戦艦からバナナへ
時:1930年(昭和五年)、初夏
場所:ワシントンD.C. 合衆国議会議事堂・上院外交委員会
ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡る審議は、大詰めを迎えていた。
海軍強硬派の議員たちは、顔を真っ赤にして条約の否決を訴えていた。
「……目を覚ましたまえ、諸君! 重巡の制限など目くらましだ! 13年ルールを認めれば、日本は軽巡の皮を被った怪物を量産する! これは我が国の太平洋防衛線を崩壊させる不平等条約だ!」
だがその熱弁に対する議場の反応は、恐ろしいほど冷淡だった。
東海岸の工業地帯を地盤に持つ共和党のベテラン議員が、あくびを噛み殺しながら立ち上がった。
「議員。貴方は少し、被害妄想が強すぎるのではないかな?」
彼は、一枚の経済誌の切り抜きをヒラヒラと振った。
「つい先日、日本海軍が我が国の造船所に出した発注リストを見たかね?
彼らが大金をはたいて作らせているのは、巡洋艦でも潜水艦でもない。
……旧式の装甲巡洋艦をぶち抜いて作る、『南洋バナナ用の巨大冷蔵倉庫船』だよ!」
議場から、どっと笑い声が上がった。
「おいおい、日本帝国海軍は『八百屋』に転職したのか?」
「大砲を降ろして、代わりに巨大な冷蔵庫を積むだと? 戦争の代わりに果物でも売る気らしいな!」
ベテラン議員は、得意げに続けた。
「……これが、スティムソン国務長官が成し遂げた『軍縮の成果』なのです、諸君!
日本は条約の制限により、もはや新しい軍艦を作れない。だから有り余る資金を、あんな馬鹿げた『平和的商業船』の改造に浪費するしかないのです。
我々は、日本の軍国主義の牙を見事に抜き去ったのですよ!」
ウェスティングハウス社や造船所のロビイストたちから、多額の政治献金を受け取っている議員たちが、一斉に拍手喝采を送る。
「日本の国内を見てください」
ベテラン議員は、さらに畳み掛ける。
「日本の国会は大荒れで、右翼は条約を『国辱』と呼んで暴れている。これは、彼らが我々の突きつけた条件に『屈服した』何よりの証拠です。
このロンドン条約の批准は、偉大なるアメリカ合衆国の、輝かしい外交的・経済的勝利のパスポートなのです!」
強硬派の議員は、絶望的な顔で叫んだ。
「騙されるな!有事になれば……」
「有事には、我々に冷えたバナナでも振る舞ってくれるのだろう!」
ヤジが飛び、議長が木槌を叩いた。
「静粛に! 静粛に!」
数か月後、ロンドン海軍軍縮条約の批准についての採決の結果は、圧倒的多数での「可決(批准)」。
アメリカ合衆国上院は、日本海軍の真の姿を「無害なバナナ商人」へと脳内で勝手に書き換えてしまったのである。
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時:同日
場所:ニューヨーク、街角のニューススタンド
蒸し暑い夏の昼下がり、ニューヨークの街角は、安価なインクの匂いと大衆の熱気に包まれていた。
失業の恐怖に怯え、高価な"医療用アルコール”を買えずに禁酒法下の粗悪な酒で肝臓を壊している労働者たちにとって、1セントで買える大衆紙は、唯一の娯楽であり、精神安定剤だった。
ニューススタンドの親父が、汗を拭いながら声を張り上げる。
「号外だ! ジャップの海軍がまた間抜けな買い物をしたぞ! 今度は鉄クズ船だ!」
議会での「勝利宣言」は、即座に大衆紙の格好のネタとなった。
新聞王ハーストの傘下紙は、一面に巨大な風刺画を掲載した。
そこにはチョンマゲを結った日本の提督が、戦艦の主砲の代わりに巨大なバナナを抱え、泣きながらアメリカの銀行家に小切手を渡している姿が描かれていた。
大衆の反応もまた、議会と同じレベルだった。
「大砲を撃つ度胸がないから、商人ごっこに逃げたんだ。大方ロンドンでうちの提督たちに睨まれて、小便をちびったんだろうぜ!」
「アンクル・サムの偉大な海軍と正面から戦う勇気がないのさ。雑貨屋相手なら、俺たちの親父のショットガンで十分だ!」
「いい気味だ。スープの恩はあるが、これで奴らもただのバナナ商人だ」
紙面は、完璧に計算された「大衆迎合」の配分で構成されていた。スタンドに並ぶイエローペーパーには、ピントのずれた、読者の自尊心を満たすためだけの見出しが踊っていた。
『JAPS BUY HOOVER SHIP WHILE U.S. JOBLESS STARVE!』
(日本人、フーヴァー大統領の船を買う! その裏で米国の失業者は飢える!)
