時計帝国
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:オランダ・ハーグ、ホテル・デス・インデス VIPルーム
北海から吹きつける冷たい春の風が、ハーグの古いレンガ造りの街並みを叩いていた。
最高級ホテル『デス・インデス』の最上階。分厚いオーク材のドアで閉ざされたVIPルームの中で、エミール・ゲオルク・ビュールレは、生まれて初めて「自分が完全に値踏みされている」という圧倒的なプレッシャーを感じていた。
彼は、スイス最大の民間兵器メーカー『エリコン(Oerlikon)』の事実上の支配者である。
欧州大戦ではドイツ軍の騎兵将校として戦い、戦後はドイツの死の商人(マグデブルク社)の潜入工作員としてスイスに渡り、スイス国籍を取得することで合法的に企業を乗っ取った、冷徹で野心的な男だ。
彼にとって外交官や将軍、あるいは裏社会のフィクサーと血みどろの交渉をすることは日常茶飯事だった。
だが目の前の『女』は、彼がこれまでに出会ったいかなる怪物たちとも異なっていた。
「……お待たせいたしました、ビュールレ殿」
優雅に、だが一切の無駄がない動作で、彼女――マダム・カズコ――は、銀製のティーポットから紅茶を注いだ。
長身。藤色のロングドレスに、毛皮のケープ。つばの広い帽子から覗く黒髪と、冷たい黒曜石のような瞳。
流れるようなカーテシー(挨拶)には王侯貴族のような気品があったが、同時に彼女がソファに腰を下ろした瞬間に放たれた覇気は、まるで戦場を支配する「女帝」のそれだった。
「わざわざチューリッヒから、このようなオランダの片田舎まで足をお運びいただき、感謝いたします」
流暢な高地ドイツ語。その洗練された語り口の裏に、ビュールレはわずかな「鉄の匂い」を感じ取った。
「マダム・カズコ……いや。BIS(国際決済銀行)の極秘口座に、3,000万ドルもの資金を動かせる『東洋の魔女』とお呼びすべきかな」
ビュールレは、葉巻を取り出しながら探りを入れた。
「スイスの我が社で商談をすればよいものを、なぜわざわざオランダのハーグで? しかもあなたは、横浜正金銀行のロンドン支店長(加納)まで同席させている」
ソファの端には、BIS設立委員会の日本代表でもある加納が、愛想の良い(しかし腹の底が見えない)笑顔で控えていた。
「簡単なことですわ」
カズコは帽子をわずかに持ち上げ、ビュールレを射抜くような視線を向けた。
「我が国……日本帝国海軍は、貴社エリコンの20ミリ機関砲(FFシリーズ)のライセンス購入を決定いたしました。ですが、スイス国内で英米のネズミの目を気にしながら、本当の『メインディッシュ』の話をするのは野暮というものでしょう? ここは、女王様が守ってくださる『安全な庭』ですの」
ビュールレの眉がピクリと動いた。
(……オランダ王室の庇護? この女、王室に裏から食い込んでいるのか?)
