幽霊の帰還
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ニュージャージー州、レイクハースト海軍航空基地
大西洋を横断してきた巨大な銀色の葉巻、グラーフ・ツェッペリン号が、係留塔にその巨体を繋いだ。
「いいか、見逃すなよ。怪しい東洋人、特に『肩幅の広い貴婦人』がいたら絶対にマークしろ」
彼らは「女装した日本海軍武官」という信じがたい噂の真偽を確かめるべく、極秘の検問体制を敷いていた。
だが、タラップから降りてきたのは予想外の騒ぎだった。
「道を開けてくれ! 急患だ! 重篤な『船酔い』と『熱病』の患者がいる!」
エッケナー博士をはじめとするドイツ人乗組員たちが、大声で叫びながら一台の担架を運び降ろしてきた。
担架に乗せられているのは、大柄な人物だ。しかし、顔の下半分は分厚い包帯でぐるぐる巻きにされ、体全体が毛布で覆われている。そして何より、強烈な「医療用アルコール(消毒液)」の匂いを周囲に撒き散らしていた。
「おい、待て! その患者の顔を確認させろ!」
ONIの捜査官が立ちはだかった。
その瞬間、ツェッペリン号の貨物ハッチから、乗組員たちが次々と木箱を運び出し始めた。
木箱の横には、デカデカと赤い十字のマークと、こう書かれている。
『For Medicinal Purposes Only(医療用目的ニ限ル)』
『内容物:仏産・高濃度薬用蒸留水(レミーマルタン・コニャック VSOP)』
「おっと、気をつけろ! これは『医療用』の消毒液でしてね! 風邪の特効薬ですよ! 」
ドイツ人乗組員がわざとらしく大声を上げ、木箱の一つを「うっかり」落としてみせた。
ガシャン! という音と共に、芳醇なブドウの香りが冷たい風に乗って広がる。
禁酒法下のアメリカである。メロン財務長官が「医療用アルコール」の枠を拡大したとはいえ、最高級のフレンチ・コニャックなど、市場では砂金よりも価値がある。
周囲にいた基地の整備兵や、税関職員、そしてONIの捜査官たちの視線が、一瞬にしてその「茶色い水たまり」に釘付けになった。
「ば、馬鹿野郎! もったいない!」
「こっちは全部で100箱ある! 大至急、医療機関(という名の酒場)に配送するんだ! 手伝ってくれたら『試供品』を一本やるぞ!」
「俺が運ぶ!」「どけ、俺が先だ!」
現場は一瞬にして、極上の酒を求めるアメリカ人たちの狂乱の渦と化した。
「おい、そこの急病人! 顔を見せろ!」
一人のONI捜査官が職務を思い出し、担架に歩み寄ろうとした。
だが、その前に一台の黒塗りのリムジンが滑り込んできた。
バンパーには、白十字の紋章。スイス大使館の外交ナンバー(DPL)プレート。
そして運転席から降りてきたのは、冷徹な目つきのスイス人運転手だった。
「……止まりなさい。この車両は、BIS(国際決済銀行)の公用車です。外交特権による不可侵権を有しています」
「B、BIS……?」
捜査官は怯んだ。アメリカ政府は孤立主義を貫き、BISに公式参加していない。つまり、アメリカの捜査機関には、この車とその乗客を調べる法的権限(管轄権)が一切ないのだ。
さらにリムジンの後ろからもう一台、重厚なパッカードが横付けされた。
窓が開き、仕立ての良いスーツを着た男が顔を出す。
「彼女は、我々のVIPだ。すぐに病院へ運ぶ必要がある。……何か問題でも?」
男が提示した身分証には『ロスチャイルド&カンパニー投資銀行・ニューヨーク支店長』と記されていた。
スイスの治外法権カーと、ウォール街を牛耳る国際金融資本の私用車。
一介の海軍情報局員が手を出せば、即座にクビが飛ぶ、最強の「見えない防壁」だった。
「……い、いえ。どうぞ、お通りください……」
「BIS」と「ロスチャイルド」。ヨーロッパ金融の二大巨頭の車列が、ただ日常業務を行っているようにしか見えないのだ。日本海軍との接点など、どこにも見出せない。
ONIの捜査官たちは、ただ呆然と遠ざかるテールランプを見送るしかなかった。彼らの手元には、乗組員から配られた「医療用コニャック」の小瓶だけが虚しく残されていた。
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時:同日 夕刻
場所:ワシントンD.C.へ向かう車内
「……やれやれ。息が詰まるかと思ったぞ」
ロスチャイルドの社用リムジンの後部座席。
