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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第一章

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八八艦隊の亡霊

1921年(大正十年)、冬。ワシントンD.C.、パン・アメリカン・ユニオン・ビルディング。


大理石の柱が並ぶ荘厳なホールには、前夜の華やかなレセプションの余韻は欠片も残っていなかった。

いまここを満たしているのは、各国代表が互いを値踏みする視線、そして張り詰めた空気だった。


議長席に立つのは、米国務長官チャールズ・エヴァンス・ヒューズ。

眼鏡の奥の鋭い視線で議場を見渡し、木槌を軽く叩いた。


「……静粛に。それでは次の議題に移ります。

廃艦とされる旧式主力艦のうち、航空母艦へ改装することを認める隻数について。

米英両国からは、各国二隻までとする案が提示されています」


会場がざわついた。

二隻──それは日本にとって、あまりに狙い撃ちの数字だった。

八八艦隊計画で建造中だった戦艦「加賀」「土佐」、巡洋戦艦「天城」「赤城」。

四隻の巨艦は、条約によって不要艦に追い込まれようとしていた。


この議題に至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。予備会合では、米英が主導する線引きに、仏伊が静かな不満を募らせていた。財政と造艦能力で劣る彼らにとって、英米の「常識」は、時に自国の喉元に押し当てられた定規のように感じられる。


議場の空気が一瞬で硬直する。日本代表団の席でも緊張が走った。

その沈黙を破ったのは、列の後方に控えていた一人の若い士官だった。


「……議長、発言をお許し願いたい」


声は静かだが、よく通った。

加藤友三郎大将は振り返り、一瞬ためらったが、軽く頷いて席を譲るよう手で示した。


「日本代表団の技術顧問、東郷一成中佐が意見を述べる」


東郷はゆっくり立ち上がり、各国代表団に深々と一礼した。

会場の視線が一斉に彼に注がれる。


「……議長、並びに諸国の代表閣下。

私は今日この場で、単なる軍艦の数を語るのではなく──むしろ、我々文明国が国家としてどれほど誠実であるか、その点をお伺いしたいのです」


その第一声に、議場がざわめいた。


「我々が解体しようとしている一隻一隻の船体。

それは単なる鋼鉄の塊ではありません。国民が汗と血を流して積み上げた、かけがえのない国家の資産です。それを、ただ政治の都合で溶鉱炉に投げ込む。

その行為は、果たして世界の民衆に対する誠実な態度と言えるのでしょうか」


静寂のあと、再びざわめきが広がる。


傍聴席で見ていたフランクリン・D・ルーズベルトが眉をひそめた。

隣に座る同僚弁護士に、小声で吐き捨てる。


「……東郷か。時間稼ぎの詭弁に過ぎん」


しかしその囁きが、険しい表情とともに周囲に伝わり、波紋のように場の空気を震わせた。


東郷は視線をちらと巡らせ、静かに続けた。


「私は幸運にも、アナポリスで学びました。

さらに、セオドア・ルーズベルト大統領閣下のご厚意により、グレート・ホワイト・フリートとともに世界を巡る機会を得ました。その経験で痛感したのは──海軍力とは砲塔の数を誇示するものではなく、国際社会に安心と安定を与える一つの舞台である、ということです」


彼は一歩前に出る。


「時代の流れとして、巨大戦艦を削るのは避けられぬでしょう。しかし、それを無為に鉄屑にするのは資源の浪費であり、国民の努力を踏みにじる行為です。

むしろ廃艦を航空母艦に改装する余地を、二隻から三隻に広げるべきです。それこそが合理と調和を世界に示す、最も誠実な道であります」


英国代表、サー・デイヴィッド・ビーティー提督が席を立った。


「三隻だと?

