熱帯のトライアングル
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ベルリン、ホテル・アドロン・VIPサロン
ボッシュとの契約書のインクが乾く間もなく、東郷一成は次の戦場に立っていた。
ウンター・デン・リンデン通りに面した最高級ホテル『アドロン』。シャンデリアが天井から垂れるVIPサロンには、暖炉の火が低く燃えている。
部屋には四人の男がいた。
東郷一成、日本帝国海軍大佐。
ヒャルマル・シャハト、ドイツ・ライヒスバンク総裁。
ヨンクヒール・アンドリース・カルネベーク、駐独オランダ大使。
そして、ベルリンに呼び出された巨漢──グスタフ・クルップ・フォン・ボーレン・ウント・ハルバッハ。クルップ鉄鋼のオーナーにして、ドイツ重工業の帝王。
「……さて」
東郷が、テーブルの上に一枚の地図を広げた。
南太平洋。オランダ領東インド(蘭印)の全域が描かれた、軍事用の精密地図である。ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベス。そして地図の右端に、巨大な翼を広げた鳥のような形の島が描かれている。
ニューギニア。
「閣下。単刀直入に申し上げます」
東郷はカルネベーク大使に向き直った。
「日本帝国海軍は、オランダ領ニューギニアとセレベス島に対して、本格的な開発投資を行いたい」
カルネベークの眉が上がった。だが驚きではない。予想はしていた、という顔だ。ハゼマイヤーと龍驤の取引で、日本がオランダとの経済的紐帯を一段深めようとしていることは明白だった。問題は、その「深さ」の程度だ。
「……東郷大佐。我が国の東インド、特にニューギニアは、いまだ大部分が未開の密林です。地図に描かれているのは海岸線だけで、内陸はほぼ白紙同然。資源があるかもしれない。しかし、それは現時点では推測にすぎません。
さらに、あの密林の中での探鉱には莫大な費用がかかる。マラリア、デング熱、赤痢。人間が生きていること自体が困難な環境です。米国のスタンダード・バキュームやシェブロンに参加を打診していますが、彼らも二の足を踏んでいるのが現状で……」
「だからこそ、です」
東郷は、テーブルの上に三枚の書類を左から右へ並べた。
一枚目。
「まず、石油です。ドベライ半島北部――クラモノ一帯の油徴は、地質学的に見て極めて有望です。我々は、BPMと日本海軍の出資による専属の合弁探鉱会社を設立したい。日本側の出資者は南洋興発を窓口とし、実体は帝国海軍が後ろ盾となります」
彼は地図上のドベライ半島を指で辿った。
「探鉱・掘削・パイプライン敷設にかかる初期投資は、約1,500万ドルと見積もっております。その全額を日本側が負担します」
シャハトの目が見開かれた。1,500万ドル。BPMの資本金1,000万ギルダー(約400万ドル)の4倍近い金額を、日本海軍が単独で出すと言っている。
「さらに」
東郷は指を南に滑らせ、ドベライ半島の南端に位置する小さな港町で止めた。
ソロン。
「産出した原油の積み出し港として、ソロンの港湾を大規模に整備します。大型タンカーの接岸が可能な大深度岸壁、クレーン、地中化重油タンク群。約2,500万ドルの投資を想定しています」
カルネベーク大使が、喉を鳴らした。
これは「石油の積み出し港」としては明らかに過大な投資だ。大深度岸壁は大型タンカーだけでなく、戦艦や空母が停泊できることを意味している。
しかし東郷は、何食わぬ顔で続けた。
「加えて、石油探鉱には航空測量が不可欠です。BPMの航空測量チームとオランダ海軍航空隊(MLD)の共同運用のため、ソロン近郊に長大な滑走路と水上機基地も整備していただきたい。約500万ドルです」
カルネベークは眼鏡を指で押し上げ、しばし沈黙した。
彼は外交官だった。言葉の裏を読むのが仕事だ。日本がニューギニアの石油を欲しがっているのは明白。だが、資金を出すのが日本で、採掘権がオランダに残るなら、これは「侵略」ではなく「共存」だ。少なくとも、ウィルヘルミナ女王に報告する際にはそう説明できる。
「……石油だけかね、東郷大佐?」
「いいえ」
東郷は次の赤丸──セレベス島のポマラ──を指した。
「ニッケルです」
そこで初めて、沈黙していたクルップが身を乗り出した。
