装甲冷蔵庫
時:1930年(昭和五年)、5月
場所:ワシントンD.C. アメリカ海軍省・作戦部長室
アメリカ海軍作戦部長チャールズ・ヒューズ大将は、怒りで顔を真っ赤にしながら、デスクの上に置かれた数枚の売却許可申請書類を親の仇のように睨みつけていた。
「……またか。またあの東郷一成か」
書類には、かつて民間へ払い下げられ、中南米航路で細々とバナナ運搬船として使われていた元・平甲板型駆逐艦――『パットナム』『ウォーデン』など数隻の、外国企業への売却許可申請書が綴られていた。
買い手の欄には『南洋フルーツ貿易株式会社(Nanyo Fruit Trading Co.)』とある。いかにも南国の陽気な響きだが、これが日本海軍が裏で出資しているダミー会社であることは、ヒューズの目にも明らかだった。
副官が、力なく説明する。
「昨年の大暴落以降の不況で、バナナが全く売れず、運航していた海運会社が倒産しました。船は銀行に差し押さえられ、競売にかけられましたが……こんな時期に買い手などつくはずもなく、そこに日本の会社が『倒産した会社の債権の肩代わり』という形で、二束三文で引き取ったようです」
「……あの船は、元は我が軍の駆逐艦だぞ!」
ヒューズは吼えた。
「それを、ジャップが太平洋でバナナを運ぶために買うだと? 冗談ではない、有事にはまた武装を積んで軍艦に戻す気だ!」
「ですが提督」副官は首を振った。
「ボイラーは既に民間用に小型のものに換装され、武装も完全に撤去されています。民間船として法的に登録されていますから、ロンドン条約の制限外(非武装の商船)です。売却枠にも入りません。
自由・資本主義の国である我が国において、一私企業間の正当な債権譲渡に伴う売却を、理由なく止める法的根拠がありませんし、何より……」
副官はため息をつきながら、もう一つの分厚いファイルを示した。
「東郷大佐は、このバナナ船の譲渡をスムーズに許可してくれるなら、我々の『最大の頭痛の種』を同時に処分してやると言っています」
ファイルに記されていたのは、ヒューズが見たくもない名前の羅列だった。
それは海軍軍縮条約で「廃棄」の指定を受けながらも、アメリカ海軍が解体予算すら捻出できずに、軍港の片隅で赤錆を晒し続けている『ペンシルベニア型装甲巡洋艦』および『テネシー型装甲巡洋艦』7隻の名前だった。
(CA-4『ペンシルベニア』、CA-5『ウェストバージニア』、CA-7『コロラド』、CA-8『メリーランド』、CA-11『ワシントン』、CA-12『ノースカロライナ』、CA-13『モンタナ』※注:いずれも後に艦名を戦艦に譲り改名された旧式艦群)
「……あの14,000トン級の鉄屑の山を、買ってくれると?」
ヒューズの顔色が変わった。怒りの赤から、困惑、そして微かな期待の色へ。
「はい」
副官が頷く。
「『武装を完全に撤去し、広大な弾薬庫スペースも含めて、完全な巨大冷蔵船兼港湾倉庫として使用する』という条件で、現在の国際スクラップ価格の『3倍』、さらに輸出関連経費なども含め、400万ドルを即金で支払うそうです。
……提督。あの巨大で分厚い装甲(舷側装甲最大152ミリ)を持つ船体を完全に自力で解体する予算は、今の海軍には逆立ちしてもありません。港に置いておけば、赤錆を防ぐためのペンキ代や係留維持費ばかりが、ただただ無駄にかかり続けます。最も、最近は財務省がその維持費も出してくれませんが」
ヒューズは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
脳裏に、数ヶ月前の「議会公聴会」での屈辱が鮮明に蘇る。あの時、予備役艦や不要艦艇の売却を「有事の備え」として渋ったせいで、彼は財務省の官僚と議員たちから「国庫の赤字を垂れ流す無能な軍人」として吊るし上げられたのだ。
いまさら、大砲を下ろして動けなくなった旧式巡洋艦群を出し惜しみして、再び財務省から「税金泥棒の国賊」と罵られる理由など、どこにもなかった。ましてや屑鉄の3倍の現金を払ってくれるというのだ。いまのアメリカ海軍にとって、喉から手が出るほど欲しい「議会への実績(特別収入)」である。
「……売れ」
ヒューズは大仰なため息をつき、万年筆を乱暴に手にした。
「さっさと書類にサインしろ。どうせ武装のない、錆びついた鈍足船だ。バナナでも、マグロでも、好きなだけ腹に詰め込ませておけ」
アメリカ合衆国海軍作戦部長のサインにより、総トン数およそ10万トンに及ぶ、かつてのアメリカの誇りであった巨大装甲巡洋艦7隻が「巨大バナナ冷蔵倉庫」という名目で、日本海軍の手に渡ったのである。