→ 怒りの矛先は「買った日本」ではなく「売った政府」に。
『UNCLE SAM SELLS SEA PRIDE TO ORIENT』
(アンクル・サム、海の誇りを東洋へ売却)
→ 感傷的だが、具体的な脅威を何一つ指摘していない。
『JAP BANKERS DIG DITCH IN GERMANY』
(日本の銀行屋、ドイツで溝掘り)
→ ライン・マイン・ドナウ運河の戦略的意味に全く気づかず、「東洋人がヨーロッパで泥仕事をしている」という人種的優越感でオチをつけている。
『TREATY TRIUMPH: JAPAN FORCED TO BUY OUR JUNK INSTEAD OF BUILDING WARSHIPS』
(条約の勝利:日本、軍艦を作れず我が国のポンコツを買う羽目に)
→ 致命的な誤認。
『NIPPON NAVY: FROM BATTLESHIPS TO BANANAS』
(日本海軍:戦艦からバナナへ)
→ 韻を踏んでいて語呂がいいだけの、中身のない見出し。
極めつけは、ヘラルド・トリビューン紙のあのベン・カーター記者の(編集長に書き直させられた)記事だった。
『JAP ADMIRALS NOW PLAYING BANKER, DIGGER, AND USED-BOAT SALESMAN!』
(日本の提督、今度は銀行屋・穴掘り屋・中古船セールスマンに転職!)
『読者諸君、次に日本海軍が何を始めるか当ててみよう!
軍艦はもう古い。これからは銀行、運河、客船、中古船、そしてたぶん明日はアイスクリーム屋だ!
東京の提督たちは、もはや海軍なのか商工会議所なのか分からない。
この調子なら、そのうち議会で「新型戦艦」ではなく「新型スコップ」の予算を要求するだろう。
アメリカは世界最強の海軍を持っている。だから我々に必要なのは落ち着きである。
相手が海軍をやめて雑貨屋になったのなら、脅える必要などない!』
記事の7割は、ピントのずれた怒りと優越感。
1割は、とにかくアホな記事。
「日本人が買った元アメリカ装甲巡洋艦の冷蔵庫で作る『フジヤマ・アイスクリーム』、レシピ大公開! 抹茶味ってどんな味!?」
そして残り2割。
紙面の隅の目立たない場所に、ベン・カーターのような「勘のいい記者」が書いた不穏な記事が、クロスワードパズルの横あたりに、申し訳程度に押し込められていた。
『――なぜ彼らは中古船のボイラーだけを、最新のウェスティングハウス製に換装しているのか?』
『――彼らが買っている『スクラップ』を全て溶かし、彼らが買った『工作機械』で再構築した場合、理論上は年間数万トンの装甲板が産み出される計算になるのだが、彼らは一体何を作る気なのだろうか?』
しかし、そんな小難しい記事を読む者は誰もいなかった。
大衆は自分たちの足元で、アメリカ合衆国という巨大な船の底板が「雑貨屋のスコップ」によって根こそぎくり抜かれていることに、微塵も気づいていなかった。
この記事を読んだワシントンのヘンリー・スティムソン国務長官は、上機嫌でこのヘラルド・トリビューン紙を上院のロビーで配り歩いたという。
『STIMSON'S MASTERSTROKE:DISARMED JAPAN NOW BUYS BANANA BOATS』
(スティムソンの妙手:武装解除された日本、今やバナナ船を購入)
という編集長が執筆した一面の見出しが、彼の政治的勝利を後押ししていたからだ。
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場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