毛布を跳ね除け、包帯を剥ぎ取った東郷一成は、深く息を吐き出した。
「……あのコニャック(5,000ドル相当)、少し勿体なかったな」
「必要経費ですよ、大佐」
助手席の松田が、包帯を片付けながら苦笑する。
東郷は、車載のバーキャビネットからミネラルウォーターを取り出した。
「BISには15億ドルの流動性を与えてやった。彼らにとって私は最大のVIPだ。
そしてルイス男爵には、3,000万ドルの前払いでCA銀行の命を救い、フランスの干渉から守る『ソブリン・イミュニティ(主権免除)の盾』を与えてやった。
……彼らにとって、私を誰にも見つからないように運ぶことなど、安いチップのようなものさ」
東郷は窓の外、流れるアメリカの景色を見つめた。
それはゴースト(幽霊)の旅だった。
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時:同日 深夜
場所:日本大使館・海軍武官府
一方、武官室の中は地獄のような疲労感に包まれていた。
国務省の役人を「確率論的威嚇」で追い返したばかりの橘小百合と伊藤整一は、抜け殻のようにソファに沈み込んでいた。
「……もう限界です、中佐。次に誰か来たら、私は無言で発砲するかもしれません」
小百合の目は、完全に据わっていた。
「頼むからやめてくれ……外交問題になる……」
伊藤は胃薬の瓶を振ったが、すでに空だった。
その時。
ガチャリと、執務室の隠し扉が開いた。
二人が跳ね起きるのと同時に、そこに現れたのは、少しやつれているが、間違いなく「本物」の東郷一成だった。
「……二人とも。留守中、何も変わったことはなかったかね?」
東郷は実に爽やかな笑顔で言った。
その瞬間、伊藤の膝から力が抜け、小百合は手元にあった書類を思わず握り潰した。
「大佐ァァァッ!! 遅いですよ!!」
伊藤が涙目で叫ぶ。
「いやあ、すまんすまん。大西洋の向こうで、少しばかり『買い物』が多くなってね。
……ただいま」
薄暗い部屋の中で「東郷大佐の軍服」を着た橘小百合の手には、東郷が一日に飲む量を正確に再現するために淹れられた、冷めたコーヒーの空きカップがあった。
「……大佐。お帰りなさい」
小百合は振り返り、一瞬だけ安堵の色を見せた後、すぐにいつもの無表情に戻った。
「ご不在の間、ONIの監視員に対する偽装は全て予定通りに完了しております。
国務省の役人は一名、直接面会を強行してきましたが、書類を突き返して撃退しました。
伊藤中佐の胃薬の消費量は、通常の4.7倍に達しています」
「……ご苦労だった」
東郷は、伊藤と小百合に向かって深く頭を下げた。
東郷はポケットから二つの小さな箱を取り出し、二人に手渡した。
「お土産だ。開けてみたまえ」
伊藤の箱には、パテック・フィリップの最高級懐中時計。
小百合の箱には、美しく繊細なロレックスの婦人用腕時計が入っていた。
「……こ、これは! スイスの……こんな高価なものを!」
伊藤が驚愕する。
「15億ドルの預金通帳(BIS)と、ヨーロッパ重工業界の『白紙委任状』を手に入れてきたのだ。これくらい安いものだよ。私のポケットマネーだ」
東郷は服の埃を落とした。
「……だが、まだ休めない。伊藤君。明朝、ルーマニア大使館に連絡を取れ」
「は? またですか?」
「ドナウ川の物流ルート(DDSG)を使うには、河口の港と、出口の海峡を我々の手で押さえる必要がある」
東郷は、机の上の地図を広げた。
「ルーマニアは今、農業不況で国家財政が火の車だ。あのマッチ王のクルーガーが融資してやる予定だったようだが、代わって私がルーマニアに『NCPC債』と『ドル』で300万ドルを即金で投資してやる。
……条件は、コンスタンツァ港における『日本海軍専用の保税倉庫と専用埠頭』の10年間使用権だ」
翌朝。
ワシントン・ポスト紙の記者が、日本大使館の門前で張り込んでいると、正面玄関の扉が開き、一人の海軍将校がさっそうと姿を現した。
「……おお! 東郷大佐! お加減はいかがですか!」
記者が駆け寄る。
監視のONI捜査官も、慌てて双眼鏡を構えた。
「ええ。日本の民間療法のおかげで、すっかり熱は引きましたよ。
……皆様には、大変ご心配をおかけしました」
東郷は抜けるような青空を見上げて、健康的に笑ってみせた。
ONIの捜査官は、双眼鏡を下ろして隣の相棒に言った。
「……おい。あいつ、本当にただの風邪で寝込んでただけみたいだぞ」
「女装して逃げたなんて、俺たちの考えすぎだったな」
