留守番娘のため息
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:オランダ・ヘンメロー、ハゼマイヤー社(Hazemeyer)本社工場
オランダ東部の工業地帯。
精密機械メーカー、ハゼマイヤー社の工場に、日本海軍の技術団が訪れていた。
率いるのは、小沢治三郎大佐(昇進)である。
彼らの目の前には、奇妙な機械が置かれていた。
台座が激しく揺れ動いても、その上の照準器だけは、まるで空間に固定されたように微動だにしない。
『三軸安定式射撃指揮装置(Tachymetric Fire Control System)』
アナログ・コンピューターとジャイロスコープの結晶だ。
当時の日本海軍が最も苦手とし、そして最も欲していた「揺れる船から空を撃つ技術」。
「……素晴らしい」
小沢は、感嘆の息を漏らした。
「スイスのエリコン、スウェーデンのボフォース。
我々は最高の『拳』を手に入れたが、それを操る『目と脳』が欠けていた。
……ハゼマイヤー社長。これが、その最後のピースだ」
ハゼマイヤー社長は、複雑な表情で日本刀のような切れ味を持つ将校を見た。
「……しかし、大佐。
この技術は、オランダ海軍の最高機密です。おいそれとは……」
「分かっています」
小沢は、一枚の契約書を提示した。
「だからこそ、我々は『技術を買う』のではなく、『会社に出資』するのです。
さらに……」
彼は、別の書類を重ねた。
『フォッカー社への資本参加、および蘭印向け航空機の共同開発計画』
「我々は、オランダの航空産業そのものを支援します。
そして、『龍驤』というプラットフォームも提供します。
……社長。我が軍が、将来攻め込むつもりの国の軍需産業を、ここまで強化すると思いますか?」
ハゼマイヤー社長は、ハッとした。
そうだ。もし日本が蘭印を武力で奪うつもりなら、オランダ軍を強くするような真似は絶対にしない。
日本海軍が金と技術を提供するのは、「オランダ自身の手で蘭印を守ってもらい、そこから安定して石油を買いたい」という、強烈なメッセージなのだ。
「……なるほど。日本は、ガードマンを雇いに来たというわけですか」
「ええ。ガードマンには、良い武器が必要です」
小沢は、工場の窓から見える曇り空を見上げた。
「この安定化装置を、日本の『高角砲』に組み合わせる。
そうすれば、どんな荒天でも、どんな高速機でも、我々の弾幕からは逃れられない。
……社長。貴社の技術は、日本の艦隊と、そして蘭印の空を守る『盾』になるのです」
商談は成立した。
ハゼマイヤーのジャイロ技術は、日本海軍の次世代射撃指揮装置(後の九四式高射装置)に直輸入されることになった。
これにより日本海軍の対空射撃能力は、史実より10年以上早く「レーダー連動射撃」の前段階――「高精度な盲目射撃(見えない敵を計算で撃つ)」レベルにまで到達したのである。
当時、オランダの射撃指揮装置や、木と布でできた飛行機のために、あの巨大な航空母艦(龍驤)を交渉のテーブルに乗せた日本の決定は、ヨーロッパから見れば「鉄の価値を知らない未開人の愚行」にしか見えなかった。
……ただ一人、ドイツの飛行船で乗り込んできたあの「未亡人」の恐ろしさに気づいた、一部を除いては。
⸻
場所:横須賀、東郷邸の書斎
春の陽気が差し込む書斎で、東郷幸は、義父である東郷一成のデスクに広げられた新聞や雑誌の山を整理していた。
一見すると、良家のおとなしい令嬢(とはいえ、その所作にはどこか庇護欲をそそる儚げな愛らしさがある)が、義理の父親について調べ物をしているだけの微笑ましい光景だ。
