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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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慰労と投資

 時:1930年(昭和五年)、4月

場所:東京・霞が関、海軍省・経理局長室


 その日、海軍省の金庫番である経理局長・加藤亮一主計中将は、ワシントンから届いた外交行嚢の中身を前に、老眼鏡を何度も拭き直していた。


 目の前にあるのは、東郷一成大佐からの「極秘・臨時出費精算書」である。


 項目:『特務・欧州往復交通費および機密費』

 金額:『500,000ドル(約1,000,000円)』


「……100万円、だと?」


 加藤の手が震えた。

 100万円。当時の小学校教員の初任給が約50円の時代だ。

 この金額があれば、駆逐艦のボイラーを新品に換装できるし、地方の村一つを丸ごと救済できる。


「おい、課長! なんだこれは!

 東郷大佐はアメリカから欧州へ行くのに、黄金の馬車にでも乗ったのか!?

 豪華客船の一等船室を借り切っても、こんな額にはならんぞ!」


 呼びつけられた主計課長は、真っ青な顔で「明細書」を差し出した。


 そこにはドイツ語の領収書(ツェッペリン社発行)と、東郷の達筆なメモが添えられていた。


『摘要:独国飛行船「グラーフ・ツェッペリン」号、全艦チャーター料(2週間分)。および、乗員への口止め料、特別飲食費を含む』


『追記:衣装代(パリ・オートクチュール特注ドレス、婦人用カツラ、コルセット、コニャック等)を含む。……必要経費デアル』


 加藤局長は、天を仰いだ。


「……飛行船を、タクシー代わりに使いおったか。

 しかも、ドレス? カツラ?

 ……帝国海軍の軍人が、女装して空を飛んだカネを、国庫に請求してくるとは……!」


 本来なら即座に却下し、査問会にかける案件だ。

 だがその請求書の下には、もう一枚の書類があった。


『スイス・国際決済銀行(BIS)預託金受領証』

『残高:1,500,000,000ドル(預け金含む)』


 加藤は息を呑んだ。

 15億ドル(約30億円)。


 日本の国家予算(約16億円)を超える巨額が、アメリカ政府の手の届かない安全地帯スイスに、無傷で移動完了していたのだ。


「……局長」

 課長が、震える声で言った。


「アメリカ政府は今、たった500万ドルのために給炭艦を売り、暖房を止めています。

 その裏で東郷大佐は50万ドルを使って、15億ドルを守り抜きました。

 ……保険料率にすれば、わずか0.03%です」


 加藤は、書類を机に置いた。


 ぐうの音も出ない。

 この100万円は、無駄遣いではない。日本経済を守るための、史上最も安上がりで、最も効果的な「防衛費」だったのだ。


「……決済しろ」

 加藤は、力なくハンコを手に取った。


「ただし! 費目は『機密作戦輸送費』だ!

 断じて『女装用衣装代』などと帳簿に残すなよ! 海軍の特級機密だ!」


「は、はいッ!」



 時:同日

場所:海軍省・大臣室


 報告を受けた海軍大臣・岡田啓介と、軍務局長・堀悌吉は、腹を抱えて笑っていた。


「くくっ……はははは!

 聞いたか、堀君。一成のやつ、本当にやりおったぞ!」


 岡田大臣は、涙を拭った。


「女装した後ツェッペリンを借り切って、15億ドルを積んで大西洋横断だと?