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場所:ペンシルベニア州フィラデルフィア、ウェスティングハウス(W/H)社・レスター工場
日本海軍のダミー会社「南洋フルーツ貿易」から、屑鉄扱いだった旧式装甲巡洋艦群の『冷蔵倉庫船』への魔改造を請け負ったウェスティングハウス(W/H)社の技師たちは、東郷一成から渡された設計図を見て首をひねっていた。
「……ミスター・トーゴー。これは本当にただの『倉庫』ですか?」
W/H社の主任技師が尋ねた。
「ええ。南洋の太陽から新鮮なバナナを守るための、大切な冷蔵庫ですよ」
東郷は、極めて真面目な顔で答えた。
「あの強固な14,000トンの装甲船体の中に、分厚いコルクと最高級のアスベストの断熱材を敷き詰め、我が社の誇る巨大な冷却タービンを積む。そこまでは分かります。
ですが……なぜ、推進用の巨大な『ターボ・エレクトリック機関』をわざわざ新設するのです? 古い石炭ボイラーを降ろすのはいいとして、ただの倉庫なら、船を自力で動かすほどの巨大なモーターは不要でしょう?」
主任技師の疑問はもっともだった。通常、こうした浮き倉庫は自走能力を持たず、移動の際はタグボートに引かせるのが常識である。
東郷は、涼しい顔で微笑んだ。
「赤道直下の南洋で、巨大な船体をマイナス20度に保ち続けるのですよ? 莫大な電力が必要です。大型の発電タービンを積むのは当然の処置です」
「それは分かりますが、その莫大な電力をスクリューのモーターに繋ぐ必要は……」
「強烈な台風が来た時に、自力で安全な海域へ避難できないと、中の大切な食料が台無しになってしまうでしょう?」
東郷は、さも当たり前のような顔で言った。
「それに横揺れを防ぐために、船体の両舷に巨大なバルジを増設する設計にしました。造波抵抗が極端に増えるため、最新のタービンを積んでも速力は19ノット程度しか出ません。
……軍艦としては遅すぎるでしょう。つまり、これはただの『少し動ける冷蔵庫』ですよ。条約上、何の問題もありません」
主任技師は、図面の「バルジ」の精緻な断面構造を見た。
中空で、海水と燃料を何層にも分ける複雑なハニカム構造。
(……これは『対魚雷用防雷隔壁』そのものじゃないか。魚雷を2、3本食らっても沈まないぞ、この化け物冷蔵庫は……!)
図面の意図を察した技師の背筋に、冷たい汗が流れた。
アメリカ合衆国海軍が屑鉄として手放した旧式の装甲巡洋艦が、最新のターボ・エレクトリック機関で自力航行し、分厚いクルップ鋼鉄の装甲と最新の対魚雷バルジを備えた、「沈まない、巨大な移動式・工作・補給要塞」へと変貌を遂げようとしているのだ。
だがW/H社にとって、これは総額2,000万ドルに上る超巨大プロジェクトだ。
しかも相手は未曾有の大恐慌の最中に、全額現金で支払ってくれる最高の超・上顧客であり、さらには自社の筆頭株主でもある。
資本主義のルールにおいて、そんな神のような顧客に「これは軍艦ではないのか」と野暮な文句を言い、自社から莫大な利益と雇用を奪う馬鹿はいないのだ。
技師は図面から顔を上げ、東郷の底知れぬ瞳を見つめ返した。
そして技術者としての良心と愛国心を、そろばんの玉とドルの札束で綺麗に包み込み、プロフェッショナルの笑みを浮かべた。
「……ええ。おっしゃる通りです、ミスター・トーゴー。
バナナを守るために、我々ウェスティングハウスの総力を挙げて、完璧な『冷蔵庫』に仕上げてみせましょう」
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場所:ニューヨーク、ヘラルド・トリビューン紙・編集局
「……ボツだ、ベン。こんな小難しい記事、誰が読むんだ」
経済記者のベン・カーターは、編集長から原稿を突き返され、唇を噛み締めた。彼の目の下には深いクマができている。ここ数週間、彼は日本の海軍がアメリカ国内で買い漁っている「旧式装甲巡洋艦」の行方を、血眼になって追っていたのだ。
原稿のタイトルはこうだ。
『WHY DOES JAPAN NEED SO MANY “CIVILIAN” SHIPS?(なぜ日本はそんなに多くの「民間船」が必要なのか?)』
「編集長! 分からないんですか! 奴らが買ったのはただの中古船じゃない! あれは名目上は民間船として登録されていますが、条約の制限外で前線補給能力を劇的に高める『移動式総合補給基地(Fleet Train)』です!