「ニッケルだと? ポマラの鉱床か」
グスタフ・クルップの声は太く、部屋の空気を揺らした。ドイツ鉄鋼業界の帝王は、その名の通り鋼鉄のような体躯と意志を持つ男だ。
「ご明察の通り。我々およびオランダの調査によれば、ケンダリ周辺のポマラ地区には、極めて有望なニッケル鉱床――無尽蔵のラテライト鉱が眠っています」
軍艦の装甲、大砲の砲身、航空機用の特殊鋼。
近代兵器の製造に不可欠なニッケルだが、日本はこれをほぼ100%カナダかニューカレドニアからの長距離輸入に頼っていた。もしアメリカ海軍による海上封鎖が始まれば、日本の製鋼炉は即座に息の根を止められる。
東郷はクルップの目を見据えた。
「しかしラテライト鉱は、従来の製錬法では処理が極めて困難だ。低品位鉱を効率的にフェロニッケルに還元するには、特殊な技術が要る」
「……ほう」
クルップの鷹のような目が光った。
「我が社の技術を、よく調べているようだな」
「『クルップ・レン法』。貴社が開発した回転炉による低品位鉱の直接還元技術。これを使えば、従来は捨てられていたラテライト鉱から、高品質なフェロニッケルを大量に生産できる」
東郷は、別のファイルを広げた。
「我々はポマラのニッケル鉱床を開発したい。だが日本にはラテライトを処理する技術がない。貴社の回転炉技術を導入し、ケンダリ港に製錬プラントを建設する。もちろん、プラントの設計と技師の派遣は貴社にお願いしたい」
「つまり、ボッシュ博士のロイナと同じ『移植』をやるというわけだな」
「その通りです。ポマラの鉱石を掘り出し、ケンダリで精製し、直接日本へ輸送する。フェロニッケルは装甲板や砲身の原料になる。……そして残りの一部は、当然、ドイツの鉄鋼所にも供給いたします」
最後の一言で、クルップの表情が変わった。
脳裏で計算が走っている。今のドイツは、ヴェルサイユ条約の制限で軍備を制約されている。だが鉄鋼の需要は消えていない。高品質なニッケルの安定供給は、クルップにとっても喉から手が出るほど欲しい。
「……代金は?」
「ポマラの鉱山開発と、クルップ製ロータリーキルン精錬プラントの現地建設。さらに現地発電所の整備。約1,500万ドルです。
加えて精錬されたフェロニッケルの積み出しのため、ケンダリ港――セレベス南東部の天然の良港を、鉱石積み出しの大規模港湾として整備します。約1,000万ドルです」
地図の上で、ケンダリに赤い丸が付けられた。
カルネベーク大使の目が細くなった。
ケンダリは、セレベス海とバンダ海を結ぶ海上交通の要衝である。ここに大規模港湾を作れば、「ニッケルの積み出し」だけでなく、オーストラリアとフィリピンを結ぶシーレーンを押さえる戦略拠点にもなりうる。
だがこれもまた、書類上はあくまで「民間の鉱業インフラ投資」に過ぎない。
クルップは、東郷を値踏みするように見つめた。
「東郷大佐。貴殿は今日だけで、IG・ファルベンの化学帝国を手に入れ、オランダの石油、セレベスのニッケルに手を伸ばしている。……一体どこまで食い散らかすつもりだ?」
東郷は、薄く笑った。
「もう一つだけ、ございます」
東郷は三つ目の赤丸──ジャワ島──を指した。
「マラリアです」
部屋の空気が変わった。シャハトが頷き、クルップが首を傾げた。
「ニューギニアの開発にせよ、ケンダリのニッケル精製にせよ、最大の敵は砲弾ではありません。蚊です」
東郷の声には、冗談の響きが一切なかった。
「熱帯開発において、マラリアによる労働力の喪失は致命的です。一人の技師が倒れれば、プラント全体が停止する。例えばニューギニアの密林に飛行場を建設しようにも、作業員がマラリアで次々と倒れていては、一本の滑走路も完成しません」
東郷はカルネベーク大使に向き直った。
「大使。世界のキニーネ供給の90%以上は、貴国のジャワ島が独占しておられます。我々はジャワのキニーネ農場への出資を通じて、安定供給権を確保したい。これが約200万ドルです」
カルネベーク大使が微かに眉をひそめた。キニーネは蘭印の重要な輸出品であり、その権益に外国資本が入ることへの警戒がある。
東郷はそれを読み取り、すかさず続けた。
「しかし閣下、キニーネだけでは限界があります。天然のキナ皮から抽出するキニーネは、生産量に天候による変動がありますし、副作用も無視できない。そこで……」
