救命胴衣
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ワシントンD.C. 日本大使館
東郷一成大佐はロンドンから届いた第一委員会の議事録のコピーを読み、葉巻の煙をゆっくりと吹き出した。
「……やはりな。英仏が、アメリカの『違法売却』に噛みついたか」
大恐慌による歴史的な税収減と、東郷による「流動性収奪」によって文字通り首が回らなくなったアメリカ政府(メロン財務長官と国務省)は、目先の現金3,000万ドルを手にするために、艦齢18年のワイオミング型戦艦2隻、『ワイオミング』と『アーカンソー』を、地中海の覇権を狙うイタリアに売却してしまったのだ。
当然、ワシントン海軍軍縮条約第18条の「主力艦の第三国への譲渡禁止」条項に真っ向から違反する暴挙であった。
条約の精神を提唱した国が、自ら条約を踏みにじる。
世界の外交舞台において、これ以上の恥辱はない。
「大佐。このままイギリスやフランスがアメリカを追及し続ければ、条約会議そのものが決裂する恐れがありますが」
副官の伊藤中佐が、不安げに尋ねる。
「決裂させては困る」
東郷は、デスクの上のインク壺からペンを抜き取った。
「……溺れる者は藁をも掴む。ならば溺れているアメリカに、『立派な救命胴衣』を投げ渡してやろう」
東郷は一通の暗号電文を一気に書き上げ、伊藤に差し出した。
宛先は、東京の海軍省である。
『米国ノ主力艦売却ヲ擁護スベシ。主力艦ノ廃棄基準ヲ現行ノ20年カラ【17年】ニ短縮シ、老朽艦ノ【条約外売却枠】ノ新設ヲ提案サレタシ。
尚、同枠ノ比率ハワシントン条約ヲ参考ニ【英米10 対 日仏伊6】トシ、我ガ国ハ進ンデ【六割】ノ劣勢ヲ甘受スル態度ヲ示スベシ――』
伊藤は電文を読み、言葉を失った。
「……アメリカの条約違反を、後付けのルールで合法化してやるのですか? しかも、こちらから進んで『6割』の不平等を受け入れるなど……艦隊派が知れば激怒します!」
「いや。加藤寛治大将も納得するさ。堀さんが上手くやる」
東郷は冷たく笑った。
「主力艦(戦艦)の売却枠(金儲けの枠組み)で英米に譲歩したところで、帝国の国防には1ミリの影響もない。
痛くもない腹を見せて『身の丈を弁えたフリ』をし、アメリカに最大の恩を売る。……本命を分捕るためにな」
⸻
時:数日後
場所:東京・霞が関、海軍省・軍令部長室
「ふざけるなァッ!!」
軍令部総長・加藤寛治大将の怒号が、分厚い扉を震わせた。
「対米七割の確保が絶対の国是である! それを、自ら『六割で結構です』と提案するなど、売国奴のそしりを免れんぞ! 堀局長!」
艦隊派の巨頭の怒号に、同席していた将官たちは息を潜めた。
だが軍務局長の堀悌吉だけは、まるで春風を浴びているかのように涼しい顔をしていた。
「総長閣下。誤解なきよう。
我々が『六割で良い』と妥協するのは、現役の戦闘艦の数ではありません。
『古くなって捨てる予定の船を売り飛ばす権利』のシェアです」
堀は、東郷から送られてきたメモを広げた。
「アメリカが艦齢18年のワイオミング型をイタリアに売った。英仏がこれを『条約違反(20年未満の艦の譲渡)』だと非難している。
だから我々は、条約の『廃棄基準』を20年から【17年】に短縮してやるのです。そうすれば、アメリカの売却は『合法な処分』に変わる」
「なぜ我々が、アメリカの片棒を担いでやる必要がある!」
「……総長。計算してください」
堀は、冷徹な声で言った。
「廃棄基準が17年に短縮される。
……我が国の『金剛(1913年竣工)』と『比叡(1914年竣工)』は、今年でちょうど艦齢17年と16年です。来年の1931年、1921年のワシントン条約で定められた10年間の新造禁止規定が解けるころには、2隻とも完全に『廃棄対象』となります」
加藤寛治の動きが、ピタリと止まった。
「……つまり?」
「つまり我々は来年、堂々と改装された『金剛』と『比叡』をフランスあたりに売却し、巨額の現金を手にしつつ……
条約の規定に則り、誰にも文句を言わせずに『2隻分の35,000トン級の最新鋭戦艦の代艦建造』に、前倒しで着手できるということです」
部屋が水を打ったように静まり返った。
加藤の目が、大きく見開かれた。
「……フランス海軍に売る?」
「はい。彼らもイタリアがアメリカ戦艦を手に入れたことでパニックです。現在改装中の金剛型(第一次改装)なら、言い値で買います。『比叡』は改装が遅れていますので、急ぐ必要がありますが。
しかもフランスは、自国の旧式戦艦(クールベ型など)を売り飛ばす『売却枠』の恩恵も受けられる。彼らは全力で我々の『17年ルール提案』を支持するでしょう」
堀はトドメを刺した。
「総長。我々が『売却枠は米英10に対して日本6で我慢します』と殊勝な態度を見せれば、アメリカのスティムソンは涙を流して日本に感謝します。
……ゴミ箱の大きさを米英に譲ってやる代わりに、我々は『新型戦艦』を造る免罪符と、資金を手に入れる。
……これでも、反対されますか?」
加藤寛治は、ワナワナと震え始めた。
怒りではない。「合理性」に対する武者震いだった。