しかも支払いは我々の市場から吸い上げた金です!
……日本海軍の、東郷一成のやっていることは、戦争の準備そのものです!」
「ストップ、ストップ! もういい、ベン!」
編集長は、大げさに耳を塞ぐふりをした。
「ロジスティクス? 冷凍船? ……退屈だ。死ぬほど退屈だ。そんな記事を読んだら、読者は朝のコーヒーを吹き出す前に寝ちまうよ。
読者はな、不安なんだ。クビを切られ、銀行の預金が引き出せず、見えない不景気に腹の底からイライラしてるんだ。
彼らが求めているのは『世界の複雑な真実』じゃない。『怒りをぶつける分かりやすい的』か、『自分たちはまだ優越しているという安心感』だ!」
編集長は、机の上に散乱している他社のイエローペーパー(大衆紙)の夕刊を指差した。
そこには太く、黒々とした、おぞましいほど単純な見出しが躍っていた。
『JAPS BUY HOOVER SHIP WHILE U.S. JOBLESS STARVE!』
(日本人、フーヴァー船を買う! 失業者は飢える!)
『UNCLE SAM SELLS SEA PRIDE TO ORIENT』
(アンクル・サム、海の誇りを東洋へ売却)
『JAP BANKERS DIG DITCH IN GERMANY』
(日本の銀行屋、ドイツで溝掘り)
「見ろ。これが売れる見出しだ。
日本人がまた何かを安く買い叩いた。フーヴァー大統領が弱腰で国を売った。白人の仕事が東洋人の金で救われた。
……金のない読者はそれを見て、『政府はクソだ! 我々を見捨てた!』と怒るか、あるいは『フン、ジャップは軍艦もまともに自国で造れず、偉大なるアメリカのポンコツをお下がりで買って喜んでる貧乏人だ』と見下して、一時的にスカッとする。それだけでいいんだ」
編集長は、ベンの原稿をゴミ箱に捨てた。
「……いいか、ベン。お前の記事はこう直す」
編集長は白紙のゲラを引き寄せ、極太の黒いペンで殴り書きをした。
『JAP ADMIRALS NOW PLAYING USED-BOAT SALESMAN!』
(日本の提督、今度は中古船セールスマンに転職!)
「……なっ」ベンは絶句した。
編集長は、得意げに記事のリード文を読み上げ始めた。
「『読者諸君、次に日本海軍が何を始めるか当ててみよう! 軍艦はもう古い。これからは銀行、運河、そしてたぶん明日はアイスクリーム屋だ! 東京の提督たちは、もはや海軍なのか商工会議所なのか分からない。
日本は臆病な国だ。偉大なるアメリカ海軍と正面から戦う勇気がないから、戦艦の代わりに我々の“ゴミ”を買い集め、バナナを運んで喜んでいるのだ! 相手が海軍をやめて雑貨屋になったのなら、我々が脅える必要など何もない!』
……どうだ、最高にスカッとするだろう?」
「……正気ですか」
ベンは、震える声で言った。
「そんな記事を出せば、国民は敵の本当の脅威から目をそらすことになります。我々は、自らの手で国民に目隠しをするのですか!」
「我々の仕事は新聞を売ることだ、国家を救うことじゃない!」
編集長は冷たく言い放った。
「いいか、ベン。お前の書いた『日本軍の恐るべき冷凍艦ネットワーク』なんて記事、100人に1人のインテリしか喜ばない。だが俺の見出しなら、10万人の失業者が溜飲を下げて新聞を買うんだ。
……書き直せ。さもなくばクビだ」
ベンは、赤ペンでズタズタにされた自分の原稿を拾い上げた。
インクのシミが、まるでアメリカという国家が流す血のように見えた。
彼は抗議の言葉を飲み込み、黙って背を向けた。
翌日のヘラルド・トリビューン紙の朝刊には、ベンの名前で日本海軍の臆病さと貧しさを嘲笑う、勇ましい社説が掲載された。
その日の新聞の部数は、記録的に伸びたという。
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