絶対量ドクトリン
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ロンドン、セント・ジェームズ宮殿・第一委員会室
主力艦の「17年ルール(売却枠)」というアメリカの救命胴衣が合意された後。
会議は最大の紛糾ポイントである「巡洋艦および駆逐艦(補助艦艇)」のトン数比率交渉へと突入していた。
「……我が国は、アメリカが提示した『対米六割』という基準に、強い違和感を覚えております」
日本全権・若槻禮次郎のその一言に、アメリカ国務長官スティムソンは安堵の息を漏らした。
(やはりな。日本は六割では満足しない。だが、それ以上は絶対に認めんぞ)
「……しつこいぞ、日本代表団。大型巡洋艦(重巡・カテゴリーA)の対米七割は、議会が絶対に承認しないと言っているだろう」
スティムソン国務長官は、机を苛立たしげに叩いた。主力艦で日本が恩を売ってくれたとはいえ、この数字だけは譲れない。
「確かに日本海軍の実力と、昨今の経済的発展は認めよう。だが、世界の海洋の平和維持のためには、やはり合衆国が優位な戦力(対米10対6)を維持する必要がある。
我々には大西洋と太平洋という二つの巨大な海があり、さらにはフィリピンや南米大陸といった広大な『責任範囲』があるのだ」
スティムソンは「責任」という言葉を強調した。
海軍とは、単なる兵器の集まりではない。自国の海外権益と通商路を守る「警備隊」である。守るべき庭が大きく、守るべき財産が多いアメリカこそが、最大の艦隊を持つべきだ――それが、ワシントン条約以来のアメリカの絶対的なドクトリン(大義名分)であった。
それに対し、日本全権の若槻禮次郎は何も言わず、無言で一枚の巨大な世界地図をテーブルに広げた。
それは、アメリカが想定している従来の「太平洋中心の地図」ではない。
南米大陸全域、そして遠くインド洋を越え、スエズ運河を通り、黒海や地中海まで伸びた、新しい『日本の生命線』が、真っ赤なインクで極太に記された地図だった。
「……スティムソン長官。貴国の仰る『責任範囲』とは、具体的にどの部分ですかな?」
若槻は穏やかな、しかし決して逃げ場を与えない声で尋ねた。
若槻の横で、山本五十六少将が、手に持った指示棒で南米大陸を指し示した。
「かつて貴国は南米を『裏庭』とし、モンロー主義のもと、そこを守るために強大な艦隊が必要だと言いました。それは理解できます。
しかし現在。ご存知の通り、南米の主要な鉱山、港湾、そして物流インフラは、我が国の国策資本(NCPC)によって運営され、我が国の商船隊によって日本へと資源が運ばれる『巨大な動脈』へと変貌しました。
……南米の海を守るべきは、今や貴国ではなく、我々日本帝国海軍ではありませんか?」
スティムソンは、言葉に詰まった。
「そ、それは……! しかしフィリピンやグアムの防衛、それに地中海の……」
「さらに」
山本はスティムソンの反論を冷ややかに遮り、指示棒を中東とヨーロッパへ動かした。
「我が国は新たに、ペルシャ湾岸のクウェートにおいて現地のアミール(首長)及びイギリスのアングロ・ペルシャと採掘協定を結び、ルーマニアのコンスタンツァやトルコにおいては、現地政府および企業と共同で巨大な資源開発・物流網の構築に着手しました。
当然、そこへ至る紅海、インド洋の航路帯の安全確保も、我が海軍の『重大な責任(任務)』となりました。
……長官。我々の『守るべき庭』は、ここ数ヶ月で地図の通り、倍以上に広がったのです」
山本は指示棒を下ろし、会議室に居並ぶアメリカ代表団の顔を、一人一人舐め回すように見渡した。
「対して、貴国はどうですか?
