守銭奴
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ロンドン、サヴォイ・ホテル。日本代表団宿舎・スイートルーム
窓の外では、ロンドン名物の霧雨が降り続いていた。
だが部屋の中の山本五十六と山口多聞は、フランス側から届いた返電を前に、狐につままれたような顔をしていた。
「……山口君。俺の英語の読み間違いか?」
山本は、首を傾げた。
「いえ、閣下。私のフランス語の翻訳も同じ結論に達しています」
山口は、こめかみを押さえた。
「フランス政府(ブリアン外相)は、我が国が提示した『5,000万ドルのNCPC債特別融資枠』を全額受け入れました。
……しかし、彼らはその資金を『新型戦艦の建造』には一セントも使わないそうです。
全額を、オーストリアの『クレディット・アンシュタルト銀行(CA)』への救済融資として転貸(サヤ抜き)する、と」
山本は、葉巻の火をつけるのも忘れて絶句した。
「……戦艦を、造らない?」
「はい。彼らは『日本の仕掛けた軍拡の泥沼には乗らない。我々は金融で中欧を支配する』と、大層ご満悦だそうです」
沈黙が降りた。
山本が仕掛けた交渉は、極めてシンプルだった。
『イタリアにアメリカの中古戦艦を買わせる』→『焦ったフランスが対抗して日本の金で新造戦艦を造る』→『欧州が勝手に軍拡競争で疲弊する』。
この分かりやすい「罠」を、フランスは華麗にスルーしたのだ。
「……東郷君に連絡だ」
山本は、重い声で言った。
「あいつの『財布』から出た金だ。使い道が変わったなら、報告せねばならん」
⸻
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ベルリン、日本大使館
「……はあ!?」
普段はどんな危機的状況でも泰然自若としている東郷一成の口から、およそ彼らしからぬ、素っ頓狂な声が漏れた。
彼はロンドンの日本代表団からもたらされた暗号電文を、信じられないという顔で三度読み直した。
『仏外相ブリアン、我ガ方ノ5000万ドル融資(年利3.5%)ヲ受諾。
然ルニ、仏政府ハ同資金ヲ海軍拡張ニ使用セズ、オーストリアノ「クレディット・アンシュタルト(CA)銀行」ニ対スル年利6%ノ救済融資トシテ転貸(サヤ抜キ)スル方針ヲ決定セリ。仏政府内デハ「日本ノ軍拡誘導ヲ回避シ、中欧の金融覇権ヲ無傷デ握ッタ」ト自賛ノ声多数』
「…………」
東郷は、額に手を当てて天を仰いだ。
「馬鹿な……。イタリアがアメリカの中古戦艦(ワイオミング型)を買えば、プライドの高いフランスは必ず『我々は日本の金で、もっと良い新造戦艦を造る!』と乗ってくるはずだった。……それが、なぜオーストリアの銀行支援になる!?」
副官の松田千秋少佐が、困惑気味に首を傾げた。
「大佐。……結果的にフランスが我々のドルを借りてくれるなら、目的は達成されたのでは? なぜそれほど狼狽されているのですか?」
「半分成功で、半分最悪だからだ!」
東郷は、机の上の書類を乱暴に掻き回した。
「松田! シャハト(ドイツ帝国銀行総裁)や、BISのコネをフルに使って、オーストリアの『クレディット・アンシュタルト』の財務資料をかき集めろ! 1930年現在の、関連会社分も含めてだ! 大至急だぞ!」
「は、はっ!」
東郷はソファに崩れ落ち、天を仰いだ。
「頭が良すぎて、馬鹿になっているんだ、あいつらは……」
フランスは、世界で二番目に金塊を持っている国だ。オーストリアを支援したいなら、自国の金庫から出せばいいものを。
当時のフランス(第三共和政)は、アメリカに次ぐ世界第2位の金塊保有国だった。ポアンカレ政権以降、彼らはニューヨークやロンドンから狂ったように金塊を吸い上げ、フランス銀行の地下金庫に山のように積み上げていたのだ。
本来なら、他国(成金の日本人)からわざわざ金利を払って金を借りる必要など微塵もない。
ではなぜ老練なブリアン外相は、「日本の借金で、オーストリアの銀行を救済してサヤ抜きしよう!」などというアクロバティックな作戦に飛びついてしまったのか。
理由は単純にして致命的。
当時のフランスは大戦直後のインフレのトラウマから、「金塊は絶対に流出させたくないし、それを担保にお札を刷ることも絶対にしたくない」という異常な緊縮政策【金の不胎化(Sterilization of Gold)】に陥っていたからだ。
要するに、歴史に名を残すレベルの「国家規模の守銭奴」になっていたのである。
「金塊はある。でも手元に流動性がない。だから日本の安いカネ(3.5%)を使ってオーストリアのクレディット・アンシュタルトに高金利(6%)で貸し付ければ、自国の懐を一滴も痛めずに儲けが出る。成金のアジア人の言いなりになるのも業腹だしな」
ブリアンは、「日本の軍拡の罠を華麗に見破って完璧なカウンターを決めた」つもりでいた。
だが、ここで最大の問いが東郷の頭に浮かぶ。
なぜブリアンほどの老練な外交官が、条件交渉でイタリアより有利な条件を引き出す、という使い方(例えば海軍の近代化)をするという選択肢に行かなかったのか?