駐米海軍武官・東郷一成はアメリカの新聞を机の上に広げ、ラジオから流れる「条約批准濃厚」のニュースを聞きながら、コーヒー(※ブラジル産の最高級豆、当然NCPC決済)を飲んでいた。傍らには、呆れ返った顔の副官・伊藤整一と、無表情ながらも微かに呆れの色を浮かべる橘小百合が控えている。
「……おめでとうございます、大佐」
副官の伊藤整一が、安堵の表情で言った。
「これで我々の『巡洋艦』も『補給艦』も、条約の庇護の下で堂々と建造を続けられるでしょう」
「ああ。アメリカの議会が、自ら我々に『無罪のお墨付き』を与えてくれたからな」
東郷は、新聞から目を離した。
「伊藤君。人間というのは、自分が信じたいものを信じる生き物だ。
アメリカ人は『日本はお金はあるが、遅れた滑稽な国だ』と信じたがっている。
だから私は、彼らが安心できる『滑稽なピエロ(バナナ冷蔵船)』を提供してあげたのだ」
東郷は、コーヒーカップを指先で弄んだ。
「もし私が普通の輸送船を真面目に発注していたら、彼らの警戒心は解けなかっただろう。
だが『旧式装甲巡洋艦を冷蔵庫にする』という、常軌を逸した馬鹿げた注文を出したことで、彼らは『日本人はやっぱり馬鹿だ』と安心し、警戒を解いた。
……そしてその馬鹿げた注文で自国の工場が潤うのだから、誰も止める理由がなくなる」
「大佐。彼らは、本気で我々を『八百屋』だと思っているようです」
伊藤が、呆れ果てた顔で言った。
「152ミリのクルップ鋼装甲を持った、排水量1万4,000トンの輸送船。……それが何を意味するのか、彼らの海軍の専門家たちは何も言わなかったのでしょうか」
「言えなかったのだろう」
東郷は、新聞を放り投げた。
「彼らの議会は今、『日本に勝った』という甘い夢を見たくて仕方がない。そこに『いや、あのバナナ船は、我が国の潜水艦の魚雷を食らっても沈まない、化け物じみた補給艦です』などと冷水を浴びせれば、海軍は予算を削られるか、国賊扱いされる。……だから、彼らも口をつぐんだのだ」
伊藤は背筋が寒くなるのを感じた。
太平洋という広大な戦場において、最も恐ろしいのは敵の戦艦ではない。
「弾薬と食料が最前線に届かないこと」だ。
アメリカが二束三文で売り払った旧式装甲巡洋艦の船体。分厚い装甲と、増設された対魚雷バルジ。
そしてその広大なドンガラ(旧式機関と石炭庫の跡地)に、アメリカ製の最新ターボ・エレクトリック機関と、巨大な冷却設備を詰め込む。
それは、マイナス20度を維持できる「7つの巨大な動く要塞冷蔵庫」の誕生を意味していた。
赤道直下のトラック島やパラオ、ニューギニアに、新鮮な肉、野菜、医薬品、そして温度管理が必須な無煙火薬や信管、果ては航空ガソリンを劣化ゼロで大量に届けられる『命の箱』。
「……それにこの記事を書いた記者は、一つだけ真理を突いているな」
東郷は、新聞の『アイスクリーム屋』という一文を指差した。
「灼熱の南洋の最前線で、疲労困憊した兵士たちに『冷たいアイスクリーム』を配給できたら、どれほど士気が上がるか。
伊藤君。ウェスティングハウス社に、大型の業務用アイスクリーム製造機の追加発注を頼む。『バナナの保存用』と言っておけば、彼らも喜んで売ってくれるだろう」
「はっ。直ちに手配いたします」
伊藤は、真顔で敬礼した。
「小百合君」
東郷は、無表情に立つ秘書に声をかけた。
「はい、大佐」
「アメリカの新聞社に、匿名で礼状と『バナナ』をひと箱、贈っておきたまえ。
『素晴らしい宣伝記事をありがとう。おかげで我々のビジネスは安泰だ』とな。
……彼らの言う通り、我々は優秀な『セールスマン』だからな」
小百合は、ほんのわずかに唇を緩めた。
「……承知いたしました。よく冷やした、最高級のバナナをお送りします」
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