「メインディッシュ、と言われましても。我々が売れるのは、機関砲とそのパテントだけですが」
「ご謙遜を」
カズコは扇子で口元を隠し、くすりと笑った。
「我々が本当に欲しいのは、機関砲の図面ではありません。貴殿の『スイス国内における自由な行動力』と、そして『世界最高の時計』ですわ」
彼女は扇子を閉じ、テーブルの上に一枚の図面を広げた。
それは、日本海軍の高角砲の砲弾……その先端に取り付けられる「機械式時限信管」の精密な青写真だった。
「ビュールレ殿。現代の防空戦において、敵機を撃ち落とすのは『砲弾の直撃』ではなく、目標の周囲で正確に炸裂する『榴散弾の破片』です。
砲弾が発射され、猛烈な遠心力で回転しながら飛翔飛来する中、内部の小さな歯車と脱進機が一切の狂いなく時を刻み、ミリ秒単位の誤差で起爆する。
……過酷な弾道環境に耐えうる、最強の『時計』を量産できる国は、世界に一つしかありません。あなたたちの国です」
「……確かに、スイスの時計技術は世界一だ。だが、私は時計屋ではない。兵器屋だ」
「ええ。だからこそ、あなたに『時計屋(彼ら)』を束ねていただきたいのです」
カズコは、加納に視線を送った。
加納がアタッシュケースから三つの分厚いファイルを取り出し、ビュールレの目の前に並べた。
「これは……」
ビュールレは書類の表紙を見て、息を呑んだ。
【ターゲットA:Dixi SA】 無数の小規模時計部品メーカーを束ねるエタブリッサージュ(分散生産網)の盟主。現在、軍用時限信管「GPA」を極秘開発中。世界恐慌による受注激減で、外部資本を渇望している。
【ターゲットB:Tavaro SA】 スイス時計の巨人・Tavannes Watchからの無尽蔵のムーブメント供給を背景に持つ、極小部品の大量組み立てメーカー。
【ターゲットC:SIP】 世界最高峰の精度(1ミクロン)を誇るマザーマシン『Hydropticジグボーラー』の製造元。すべての精密部品の「互換性」を保証する技術の源流。
「カズコ女史。これは……」
ビュールレの声が、わずかに震えた。
「スイスの精密加工産業の『心臓部』ではないか。まさか、これを買えと?」
「お察しが早くて助かりますわ」
カズコは、紅茶のカップを優雅に持ち上げた。
「1930年現在、世界恐慌と部品の海外流出の脅威によって、スイス政府は時計業界を『ASUAG(スイス時計産業株式会社)』という巨大なカルテルの傘下に強制的に統合しようとしています。
彼らは今、強固な資金源と、安定した『巨大な顧客』を喉から手が出るほど欲している。
……そこに、スイス最大の兵器メーカーであるエリコンが『軍用信管の巨額の独占発注』という甘い蜜を提げて資本提携を持ちかければ……彼らは喜んで、あなた(エリコン)の下請けになるでしょう」
「待て。待ってくれ」
ビュールレは、冷や汗を拭った。
「日本が直接買えばいいだろう。なぜ、私を間に挟む?
SIPの工作機械や、Dixiの信管技術は、日本の国力を根本から変える劇薬だ。外国資本(日本)がスイスの根幹産業を買い漁れば、英米の諜報機関が必ず嗅ぎつける。……私を隠れ蓑にする気か?」
「あら。人聞きの悪い」
カズコは冷たく微笑んだ。
「隠れ蓑、などという安っぽい言葉は使わないでいただきたい。これは『完全なる合法的保護』ですのよ」
加納が、一枚の書類を指し示した。
「ビュールレ社長。スイスの会社法『無記名株式』のシステムは、あなた自身がエリコンを乗っ取った時に使った手法です。
株主名簿には所有者の名前は記載されない。我々(日本)がBISの匿名口座を通じて、エリコンの無記名株式を秘密裏に引き受ける。
これにより、エリコンは日本から『3,000万ドル(約6,000万円)』という巨額の軍資金をノーリスクで手に入れる。しかし表向きの所有者とサイン権は、スイス国民であるあなた(ビュールレ)のままです」
カズコが言葉を継ぐ。
「そして、資金を得たエリコンがDixiやTavaroを買収する。……これは英米から見れば、単なる『スイス国内の軍産複合体の再編』に過ぎません。
あなたは日本の金で、スイスの時計帝国を合法的に統合し、自らの産業チェーン(生産リング)に取り込むことができるのです」