その答えは一言で言える。
ブリアンは外務大臣であり、財務の専門家ではないからだ。
彼の隣で「使途制限なし」の一言に瞳を輝かせたのは、財務省のフルニエ官僚だったという。本来なら「戦艦を10%割引で買う条件交渉」をすべきところで、「サヤ抜きをしながら中欧を支配する」という財務官僚的な発想が勝ってしまったのだ。
だから、日本の金(3.5%)を借りてCA銀行に高利(6%)で転貸し、2.5%の利ざやをノーリスクで稼ぎつつ、中欧の外交的覇権を握ろうとしたのだ。
だが、その貸出先であるCA銀行は、旧ハプスブルク帝国の不良債権を全て飲み込んだ、今にも破裂しそうな「巨大な弾薬庫」である。そこに年利6%という高金利の重荷を背負わせれば、どうなるか。
「……時限爆弾のタイマーを、自ら早めに行きやがった」
もしCA銀行が破綻すれば、オーストリア国家が連鎖破綻し、ドイツの銀行が吹き飛び、ロンドンが死ぬ。そして当然、フランスが貸し付けた5000万ドルも焦げ付く。
我々(日本)への返済義務はフランス政府に残るが、ヨーロッパ中が大混乱に陥れば、その回収すら危うくなるかもしれない。そして最終的に言えることは、「素直にその金で戦艦を造っておいた方が、フランスにとってもだいぶマシだった」ということだ。
そこへ横浜正金銀行の加納久朗が、青ざめた顔で入ってきた。
「大佐! ワシントンの日本大使館から、連絡です。……伊藤君からです」
東郷はハッとした。
「……そうだな。そろそろ彼女は限界のはずだ」
暗号を解読したメモには、短い悲鳴が含まれていた。
『当機(小百合)、稼働限界に接近中。
(肩パッド)重量と(米メディアからの連日の)取材攻勢により、(精神的・物理的)偽装の維持が困難になりつつあります。至急、本隊の帰還を要請します』
ワシントンD.C.の日本大使館ではアメリカ政府やONI(海軍情報局)の厳しい監視の目が光る中、副官の伊藤整一が指揮を執り、橘小百合が東郷の軍服を着て「病床の東郷大佐」を演じ続けている。
「……早く、アメリカに帰らねばならん。私がワシントンにいないことがバレれば、BISへの預託も、全ての裏工作も水の泡になる」
東郷は立ち上がり、イライラと部屋の中を歩き回った。
すぐにでもツェッペリン号で大西洋を渡りたい。だが、フランスが踏み抜こうとしている「CA銀行」という地雷の規模を正確に測り、損切り(あるいはヘッジ)のラインを引いておかなければ、安心してアメリカには帰れない。
「……全く。私の予想の斜め下を全力で掘り進んでくれる」
その時東郷の脳裏に、ある過去の記憶がフラッシュバックした。
1929年の12月。
東郷は、「南米の不良債権」を15億ドルという高値で買い取り、それをアメリカ政府が認める見返りとして「日本は3年間、NY連銀などアメリカの銀行に置いたドルを金に換えて引き出さない(イヤーマーキングで留める)」という密約を結んだ。
これによりアメリカの金流出は止まり、FRBは安心して「利下げ(金融緩和)」を行うことができたはずだった。
だが、その直後。
「……そういえば」
東郷は、ピタリと足を止めた。
「あの時、FRBが利下げをして市場を落ち着かせようとした瞬間に……空気を読まずに巡洋艦をニューヨークに差し向け、物理的に金塊を強奪して帰ったのは……どこの国だった?」