 まるで冒険小説だ。ジュール・ヴェルヌもびっくりだよ」


 堀も、ニヤリと笑った。


「しかも、同乗者が南雲(忠一)と松田(千秋)ですからね。

 あの堅物の南雲が、女装した東郷とドイツ料理を食っている姿を想像するだけで、酒が進みます」


 だがひとしきり笑った後、二人の表情は真剣なものに戻った。


「……だが、これで勝負あったな」

 岡田が言った。


「アメリカは、我々の資産を凍結するチャンスを永遠に失った。

 BISに入った金は、スイスの法律と国際条約で守られる。

 我々はワシントンの顔色を窺うことなく、好きな時に、好きな場所で、好きな兵器を買うことができる」


 堀は、世界地図の「スイス」に赤いピンを刺した。


「アメリカは今、国内のゴールドが減るのを恐れて、経済を窒息させています。

 対して我々は、国の外に『第二の財布』を作った。

 ……この財布がある限り、日本はどんな不況が来ても、買い物を続けられます」


「うむ。……して、一成からの伝言は?」


「はい」

 堀は、メモを読み上げた。


『……スイスの銀行家は、信用できます。彼らは国家よりもカネを愛しているからです。

 ただし、手数料は高い。今回の経費(50万ドル)が安く感じるほどに』


 岡田は苦笑した。


「……金持ち喧嘩せず、か。

 まあいい。アメリカと正面から戦争をして何十億ドルも使うよりは、銀行家に手数料を払う方がマシというものだ」



 時:数日後

場所:ワシントンD.C. 日本大使館


「インフルエンザ」から全快した東郷一成の元に、本省からの決済完了の電信が届いた。


『請求書、受領ス。全額決済済ミ。

 追伸:次からは、もう少し安いドレスにせよ(経理局長)』


 東郷は、電信を見て肩を震わせた。


 傍らでは、小百合が呆れたような、しかしどこか誇らしげな顔でコーヒーを淹れている。

「……認められましたね、大佐。貴方の『火遊び』が、国策として」


「火遊びではないよ、小百合君」

 東郷は、窓の外を見た。

 ポトマック川の向こう、アメリカ財務省のビルが見える。

 あの中では今も、メロン長官が1ドル単位の節約に頭を悩ませているはずだ。


「……これは『投資』だ。

 そして我々は、最高のリターンを手に入れた」

 東郷は、デスクの上の手帳を閉じた。  


「さて、世界を揺るがす陰謀劇は一旦ここまでにしておこう。  

……金曜日の夜は、空けておきたまえ。伊藤中佐もだ」


「金曜日、ですか? 新たな会食の予定でしたら――」


「いや、公務ではない。私の個人的なポケットマネーによる『完全な私用』だ。  

私が不在の間、アメリカの監視網を相手に地獄を見た君たちへの、ささやかなお詫びだよ」



 時:その週末・夜  

場所:ニューヨーク・ブルックリン。「ピーター・ルーガー・ステーキハウス」


 創業1887年。ニューヨーク随一の老舗ステーキハウスの奥のテーブルに、三人の日本人が座っていた。

 

 禁酒法下でありながら、この店には「特別な常連客」にだけ密かに振る舞われるワイングラスの中の赤い液体(冷茶と称されている)と、そして何よりも暴力的なまでに分厚い、熟成肉の焦げた匂いが充満している。


「お待たせいたしました、『ステーキ・フォー・スリー』です」


 ウェイターが、ジュージューと音を立てる熱々の大皿をテーブルの中央に置いた。  


 皿の上には、大人の顔ほどもある巨大なポーターハウス・ステーキ。外側はカリッと焦げ、内側は見事なミディアム・レアの赤身が輝いている。溶けたバターと肉汁が混ざり合い、最高の香りが立ち上った。