だが、彼女の頭の中――21世紀の記憶を持つ女子高生の脳内――では、猛烈なスピードで情報が処理され、そして呆れ果てていた。
「……お父様ったら、またこんな『エグい』取引を」
幸は、『ニューヨーク・トリビューン』紙の翻訳記事を指先で弾いた。
『日本、未完成空母をオランダへ売却し、射撃計算機の特許と飛行機会社の株を取得。帝国海軍の狂気か? 鉄の船体を売り払い、歯車と紙切れを買う愚行』
記事には、そんな見出しが躍っていた。隣には「戦艦を売って最新駆逐艦を作るアメリカ海軍の賢明なスクラップ・アンド・ビルド」を称賛する論説が並んでいる。
「この時代の常識って、本当に脳筋だよねぇ……」
幸は、呆れたように呟いた。
当時の軍事知識の常識(つまり、お父様の同僚である山本五十六少将や南雲大佐たちの常識)では、この取引はかなり「思い切った外交のカード」の一種にすぎない。
彼らにとっての主役はあくまで「空母・龍驤」であり、オランダから手に入れる射撃用の装置(FCS)や飛行機の設計図などは「おまけ」だと思っているフシがある。
「……本当の価値は『鉄』じゃなくて、『情報』の方なのに」
幸は、自分の前世(21世紀)の知識を総動員して、この取引の「本当の恐ろしさ」を再構築した。
【日本のトレード:龍驤の船体(鉄) ⇔ ハゼマイヤーFCS(脳みそ)】
1930年の人間は笑うかもしれない。「空母を売って、大砲の狙いをつける計算機を買った? バカじゃないのか」と。
だが、21世紀の兵器体系を知る幸からすれば、これは「スマートフォンの『外箱』と『ソースコード』を交換した」のに等しい。
「どんなに立派な大砲を作っても、当てられなきゃタダの鉄の筒だよ。ハゼマイヤーの三軸ジャイロとアナログ計算機……これって要するに、のちの『イージス・システム』の超・ご先祖様だよね。これを1930年代に連合艦隊に標準装備化したら……日本の防空網は『化ける』」
幸は、自分の想像した未来図に少しだけ身震いした。
空母(龍驤)一隻ぶんの鉄板など、後から日本のドックでいくらでも作れる。だが「システム統合」という概念だけは、自力で開発するには何十年もかかるのだ。それをオランダから「合法的に強奪」した。まさしく錬金術である。
一方で。
「……それに比べて、こっちは何やってるの?」
幸は、もう一つのファイル――『米国によるワイオミング型・伊国特例売却問題』――を開き、思わず吹き出しそうになった。
【米国のトレード:旧式戦艦の船体(鉄クズ) ⇔ 大型駆逐艦の予算(小間物)】
ワシントンの海軍省は、今頃「やったぜ! ポンコツをイタリアに押し付けて、ポーター型を作る金をもぎ取ったぞ! これでジャップの特型に対抗できる!」と祝杯を挙げているだろう。
「あのさぁ……」
幸は、少しだけ意地悪な冷たい目で、アメリカ海軍の顛末書を睨んだ。
「大艦巨砲主義の時代に『戦艦を売って駆逐艦を作る』っていう、政治的な泥水を飲んだ心意気だけは評価してあげるけど。
……本質的に、やってることは『鉄と鉄の交換』でしかないんだよね。システム(脳みそ)の更新が全く伴っていない。しかも、相手が『アレ』なんだよねぇ」
幸は、別の新聞(イタリア海軍の動向を報じる記事)を見た。
そこには、ヴェネツィア広場で演説するムッソリーニの写真が載っている。
「アメリカは自分たちで『地中海のパワーバランスをぶっ壊す特級呪物』を売り飛ばした自覚、絶対ないよねコレ」
さらにイタリアから「ブレダ機関砲」を売り込まれているという情報に、幸は頭を抱えた。
「……ブレダ? あの、給弾が複雑すぎてすぐジャムる、伝説のポンコツ機関砲?