――フランスだ。フランス銀行の、エミール・モロー総裁だ。
日本の密約によって市場が安定した隙を突き、「今のうちに自分たちだけ逃げ切ろう」と、莫大な金塊を物理的に引き揚げたのだ。
その行動にパニックを起こしたFRBは、金流出を止めるために、わずか数週間で「急激な再利上げ(金融引き締め)」を断行。
この「ストップ&ゴー(急ブレーキ)」が、アメリカの中小企業と銀行に致命的なトドメを刺したのだ。
「……あの時アメリカの実体経済の息の根を止めた、直接の実行犯は……フランスだった」
東郷は、思わず額を押さえた。
「私は……フランスの『金に対する異常な執着』と『他国を顧みない経済合理性』を、過小評価していた」
東郷は珍しく、虚脱したように苦笑した。
自国の利益と金本位制の死守しか頭にない、フランスの金融当局の行動原理を、迂闊にも忘れていたのだ。だが、その奴らに「動機(1929年のパニック)」を与えたのも、「種火(今回の5,000万ドル)」を渡したのも。
全部、自分(東郷一成)だった。
「奴らは、目の前に落ちている小銭(サヤ抜き)を拾うためなら、世界経済という名の森に平気で火を放つ連中だ。……全部、私が撒いた種というわけか」
因果応報。歴史の皮肉とはよく言ったものだ。
数時間後、松田少佐と加納が、血相を変えてCA銀行の財務データを持ち帰ってきた。
東郷はそれを一瞥し、深く息を吐き出した。
「……なるほど。これは銀行じゃない。ハプスブルク帝国の腐った内臓そのものだ。
フランスは、この死体に6%の利息という名の劇薬を打ち込んだのだな」
東郷の頭の中には、すでに弾き出された絶望的な数字があった。
CAが隠し持っている損失は、おそらく10億シリング(約1億4,000万ドル)を下らない。
「……フランスが飛び込んだクレディット・アンシュタルトの『穴(不良債権)』は、5,000万ドル(約3億5,000万シリング)程度で埋まる深さではない」
東郷は、懐中時計を見た。
「松田。……いったん帰るぞ。ワシントンへ。小百合君の肩が、悲鳴を上げている」
東郷は「貴婦人」のドレスをたたみながら、欧州の外交官たちへの呆れと、自らの見通しの甘さへの反省を噛み締めていた。
自分の後始末だ。死に物狂いでやるしかない。
⸻
時:同日
場所:ロンドン、フランス代表団宿舎・カールトンホテル
アリスティード・ブリアン外相は、オーストリア政府からの「特別融資(年利6%)受け入れ」の急電を受け取り、満足げに微笑んでいた。
「……見たまえ、ピエール。我々は一発の弾丸も撃たずに、中欧の支配権を手に入れた」
ブリアンは、側近の財務官僚フルニエに語りかけた。
「これでドイツの野望(独墺関税同盟)は完全に封じ込められた。日本の資金を使って、フランスの盾を盤石にしたのだ。……東郷という男も、我々の高度な外交戦略の前に、都合の良い財布として使われたことに気づいていまい」
「左様でございますね、閣下」
フルニエも追従して笑った。
だが、彼らは知らなかった。
自分たちが手に入れたと思ったその「盾(CA銀行)」が、中身が完全に腐りきった、今にも破裂しそうな「巨大な膿」であり、その膿に日本人の資金という高圧のポンプを繋いでしまったことを。
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