「……大佐。これは……」  

伊藤中佐が、ゴクリと唾を飲み込んだ。  

連日の胃痛と胃薬の過剰摂取で痩せこけていた彼の顔に、久々に生気が戻っていた。


「遠慮せずに食べたまえ、伊藤君。君の胃壁を修復するには、このピーター・ルーガーの極上の熟成肉が一番だ。少し噛み応えはあるが、アメリカの資本主義の味がするぞ」


 東郷は自らナイフとフォークを取り、大きく切り分けたサーロインの一部を伊藤の皿へ、そしてフィレの最も柔らかい部分を小百合の皿へと移した。


「小百合君も。あの直立不動と、私になりすましてのコーヒー暴飲……本当に苦労をかけた。この肉は、どんな最高級ドレスにも勝る活力になる」


「……恐れ入ります」  

小百合は、相変わらずの無表情を保ちながらも、その手は素早く、かつ優雅にフォークを動かした。彼女の口に肉が運ばれ……一瞬だけ、その冷徹な双眸が見開かれる。


「……味見はどうかな?」と東郷が微笑む。


「……報告書には『極めて強烈かつ官能的な旨味成分が口腔内を制圧した』と記すべきかと。……美味しいです」  

小百合が、ほんのわずかに頬を緩めた。


「美味い!! なんですかこれ!! 胃腸にダイレクトに血と肉が供給されていく感じがします!!」  

伊藤はもはや半泣きで、一切れの肉を咀嚼していた。連日の心労が、肉汁と共に浄化されていくかのようだった。


「そうだろう、そうだろう。ウォール街の連中が破産して窓から飛び降りている間も、この店だけはいつも満席なのだからな」


 東郷一成は、ワイングラス(中身はもちろん禁止されているはずの本物のボルドー産赤ワインだ)を軽く持ち上げた。


「我々の『ゴースト(幽霊)』としての旅と、そして何より、最高の留守番組に。……乾杯」


 ワシントンとヨーロッパを股にかけた巨大な騙し合いの熱狂は、ピーター・ルーガーの肉の焼ける匂いと、三人のささやかな笑い声の中に、静かに溶けていった。



場所:ドイツ・ミュンヘン、ライン・マイン・ドナウ株式会社(RMD AG)本社


 バイエルン州の州都ミュンヘン。その立派なオフィスビルの最上階で、RMD社の社長と、ワイマール共和国のハインリヒ・ブリューニング首相は、頭を抱えていた。


「……首相閣下。運河の建設工事は、完全にストップしています。

 ニュルンベルクまでの水路はなんとか開通しそうですが、そこから先、ドナウ川へ抜けるアルトミュール川の拡張工事と、巨大な閘門ロック群を作る資金がありません」


 ブリューニングは、苦渋の表情で頷いた。

「分かっている。だが、政府には1マルクの余裕もない。

 アメリカからの融資は途絶え、失業者は増える一方だ。共産党とナチスの連中が、街角で『無能な政府を倒せ』と叫んでいる。


 ……運河という『夢』に金を捨てる余裕はないのだ」


 ドイツの悲願である、北海と黒海を結ぶ巨大水路。

 それが今、世界恐慌という名の砂漠の中で干からびようとしていた。


 そこにライヒスバンク(帝国銀行)のシャハト総裁が、一人の日本人を伴って入ってきた。

 東郷一成の金庫番、加納久朗である。


「……首相。その『夢』の続きを、我々の資金で買い取らせていただきましょうか」

 加納は、一枚の投資計画書をテーブルに滑らせた。


『マイン・ドナウ運河 早期完成に向けた特別融資枠の設定』

『総額:4,000万ドル(約1億6,000万ライヒスマルク)。BIS経由での即時決済・年利3.5%』


「よ、4,000万ドルだと!?」

 ブリューニング首相が、椅子から立ち上がった。

 それは建設工事を再開し、数万人の失業者を土木作業員として雇い入れるのに、十分すぎる……いや、過剰なほどの金額だった。


「年利以外の条件は?」

 首相が警戒して問う。これほどの巨額、見返りなしに出すはずがない。


「我々が購入した『水圧プレス機』や『長尺旋盤』。そして今後製造される特殊鋼や工作機械、化学プラントの部品。

 これら超重量物を積載した『日本海軍指定のバージ』が、ライン川からドナウ川へ抜ける際、最優先の通航権(Priority Passage)を与えていただくこと。……それだけです」


 加納は、ドイツの地図を指でなぞった。

 エッセン(クルップ本社)があるルール工業地帯。そこからライン川を上り、マイン川に入り、運河を抜けてドナウ川へ。そのままオーストリア、ハンガリーを抜け、ルーマニアの黒海沿岸へ至るルート。


「我々は、北海(イギリスの庭)やジブラルタル海峡を通りたくないのです。

 イギリスの海軍に、いちいち我々の『買い物の品(戦略物資)』をジロジロ見られるのは、不愉快ですからね」


 シャハトが、首相の耳元で囁いた。

「……閣下。受けなさい。

 これはただのインフラ投資ではない。失業者を救い、ナチスの台頭を防ぐ最強の『公共事業』になる。


 それに……有事の際、我々ドイツにとっても、イギリス海軍に封鎖されない『黒海へのバイパス』が完成するのは、計り知れない国益ですぞ」


 ブリューニングの目に、決意の光が宿った。

「……契約しよう、ミスター・カノウ。

 ドイツの誇る土木技術の全てを注ぎ込み、貴国のために、この大陸を真っ二つに貫く『水路』を完成させてみせる」


いつもお読みいただきありがとうございます。


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水圧プレス機…… 奇しくも史実で63年後に放送された番組『テクノパワー〜知られざる建設技術の世界』(1993年、NHKスペシャル)にてライン・マイン・ドナウ運河が取り上げられた第一回のサブタイトルが『…
日本海軍軍人は女装をする、と誤認が欧米で起きそうだ。
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