東郷は、もう一つの名前を出した。
「……IG・ファルベンが開発中の合成抗マラリア薬── 『アテブリン』。そしてもう一つ、細菌感染症に画期的な効果を持つ合成抗菌薬── 『プロントジル』。いわゆるサルファ剤です」
シャハトが目を細めた。
「……ほう。ボッシュ博士から聞き出したのか?」
「いいえ。スタンダード・オイルとの提携過程で、IG・ファルベンの薬学部門の研究動向は把握しておりました」
東郷は淡々と続けた。
「……IG・ファルベンのボッシュ博士は、既にこのアテブリンの臨床試験データを日本に提供することに合意されています。さらにプロントジルについても、ロイナの技術移転契約の付帯条項として、製造技術のライセンスを含めます。合計約800万ドルを想定しています。
キニーネ農場と合わせて、環境・衛生インフラの総額は約1,000万ドルです」
クルップが、ようやく全体像を掴み始めた。
「……つまり、東郷大佐。貴殿が描いている絵はこういうことか。ニューギニアの石油を掘り、ケンダリのニッケルを精製し、そのために必要なインフラを建設する。その全てを支えるために、まずマラリアという『目に見えない敵』を叩く。天然薬と合成薬の両方で」
東郷は、三枚の書類を扇のように並べた。
彼の声は静かだが、部屋の空気を支配していた。
「……以上をまとめます。ニューギニア石油開発とソロン港の整備に、4,500万ドル。セレベスのニッケル開発とケンダリ港の整備に、2,500万ドル。熱帯医学インフラに、1,000万ドル」
指で紙を叩いた。
「総額、8,000万ドル。日本円にして、およそ1億6,000万円」
室内が、一瞬だけ呼吸を止めた。
8,000万ドル。
当時の日本の年間国家予算が約15億〜16億円。その約10分の1に匹敵する超巨額プロジェクト。通常の民間企業はもちろん、国家予算の枠組みですら容易には吸収できない規模だ。
カルネベーク大使が、声を絞り出した。
「……東郷大佐。この金額は、米国のスタンダード・バキュームとシェブロンが合弁で出すと言っている額の、10倍以上ですよ」
「存じております」
東郷は、微かに口の端を持ち上げた。
「だからこそ、彼らには退場していただきます。閣下」
東郷はカルネベーク大使を見据え、こう続けた。
「この分野においてオランダが米英資本と組む理由は、資金力です。しかし現在の日本は、米英を上回る資金を、条件付きで提供できます。条件は一つ。クラモノ油田及びポマラのニッケルについて、日本海軍が独占的に長期買い取り契約を結ぶことです」
大使は指を組み、しばし沈黙した。
「……東郷大佐。率直に聞きましょう」
老練な外交官の目が、東郷を射貫く。
「貴国は、この投資で何を得ようとしているのですか。石油とニッケルだけではないでしょう。ソロンに戦艦が入れる港を作り、ケンダリにシーレーンを押さえる拠点を置く。……これは事実上、オランダ領の土地に日本の軍事基地を建設するのと同じではありませんか」
直球だった。
東郷は、一拍置いてから答えた。
「閣下。ワシントン海軍軍縮条約の第19条は、太平洋における要塞化の現状維持を定めています。しかしこの条項が適用されるのは、日本・米国・英国の領土に限られます。第三国であるオランダの領土には、適用されません」
大使の目が、わずかに見開かれた。
「我々が求めているのは、『軍事基地』ではありません。石油の積み出し港と、ニッケルの精錬所と、探鉱用の飛行場です。……ただし、それらが『結果的に』大型艦が停泊でき、爆撃機が離着陸できる仕様になっているかもしれない。それは純粋に、工学的な合理性の帰結にすぎません」
シャハトがくくっ、と喉を鳴らして笑った。
「……仮合意の覚書は用意しましょう。ただし最終決定は、ハーグの閣議を経てからです」
カルネベーク大使の分厚い手が差し出された。東郷はそれを握った。
オランダの「治外法権的な拠点」。
IG・ファルベンの「熱帯を制す医学」。
クルップの「資源を錬成する重機械技術」。
そして日本が提供する資金と「空母による安全保障」。
全てが東郷という名のオーケストラ指揮者のもとで、一つの巨大な「制度」として組み上がっていく。
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