回転式物干し竿
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:イタリア・ローマ、ヴェネツィア宮殿
その日のローマは、地中海の陽光に祝福されていた。
ヴェネツィア宮殿の2階、ムッソリーニの執務室「地図の間(Sala del Mappamondo)」は、本来なら国家の威厳で満たされるべき空間だが、この日はどちらかといえば酒場の雰囲気に近かった。
ベニート・ムッソリーニ首相は、バルコニーに通じる窓を開け放ち、ローマ市民が行き交うヴェネツィア広場を見下ろしながら、キャンティの赤ワインを豪快に煽っていた。
「見たか、ガレアッツォ!」
ムッソリーニは、娘婿のガレアッツォ・チアーノ(当時はまだ外交官見習い)に向かって、上機嫌で怒鳴った。
「ヤンキーどもは、金のためなら魂も売るようだぞ! フフン、所詮は成金の国よ。歴史を持たぬ野蛮人め!」
チアーノは義父の上機嫌が続くことを祈りながら、契約書の束を差し出した。
「ドゥーチェ。改めてアメリカ側はワイオミングとアーカンソーの2隻を、装甲の一部を撤去した『練習用浮体構造物(Mobile Training Hulk)』として引き渡すと言っております。購入価格は2隻で2,400万ドル。別途、附属品対価として600万ドル」
「浮体構造物!」
ムッソリーニは腹を抱えて笑った。
「30センチ砲を12門も積んだ浮体構造物! アメリカ人の辞書には『恥』という単語がないらしいな!」
笑いを収めると、ムッソリーニは窓から室内に戻り、壁に掛けられた巨大な地中海の地図の前に立った。
「さて、ガレアッツォ。ここからが我らローマの仕事だ」
彼は、地図のツーロン(フランス海軍の母港)を太い指で叩いた。
「フランス海軍が現在保有する戦艦は7隻。さらに、日本から特型駆逐艦の図面を買って、あの忌まわしい『ル・ファンタスク型(超大型駆逐艦)』を建造しておることは知っておろう。さらに、ダンケルク型の高速戦艦まで計画中だ。
……我がイタリア海軍は現在、まともな戦艦がカブールとドリアの旧式4隻しかない。このままではフランスに地中海の制海権を握られる」
「しかしドゥーチェ。ワイオミング型は旧式です。速力も21ノットでは……」
「速力など、後でどうにでもなる!」
ムッソリーニは、自信満々に胸を張った。
「我がアンサルド社とOTO社の技師たちを見くびるな。カブールの改装案であれだけの魔術を見せたのだ。ワイオミングにも同じことをやらせる。主砲を1基撤去し、機関を全交換し、しかるのち主砲を32センチ砲へボーリング化する。速力28ノット、2年半でまったく別の艦に生まれ変わらせてやる」
「……それは、事実上の新造では」
「呼び方は問題ではない。要は、地中海に32センチ砲が20門増えるということだ! フランス海軍があの傲慢な鼻をへし折られる日は近いぞ!」
ムッソリーニは、ワインの残りを一気に飲み干した。
「それにだ、ガレアッツォ。この取引で最も愉快なのは、アメリカ人自身が条約を破ったという事実だ」
「と、いいますと?」
「考えてみろ。つい先日まで、ワシントンの学者どもは世界に向かって『軍縮だ』『条約を守れ』と説教していた。それが今や、自分たちの戦艦を裏口から売り払っている。……世界中が見ているぞ。『アメリカの正義』とやらが、いかに薄っぺらいか」
彼は、巨大な地図の前で腕を組んだ。
「今後、英仏が我がイタリアに対し『条約を遵守せよ』と迫ってきたら、我々はこう言えばよい。――『アメリカが先にやった。文句はワシントンに言え』と! ハッハッハ!」
キャンティの赤ワインを飲み干したムッソリーニは、上機嫌のままチアーノの肩をバンバンと叩いた。彼にとっては、アメリカが自分たちの中古戦艦を「浮体構造物」と言い張って売りつけてきたこの状況は、外交的勝利以外の何物でもなかった。
1930年。大艦巨砲主義の時代。
ヨーロッパの指導者たちにとって、「戦艦の砲門数」がそのまま国力を意味していた。
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時:1930年(昭和五年)、4月
場所:ロンドン、フリート・ストリート(新聞街)