アメリカさん、まさかそれを『最新鋭対空火器』として採用する気じゃないでしょうね……?」
彼女は、ワシントンの方角を向いて合掌した。
「……米海軍の方々。ご愁傷様です。
お父様は『脳みそ』を買いましたが、貴方がたは『厄介なオモチャ』を買わされそうです」
幸は、パタンとファイルを閉じた。
「……でもお父様って、ちょっと性格悪いよね」
幸は、誰に聞こえるわけでもなく呟いた。
「アメリカ人を『俺たちの海軍は有色人種より優れている』っていうレイシズム的な優越感の中で心地よく眠らせたまま、その足元の床板を根こそぎチェーンソーで切り抜いてるんだもん」
彼女は、デスクの上の東郷の万年筆をキュッと磨いた。
「でも、そういう『勝つためには手段を選ばない(というか敵の傲慢さを利用する)底意地の悪さ』……嫌いじゃないかな」
幸は、少女らしい無垢な笑顔――しかしその奥に底知れぬ洞察力を秘めた表情――で、春の空を見上げた。
幸は紅茶をもう一口飲み、最後に一番分厚い『帝都日日新聞』の一面を開いた。
一面のトップ記事は、『日本帝国海軍、米国での緊急配給事業を終了。撤退へ』という大見出しだ。
「あー、ついに終わるんだ。FDRあたりが、今頃血涙を流しながら残飯ならぬ『GE製最新オーブン』の引き継ぎやってるんだろうなぁ……」
幸が記事の本文に目を落とそうとした、その時だった。
記事の脇に添えられた、小さな一枚の通信社配信の「ヨーロッパの風景」という写真に、彼女の視線が釘付けになった。
キャプションには『スイスを飛ぶ飛行船グラーフ・ツェッペリン号と、謎の東洋人貴婦人』とある。
巨大な飛行船のタラップの前に立つ、一人の女性。
藤色のロングドレス、毛皮のケープ、つばの広い帽子。
白黒の粗い網点印刷だが、その立ち姿の圧倒的な「気品」と、そして何より――その顔の骨格に、幸は見覚えがありすぎた。
「…………え?」
幸は、目を擦った。
もう一度見た。
その隣には、「秘書」のようにうやうやしく控える男(どう見ても、アメリカに赴任される前に挨拶をしてくれた松田千秋少佐だ)の姿も小さく写り込んでいる。
「…………」
幸の顔から、スーッと血の気が引いた。
「ちょっと待って。待って待って待って」
彼女は新聞を顔に近づけ、穴があくほどその「貴婦人」を見つめた。
上品に微笑んではいるが、よく見ればその肩幅は女性にしては異常に広く、ドレスの下の体躯は鍛え抜かれた海軍将校のものである。
「…………お、お父様ァァアアアッ!?」
書斎に、令嬢らしからぬ絶叫が響き渡った。
「な、な、なんで!? なんでヨーロッパでコスプレしてんの!? しかも何あの『私、ヨーロッパの社交界を牛耳る未亡人ですが何か?』みたいな、堂に入りすぎたポージング!!」
幸は、頭を抱えて突っ伏した。
「いや、オランダやスイスと駐米武官の身分で非公式に接触するために『変装』が必要だったのは分かる! 分かるけど! なぜそこで『マダム』をチョイスするのよ! 帝国海軍の特殊工作スキル、どうなってんの!?」
前世の女子高生としての羞恥心が、父親の規格外の行動力によって木端微塵に粉砕された瞬間だった。
「……あー、もう」
幸は真っ赤になった顔を上げ、もう一度その写真を見た。
「でも……」
悔しいが。めちゃくちゃ悔しいが。
「……背が高くて足が長くて顔が良いから、悔しいけど似合ってるのよねぇ……この『マダム』」
幸は、パタンと新聞を閉じた。
「……帰ってきたら、絶対にアルマーニのスーツ(男装)をオーダーメイドで着せてやるんだから。……早く帰ってきてね、お父様」
1930年の春。
世界が軍縮と恐慌の泥沼で喘ぎ、東郷一成がヨーロッパの裏側で暗躍する中。
横須賀のお屋敷では、幸は写真の中の「藤色のドレスの貴婦人」に、小さく小さく微笑んでいた。
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