南米への投資権益は、流動性確保のために手放した(売却した)。国内経済は不況で混乱し、海外資本は次々と本国へ引き揚げている」
山本の声は、会議室に刃物のように響いた。
「……貴国の『守るべき国益』は減り、我々の国益は増えた。違うでしょうか?」
スティムソンも、海軍作戦部長のプラット大将も、一言も言い返すことができなかった。
「ならば」
若槻が、静かに結論を口にした。
「軍艦の保有比率も、その『責任の重さと広さ』に応じて修正されるのが、真の公平というものではありませんか?」
アメリカが自国の艦隊増強の理由としてきた「アメリカ式の合理主義(海外資産を守るため)」そのものを、寸分の狂いもなくアメリカの顔面に叩き返したのだ。
「国益を守るために軍艦がいる」というのなら。
資本を引き揚げ、海外資産を切り売りして戦略的に「縮小」したアメリカは、それに比例して軍艦を減らしても文句は言えないはずである。
逆に、世界中に権益を広げまくった(買収した)日本は、それを守るために軍艦を大幅に増やす(比率を上げる)正当な理由と『義務』がある。
日本は「軍国主義的な野心」から軍艦を欲しがっているのではない。
あくまで「世界中に広がった国益を守るという、保有国としての当然の責任」として、艦隊を要求しているのである。
「……したがって、我が国はこれ以上、貴国の局地的な艦隊構成を基準として比率を協議することは、数学上・地政学上、極めてアンフェアであると判断します」
スティムソンの息遣いが荒くなった。彼は、論理の防波堤を完全に突破されていた。
「……つまり、何か」
スティムソンは、血走った目で若槻全権を睨んだ。
「貴国は、広大なシーレーンを守るために、『対米七割(10:10:7)』では足りないと。……対米八割、いや、同等を要求するというのか!」
アメリカ代表団が殺気立つ。パリティなど認めれば、議会で吊るし上げられるどころの話ではない。
だが若槻は穏やかに微笑み、山本に目配せをした。
山本は手元の書類をトントンと揃え、信じられない言葉を口にした。
「いいえ。我々は『対米比率』での議論を放棄します」
「……何だと?」
「我が国は、アメリカ合衆国を仮想敵国と見なすから七割が必要だ、と言っていたのではありません。我々の広大なシーレーンを守るためには、純粋な『絶対量』としてそれだけのフネが必要なのです」
山本は、隣に座るイギリス代表、マクドナルド首相とアレグサンダー海軍大臣の方を向いた。
「基準を変えましょう。我々が手本とし、比率の拠り所とすべきは、世界中に植民地とシーレーンを持ち、それを全地球規模で保護している海洋帝国……『イギリス王立海軍』の艦隊構成以外にはあり得ません。
『広大な植民地とシーレーンを守るには、個艦の威力よりも、広大な海域をパトロールする巡洋艦の“数”が必要である』……。
マクドナルド首相、素晴らしいお考えです。我が国も、全く同感です」
マクドナルド首相は、嫌な予感に顔を引きつらせた。
「この点において、我々は偉大なる大英帝国の『絶対量ドクトリン』に深い感銘と共感を覚えました。
英国が『世界中に植民地があるから、他国との比率に関係なく巡洋艦が70隻必要だ』と仰るのなら、アジアから南米、中東から東欧に至る物流網(NCPC経済圏)を構築した我が国にも、それ相応の『絶対量』が必要であるのは自明の理です」
マクドナルド首相は、紅茶を吹き出しそうになった。
日本が、自分たちの「帝国主義の理屈」を完全にパクり、それを正当化の盾に使ってきたのだ。ここで日本を否定すれば、イギリス自身の要求(70隻)も自己否定することになる。
「……そ、それで。具体的な要求トン数は?」
アレグサンダー海軍大臣が、恐る恐る尋ねる。
「我が国もまた、南米から東欧に至る新たなシーレーンを抱える『海洋国家』となりました。その防衛の責任は重い。とはいえ、大英帝国ほどの規模にはまだ達しておりません」