大英帝国の新聞記者たちは、久しぶりに美味しいネタにありついて活気づいていた。
フリート・ストリートのパブでは、昼から各紙の記者たちが大ジョッキのエールを傾けながら、アメリカの話題で大盛り上がりだった。
「聞いたか? アメリカが戦艦を『浮体構造物』と呼んでイタリアに売ったそうだ。もっと傑作なのは、ヤンキーどもが自国内で繰り広げている『スープ騒動』だ」
「嘘だろう? いや、嘘であってほしいが?」
「嘘じゃないから面白いんだ! さあ、今日の原稿を書くぞ! こんなネタ、十年に一度だ!」
翌朝のロンドン。各紙の朝刊は、空前の「アメリカ弄り」祭りだった。
まず先陣を切ったのは『タイムズ』紙である。
一面の風刺漫画担当デイヴィッド・ロウ画伯は、徹夜で傑作を仕上げていた。
描かれていたのは、シルクハットにストライプのズボン姿のアンクル・サム(米国の擬人化)が、巨大な戦艦の砲身に洗濯物を干している姿だ。12インチ砲の砲身が6基12門、扇状に広がり、その一本一本にシーツやシャツやズボンが万国旗のようにはためいている。
隣にステッキを携えたジョン・ブル(英国の擬人化)が怪訝な顔で立っており、こう尋ねている。
『おい、サム。それは12インチ砲じゃないのかね?』
アンクル・サムは、にっこりと笑って答えている。
『いいえ、ブルさん。これは最新式の回転式物干し竿(Rotary Laundry Dryer)です。地中海の乾燥した空気でよく乾きますよ。なにしろ、海の上で回転しますからね』
キャプション:「1930年の発明品 ―― 砲弾の代わりにパンツを飛ばすアメリカの新兵器」
ロウ画伯は、さらにもう一枚。
今度は同じアンクル・サムが、ムッソリーニ(ローマ式の鎧兜をかぶった太った男)に戦艦の鍵を渡している。ムッソリーニの背後では、フランスの擬人化「マリアンヌ」が真っ赤な顔で新型戦艦の設計図を広げ、こう叫んでいる。
『あなたたちが鉄くずをバラ撒くせいで、こっちは倍の金を使う羽目になったのよ!!』
キャプション:「軍縮会議の成果 ―― 世界の軍事費を増やすことに成功」
同日の『デイリー・メール』紙は、より知的な(しかし容赦ない)アプローチだった。
社説の冒頭。
『オックスフォード英語辞典(OED)編集部への公開質問状
拝啓、編集部殿。
貴殿らの定義によれば、「Battleship(戦艦)」とは「重装甲と大口径砲を有する主力軍艦」であるはずです。
しかしながら、ワシントンの合衆国政府による最新の解釈では、それは「金銭と引き換えにイタリア語を話すようになる、平和的な鉄の塊」であるとのことです。
この革新的な定義に鑑み、当紙は以下の改訂を提案いたします。
Elephant(象):鼻の長いネズミ。
Aircraft Carrier(航空母艦):大型ヨット(ただし甲板が異様に平らなもの)。
Prohibition(禁酒法):国民の忍耐力を測定するための社会実験。
この論法を推し進めれば、ライフル銃は「加速度つきの鉄の杖」であり、フーヴァー大統領は「大恐慌を座視する超高給の置物」ということになります。
もっとも最後の定義だけは、冗談ではなく事実かもしれません。
敬具。デイリー・メール編集部』
この社説は、発行当日のうちにヨーロッパ中の新聞に転載された。パリの『ル・モンド』はフランス語に訳した上で「英国のユーモアに、珍しく心から同意する」と付記した。
さらに畳みかけたのは、『パンチ』誌(英国の老舗風刺雑誌)だった。
『パンチ』誌:風刺コラム「今週の新語辞典」
Hoover Stew :美観を損なう薄茶色の液体。栄養価は不明。かつて同じ場所で日本海軍が提供していた牛肉入りシチューの幽霊。
Mobile Training Hulk:12インチ砲12門を搭載した非軍事的水上構造物。主たる訓練内容は「売却時における嘘のつき方」。
Rugged Individualism:スープを作る力も、スープを配る知恵も、個人の努力に任せること。語源はラテン語の「見て見ぬふり(Ignoramus Maximus)」。
夕刻のフリート・ストリート。
記者たちの溜まり場のパブで、各紙の特派員たちが杯を傾けていた。
「……しかし、つくづくアメリカの連中は素晴らしいな」