「……だが、技術の移転はどうする? スイス政府が、機密技術の日本への流出を許すはずがない」
ビュールレの反論に対し、カズコはまるで子供に対するような可哀想なものを見る目をした。
「ビュールレ殿。あなたは兵器屋としては超一流ですが、少し真面目すぎるようですわね。1932年に施行予定の『連邦武器輸出禁止令』の草案を読まれましたか?」
彼女は、草案のコピーをテーブルに滑らせた。
「禁止されるのは『完成した機関砲や弾薬』です。
SIPの『ジグボーラー(工作機械)』や、Dixiの『ピニオン(極小歯車)』、そして起爆薬の入っていない『機械式時限信管の時計ユニット』……これらはすべて『民生用の精密機械』および『時計部品』として扱われます。
中立を掲げるスイス政府は、自国の雇用と外貨獲得のために、これらの『デュアルユース(軍民両用)品』の輸出を喜んで許可するでしょう。……ええもちろん、我々への大量輸出も」
資金は、BISの匿名口座と無記名株式によって隠蔽される。
企業買収は、スイス人のビュールレ(エリコン)がスイス企業を相手に行うため、外国資本規制に引っかからない。
技術移転は、スイスの法律上「時計と工具の輸出」として合法的に行われる。
日本は政治的リスクを負うことなく、スイスという『世界最高の精密時計・工作機械のエコシステム』を丸ごと吸収できるのだ。
「ビジネスですわ、ビュールレ殿」
カズコは、艶然と微笑んだ。
その笑顔は絶世の美女のようでありながら、巨大な肉食獣が獲物の首元に噛み付く寸前の、恐ろしく洗練された殺気を帯びていた。
「貴殿は、エリコンを『スイスの機関砲屋』から、『世界の精密兵器の総合商社』へと成長させることができます。機関砲本体、砲弾、信管、そしてそれらを統合する射撃指揮装置の照準用精密部品まで。全てを自社グループで賄えるようになる。
……これは、ドイツのクルップに匹敵する『兵器帝国』の礎です」
ビュールレの目が、ギラリと光った。
クルップ。
あの名前は、ドイツ軍人として生き、ドイツの敗戦で全てを失い、スイスで「第二の人生」を歩むことを余儀なくされたビュールレにとって、心の最も深い場所に突き刺さる「呪文」だった。
「……一つ、条件がある」
ビュールレは口を開いた。彼の声は、もう震えていなかった。
「日本国内における、エリコン機関砲および信管の製造ラインの構築には、全面的に我々(スイス側)の技術者を派遣し、指導にあたらせてほしい。 我々が手綱を握らねば、宝の持ち腐れになる」
「素晴らしい。そのご提案を待っておりましたわ」
カズコ(東郷一成)は心からの賞賛を込めて、優雅に立ち上がった。
これこそが、彼女が――彼が、最も欲しかった答えだった。スイスの技術を「図面」で買うのではなく、「工場」ごと日本に移植する。ビュールレは見事にその意図を理解し、最高の形で協力に応じたのだ。
ビュールレは、右手を差し出した。
東郷はドレスの裾を微かに撫でながら、手袋をしたままその手を握った。
「……握手の力が、女性にしては少々強すぎるな」
「鉄砲を撃ちすぎたのかもしれません」
「……フン」
ビュールレは、不敵な笑みを浮かべた。
アメリカが自国の戦艦を叩き売りし、ヨーロッパが建艦競争に踊らされている間。
冷たい雨の降るハーグの密室で、日本の防空網を進化させる「最強の時計仕掛けの錬金術」が、密かに、しかし確実に契約されたのだった。
その二日後。
彼らがスイスからグラーフ・ツェッペリン号に乗っていた姿を捉えた写真が、ヨーロッパの通信社を通じて世界に配信されることになる。
そして日本の横須賀で、それを見た一人の少女(幸)が絶叫することになるのを、東郷一成はまだ知る由もなかった。
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「東郷さん、あの女装、完璧すぎません? 」
「うるさい加納君。ヒールを履き、声帯をコントロールして高地ドイツ語を喋るのは、死ぬほど疲れるんだ」
「でも、似合ってましたよ。『女帝』って感じで」
「誰が女帝だ。私は日本のために、泥水ならぬ泥紅を飲んでいるだけだ」
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