東郷中佐、その追加の一隻を最も欲しているのは日本だ。八八艦隊の未成艦を流用する腹づもりではないのか?」


鋭い問いに、会場の視線が再び一成へと集まる。

しかし彼は怯まない。

むしろ柔らかな笑みを浮かべ、答えた。


「Sir Beatty。

それは貴国も同じでしょう。フューリアス、グローリアス、コーレージャス。

英国もまた、多くの巡洋戦艦を抱えておられる。

そして米国も同じです。レキシントン級の巨大な船体が、いま宙に浮いている。私の提案は、日本のためではない。ここにいる全ての国が利益を得る道なのです」


場内がざわめいた。

「……確かに一理ある」「我が国にも利益が」と囁く声があちこちで上がる。

米海軍のウィリアム・プラット提督が低い声で言った。

「合理的ではある。廃艦を進めるためには各国に動機が必要だ」

その言葉が、議場の空気をさらに揺らす。


傍聴席のFDRは、堪え切れず隣の同僚に囁いた。

「馬鹿げている。八八艦隊の亡霊を甦らせる詭弁だ。条約の精神は削減にある。転用ではない」

声は抑えていたが、険しい顔とともに周囲に伝わり、空気をざわつかせた。


東郷はそれを敏感に感じ取り、ゆっくりと視線をFDRに送る。


「……Mr. Roosevelt。

削減の精神を守るからこそ、転用なのです。条約は数を減らす。文明は既に為された努力を賢く活かす仕組みを後世に残す。それだけの話です」


議場がどよめいた。

言葉は静かだが、退路を断つ硬さがあった。ホールの空気が、一瞬だけ吸い込まれる。フランス代表席の端から、控えめな拍手が起こり、イタリアの席でも頷きが増える。英国の列の中でも、小さな視線の交差が起きた——政戦両略の計算が、頭の中で高速に回転を始めた証だ。


ヒューズが木槌を軽く打ち、声を整える。


「静粛に。本件については、技術的検討に値すると判断します。拙速は避けるべきです。短い休憩を挟み、各代表団で協議の上、結論案を持ち寄ることを提案します」


木槌の音に、椅子の脚が床を鳴らし、翻訳原稿が束ねられる。ホールの外の回廊へ、人の流れが雪崩のように押し出された。大理石の壁に低い英語と仏語と伊語の囁きが反射し、短い会談の輪がいくつも生まれる。


日本代表団の控室。扉が閉じられると同時に、空気は濃度を増した。加藤は椅子に腰を下ろすと、しばし無言で東郷を見つめ、やがて小さく息を吐いた。


「……大胆だな」


東郷は深く頭を下げた。額に汗はない。喉の乾きもない。言葉を出し切った空白だけが、体内で静かに震えている。加藤は視線を横へ移し、随員に短く指示を飛ばす。


「仏伊の反応をもう一度拾え。英の内心もだ」

(押し切られるはずの場面で、ひっくり返した。奇策というより、あの若造、相手の喉の渇きに水差しを持って立った、というところか。……よかろう。流れに乗ると決めたなら、乗り切る)


回廊の別の一角では、仏代表が伊代表の肩を軽く叩いていた。


「——資源の節約だ、君。見たまえ、日本の若いのは我々の痛いところを正確に押している。空母、と彼は言ったが、我々は沿岸航空隊でもいい。条約の範囲内なら、体裁はどうとでもなる」


英国の小さな輪では、海軍と外務が言葉の温度で押し問答している。

「三隻は多い」「だがフューリアスの扱いを考えれば、二では足りん」「日本に貸しを作るのは危険だ」「貸しというより取引だ。彼ら一国だけを利する案ではない」

短い休憩の後、再開された会議でフランス代表が発言した。

「資源を有効活用するという点で、日本の提案は理にかなう。われわれも賛同する」

イタリア代表も続く。

「我が国も検討の価値を認める」

英国代表団の中にも一部賛同の声が混じり、会場の空気は明らかに傾き始めていた。


この日本の若き士官の提案が、停滞した会議を動かし、かつ米英の利益も損なわない絶妙な“落とし所”だと瞬時に判断したヒューズは、咳払いを一つして静かに宣言した。


「……よって、改装可能艦の上限を三隻とする案を、条約の暫定条項に加える。異議はないか」


しばしの沈黙。やがて「異議なし」との声が重なった。木槌が鳴る。


会議場の外、冷たい冬の風が吹き抜けた。

東郷一成は深い呼吸をし、拳を握りしめる。

八八艦隊の亡霊。

それは条約の網に絡め取られて死んだはずだった。

しかし今、その亡霊は、航空母艦という新たな姿で甦ろうとしていた。

傍聴席の片隅で、ルーズベルトは黙したまま議場を去る。

唇に残る苦い囁きだけが、彼の胸の内を物語っていた。

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