「全くだ。昨日のレイクハーストの騒ぎで、俺たちも疲れてるんだよ」
「チッ。こっちは半月も張り込んでたってのによ。まあいい、昨日のレミーマルタンでいい思いをしたから許してやるか」
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場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部長室
その部屋の空気は、腐った魚のような臭いがした。
アメリカ合衆国の安全保障を担う高官たちが、一枚の木炭スケッチを囲んで、呻き声を上げているからだ。
レイクハースト基地のリンゼイという少尉が記憶を頼りに描いた、『マダム・トウゴウ』の似顔絵。
最新モードのつば広帽子。優雅なドレスの襟元。
だがその首筋は太く、顎のラインは岩のように頑強で、帽子の影から覗く眼光は、獲物を狙う狼のそれだった。
「……ふざけるな」
チャールズ・ヒューズ作戦部長が、絞り出すように言った。
「我々が『パーカー中佐のハニートラップ失敗』という三文芝居の火消しに追われ、日本大使館の『インフルエンザ』をマークしている間に……。
奴は女装して、ドイツの飛行船を貸し切り、国家予算並みの金塊を抱えて大西洋を優雅に散歩していたと言うのか!?」
ONI(海軍情報局)の局長が、もはや切腹寸前の顔色で報告する。
「はっ。……スイスのBIS(国際決済銀行)からの極秘情報によれば、口座開設の手続きは完璧。
名義は『日本海軍・特別会計』ですが、BISの規定およびスイスの銀行法により、米国政府による凍結・差押えは不可能です。
……金は、完全に逃げました」
ドサッ、という音がした。
同席していたメロン財務長官が、椅子から崩れ落ちたのだ。財務次官が慌てて支える。
「15億ドルだぞ……!」
メロンは、虚ろな目で天井を見上げた。
「この国の銀行から吸い上げられ、本来なら国内で還流して経済を救うはずだったドルが、スイスの山奥で塩漬けにされたんだ!
これでは……これでは、ドルの流動性が回復するわけがない! 我々は干上がる!」
ヒューズは、血走った目でONI局長を睨みつけた。
「レイクハーストの検問はどうなっていた!? なぜ、入国時にあの『貴婦人』を怪しまなかった!?」
ONI局長の顔から、さらに血の気が引いた。彼は手元の報告書を持つ手をガタガタと震わせている。
「そ、それが……入国審査の際、ツェッペリン号から『急病人の搬送』がありまして……同時に、船の貨物室から『医療用アルコール』が大量に荷下ろしされ……」
「医療用アルコール?」メロンがピクリと反応した。自分が国庫の足しにするために解禁した、あの制度だ。
「はっ。フランス産の最高級コニャック100箱が……木箱が一つ割れ、香りが広がったことで、現場の税関職員や我々の捜査官の注意が、完全にそちらに逸れてしまい……。
その隙に、急病人に扮した東郷大佐は、スイス大使館の外交特権車両に乗って、悠々と……」
死のような沈黙が落ちた。
「……つまり、だ」
ヒューズ作戦部長の声は、もはや怒りを通り越して、地鳴りのような低音になっていた。
「我が誇り高き海軍情報局のエージェントどもは、国家の存亡を懸けた15億ドルの流出を……『酒の匂い』に釣られて見逃した、と?」
ヒューズは、窓の外の日本大使館を睨みつけた。
あそこにはスイスでの用事を済ませ、何食わぬ顔で帰還した東郷一成が、悠然とコーヒーでも飲んでいるはずだ。
「……逮捕だ! 今すぐ海兵隊を送れ!」
ヒューズが吠える。
「詐欺罪でも、外為法違反でも、公序良俗違反でも何でもいい! 奴をフランクリン刑務所にぶち込め!」
「できません!」
司法長官が冷静に、しかし絶望的な声で止めた。
「彼は外交官(武官)としての特権を持っています。
それに、そもそも『自分の金を、自分で運んで、海外の銀行に預けた』だけです!
アメリカの法律では、資本の移動は自由です! 違法性はどこにもありません!」
「女装して出国したんだぞ!? パスポートの性別偽装とか、入国管理法違反とかないのか!」
「……ツェッペリン号は公海上空を飛んでいました」
司法長官は頭を抱えた。
「公海上の空飛ぶ船の中で、男がドレスを着てはいけないという法律は……合衆国法典のどこにも載っていません……!」
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