本の政府は助けてくれない。だが、海軍というもう一つの「国家」は助けてくれる、と。ただし、それは善意からではない。純粋なビジネスとして。そして、その取引のルールの上では、自分はもはや援助を請う弱者ではなく、海軍と対等のパートナーなのだ、と。
(……屈辱的だ。だが…)
蒋介石は唇を噛んだ。
(……だが、これしか道はない…!)
彼は、ゆっくりと頷いた。
「……よろしいでしょう、東郷大佐。そのお話、乗りましょう」
その夜、密談を終え部屋に戻る廊下で、娘の幸が心配そうな顔で東郷を待っていた。彼女は父の少し疲れたような横顔を見上げ、小さな声で言った。
「……お父様。あの、蒋介石というお方。……信用できる、人、なのでしょうか…?」
東郷は立ち止まると、娘の頭をそっと撫でた。
「……信用など、していないさ、幸」
東郷の声はどこか皮肉めいていた。
「ただ、彼が今、何を一番欲しているか。そして、その欲望を満たすために、彼がどこまで合理的でいられるか。……私が見ているのは、それだけだ」
彼は幸の手を引くと、続けた。
「……そして、もし彼が我々との契約を破るようなことがあれば」
東郷は、窓の外に広がる有馬の深い闇を見つめた。
「その時は我々海軍が、彼のいちばん痛いところを、直接叩くだけだ」
その言葉は、数ヶ月後に起きる済南事件の、そしてその結末の、不気味な予言のようでもあった。
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