山本は、極めて『謙虚な』数字を口にした。
「重巡(カテゴリーA)、軽巡(カテゴリーB)、駆逐艦ともに、対英7.975割。
……対英八割にすら達しない、誠に控えめな数字で妥協させていただきます」
会議室は、奇妙な静寂に包まれた。
「対英7.975割」。
八割(0.8)ではなく、わざわざ7.975という端数を出してきたところに、「これ以上は絶対に譲らないが、八割未満という顔は立ててやる」という日本の強烈な意志と、老獪な譲歩の演出があった。
イギリスの重巡(カテゴリーA)の上限は『146,800トン』。
その7.975割は、『117,073トン』。
対するアメリカの重巡要求額は『180,000トン』。
つまりアメリカから見れば、日本は18万トンの対米七割(12万6千トン)を諦め、対米6.5割(約65%)という劇的な譲歩を受け入れたことになるのだ。
「素晴らしい! 合理的だ! 日本の『身の丈を弁えた妥協案』に、アメリカ合衆国は全面的に賛成する!!」
スティムソンは、自らの外交的勝利(国内向けの満点回答)に狂喜した。
……だが。
アメリカ海軍の専門家たちは、手元の「カテゴリーB(軽巡洋艦)」の計算シートを叩き出し、一瞬で顔面を蒼白にさせていた。
「ちょっと待て……長官、軽巡の計算が……!」
次期アメリカ海軍作戦部長プラット大将が、スティムソンの袖を青筋を立てて引っ張る。
「イギリスの軽巡枠は、植民地護衛用に広大に設定されているんです(192,200トン)。日本の要求枠はその7.975割、つまり『153,279トン』になります」
「だからどうした?」
「我が国の軽巡の上限枠は、『143,500トン』です。
……つまり日本は今、軽巡カテゴリーにおいて『対米106%(アメリカの絶対量超え)』を合法的にかっさらいました!! 」
スティムソンの笑顔が、無残に凍りついた。
重巡で「お恵み」をもらったつもりが、軽巡の絶対数において、太平洋のバランスを根底から覆す「逆転現象」を許してしまったのだ。しかも史実の保有量(約10万トン)から見て、5万トン以上もの純増である。
「な、なんだと……!? 詐欺だ! イギリスの枠をダシにして、我々の要求量を飛び越えるなど 認められん!! 軽巡でも対米6割にしろ!」
スティムソンが激昂する。
「……長官、感情的にならないでいただきたい」
山本五十六は、能面のような顔で淡々と告げた。
「ご存知の通り、軽巡洋艦(カテゴリーB)は艦隊決戦用ではなく、あくまで『交通保護・哨戒用』の艦種です。我が国は主砲口径制限(6.1インチ以下)も、装甲制限も別途受け入れる用意がある。その攻勢的価値は極めて限定的です。
……量は多いが、攻撃性は低い。何か問題がありますかな?」
量の要求を通す代わりに、用途分類を防御寄りに見せて「攻撃的脅威」を逸らす。見事な論点ずらしであった。
たまらずスティムソンがイギリス側に救いを求めるが、アレグザンダー海相は苦虫を噛み潰したような顔で首を振った。
「……我が国は今回の会議で、『大英帝国の広大なシーレーンを守るためには、いかなる比率にも縛られない絶対量の巡洋艦(70隻)が必要だ』と主張してきた。
……ここで日本が対英八割という基準で計算してきたものを否定すれば、我が国自身の『絶対量論』が根底から揺らいでしまう」
イギリスも自らの論理の罠にハマり、アメリカを助けられない。スティムソンは完全に孤立した。
山本はたたみかける。
「長官、ご安心ください。
我が国は米国軽巡を上回ることそのものに執着しておりません。
ただ、もし貴国がそれを嫌うなら、Article XVIII に従って重巡3隻分を軽巡へ振り替えれば、軽巡総量ではなお優位を維持できましょう。
その代わり、8インチ巡洋艦18隻という貴国海軍の年来の構想は、ここで死にますが」
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