彼らが欲してやまない「艦隊」が、アメリカを助ける(フリをする)ことで合法的に手に入るのだ。
海軍の戦力は1ミリも減らず、むしろ外交的優位を得る。
だが、そのやり方があまりにも「商人」すぎた。
「……貴様らは、本当に海軍軍人か」
加藤は、絞り出すように言った。
「……よかろう。ロンドンの若槻全権に電報を打て。『海軍は、売却枠対米六割を“血の涙を飲んで”受諾する』とな!」
⸻
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ロンドン、セント・ジェームズ宮殿・第一委員会室
会議室の空気は、アメリカ国務長官ヘンリー・スティムソンにとって、まさに針のむしろだった。
「……重ねて申し上げる! 米国がイタリアに対し、ワイオミングとアーカンソーを売却した件は、条約第18条の明確な違反だ!」
イギリスのアレグサンダー海軍大臣が、机を叩いて糾弾していた。
無理もない。フランスが「特型駆逐艦」を手に入れ、イタリアが「アメリカの戦艦」を手に入れたことで、イギリスの地中海艦隊は完全に挟み撃ちにされているのだ。
「あれは『移動式練習用浮体構造物』としての売却であり、戦闘艦ではない!」
スティムソンは苦しい言い訳を繰り返したが、自国の海軍将校ですら目を逸らしている有様だった。誰がどう見ても、主砲塔が残っている3万トンの鉄の塊は「戦艦」である。
アメリカは財政難から目先の3,000万ドル欲しさに、自ら提唱した「ワシントン体制の精神」を泥靴で踏みにじってしまった。その道義的劣勢は、ロンドンでのアメリカの発言力を著しく削いでいた。
その時だった。
日本代表団の席から、山本五十六少将が、助け舟を出すように静かに口を開いた。
「……議長。我が国は、アメリカ合衆国の決定は、極めて『現実的かつ合理的』なものであったと評価しております」
「……何?」
スティムソンが、信じられないという顔で山本を見た。
先日まで激しくやり合っていた日本が、アメリカの違法スレスレの売却を弁護している?
「考えてもみてください」山本は、会議室を見渡した。
「不況下において、もはや第一線で使えない老朽艦を莫大な維持費をかけて港に繋いでおくことは、国家財政への背信です。それを必要とする国に売却し、リサイクルすることは、世界経済の安定に資する行為ではありませんか?」
山本は、手元の書類を一枚、テーブルの中央に滑らせた。
「そこで、我が国からの提案です。
今回のアメリカの英断を、いっそ『条約上の公式ルール』として明文化してはいかがでしょうか。
具体的には、主力艦(戦艦・空母)の『老朽艦売却枠』の新規設定です」
会議室が、にわかにざわめいた。
「また、現在の主力艦の艦齢起算基準は『20年』ですが、技術の進歩を鑑み、これを『17年』に短縮する。
17年を経過した老朽艦は、定められた枠内で、条約外の第三国へ売却可能とするのです」
スティムソンは、心臓が高鳴るのを感じた。
これは……完璧な「救命胴衣」だ!
このルールが新設されれば、ワイオミング(艦齢18年)のイタリア売却は「条約違反」から「新ルールを先取りした合法取引」へと、見事にロンダリング(洗浄)される。アメリカの面目は保たれ、議会からの追及もかわせる。
「……だが、売却枠の比率はどうする?」
イギリス側が警戒して問う。
「我々日本、ならびにフランス、イタリアは、英米に対して劣勢を強いられてきました。しかしこの『売却枠』においては、強欲な真似はいたしません」
山本は、恭しく頭を下げた。
「売却枠の比率は、『英米10 対 日仏伊6』で結構です。我が国は、アメリカの六割の枠しか求めません」
その瞬間、アメリカ代表団の席から安堵の溜息が漏れた。
日本が自ら「六割」を甘受したのだ。主力艦の売却という金儲けの枠組みで、日本が身の丈を弁えた。
フランス代表のブリアン外相も、目を輝かせた。
「賛成だ。我が国も、旧式の『クールベ型』戦艦を持て余している。地中海諸国の海軍が欲しがっていたところだ。枠がもらえるなら大いに歓迎する」
フランスが乗り気になり、アメリカが喉から手が出るほど欲しがっている。イギリスも、これ以上アメリカを追及して会議を決裂させるわけにはいかない。
「……よろしい」
マクドナルド首相が、木槌を手にした。
「主力艦の『17年ルール』および『売却枠の新設』について、各国の合意とする」
コン、と木槌が鳴った。
スティムソンは、深く息を吐き出した。助かった。これでワイオミング問題の後始末がついた。日本も六割で妥協した。案外、東郷や山本も「話の通じる相手」ではないか。
だが。
山本五十六の口元には、冷徹な笑みが浮かんでいた。
「ご賢察、痛み入ります、スティムソン長官。
……さて。主力艦の『艦齢短縮』と『売却処分』の合理性について、英米の皆様にご賛同いただけたところで」
山本は、本命の書類――極厚のファイル――を取り出した。
「本題である、『巡洋艦および駆逐艦(補助艦艇)』の規定に移りましょう」
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