『パンチ』誌の編集者が、スタウトの泡を拭いながら言った。
「彼らはまず、日本人が作った完璧な炊き出しシステムを引き継いだ。しかしアメリカ人は、政府の施し(社会主義)なんかに頼むなとプライドが邪魔をして、受付に『自助努力誓約書』というものを置いた。腹を空かせた労働者に、パンの代わりにペンを渡して『私は怠惰である旨を宣誓します』と書かせた」
「ピューリタンの呪いだな」
『マンチェスター・ガーディアン』紙の特派員が苦笑した。
「しかも」と編集者は続けた。
「日本が雇って鍛え上げた有能なアメリカ人スタッフを全員解雇した。理由は『日本軍に思想汚染されている恐れがある』からだそうだ」
「思想汚染? 彼らは何を教わったんだ? 共産主義か?」
「いいや。『列に並べ。手を洗え。食材を無駄にするな』だ」
パブが爆笑に包まれた。
「……なるほど。確かにアメリカの官僚にとっては、その全てが革命的な思想だ」
『タイムズ』紙の外信部長が、グラスを掲げた。
「しかし諸君。笑ってばかりもいられない。この状況から最も利益を得ているのは誰か、考えてみたまえ」
パブが静まった。
「日本だ」
「日本人は、アメリカで数ヶ月間、完璧な兵站演習を行った。数百万人の民間人に対する配給オペレーションを実地で訓練し、GEのオーブンとUSスチールのプレハブという最新のアメリカ製設備の性能試験を行い、そしてアメリカの物流ネットワークの全貌を把握した上で、きれいに立ち去った。残したのは、フーヴァー政権が自爆するための完璧なお膳立てだけだ」
「……それは考えすぎでは?」
「考えすぎか? ならば、もう一つ尋ねよう。日本人はなぜアメリカの工場で注文し、新品の GEオーブンを置いていったのだ? 中古品で十分だったはずだ」
沈黙。
「答えは簡単だ。彼らはアメリカ製品の品質と耐久性を、実地でテストしたかったのさ。……そして今、その試験結果は東京に送られている。次にアメリカと戦う時のために」
パブの空気が、一瞬だけ重くなった。
しかし、すぐに誰かが陽気に叫んだ。
「まあ、それはそれとして! アメリカが戦艦を釣り船と呼ぶなら、我々も潜水艦を『海底散歩用ゴンドラ』と呼んで、観光ビザで地中海に沈めようじゃないか! バーテン! もう一杯!」
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場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス・記者会見室
大西洋を渡ったヨーロッパの風刺の嵐は、24時間以内にアメリカ本土に上陸した。
ホワイトハウスの報道官ジョージ・エイカーソン(フーヴァー大統領のスポークスマン)は、記者会見の壇上で、殺気立った記者団の前に立っていた。額には脂汗が滲み、用意した声明文を持つ手が微かに震えている。
「……えー、大統領は、ロンドンの軍縮会議において建設的な議論が進んでいることを……」
「エイカーソンさん! まず、イタリアへの戦艦売却について!」
AP通信の記者が、手を挙げるより先に質問を叩きつけた。
「イタリアに売却されたワイオミングとアーカンソーの2隻ですが、もしムッソリーニがフランスやイギリスの船を撃った場合、合衆国政府は道義的責任を認めるのですか?」
「あー……その点については、売却契約書に『戦闘行為への使用禁止条項』が明記されています。イタリア政府は、本船体を専ら練習および沿岸防衛の目的にのみ……」
「違反した場合のペナルティは?」
「……契約書には、『誠意ある謝罪と、合理的な期間内での原状回復(返還)を求める』と」
記者席から失笑が漏れた。あるいは、失笑を超えた絶望的な哄笑だった。
「すると何ですか? ムッソリーニがフランス艦隊を砲撃した後で、フーヴァー大統領が『すまんベニート、やっぱり戦艦返して』と電報を打つと?」
「あくまで契約上の……」
「フーヴァー大統領は、ムッソリーニが12インチ砲を撃った後に『ごめんなさいの手紙』を書いてくれると、本気で信じているのですか?」
「えー……次の質問を……」
だがもう、記者団の血の匂いを嗅ぎつけた狼どもは止まらなかった。
「ニューヨーク・タイムズです! フランスのクローデル大使が、シャンパーニュ産ワインを『ブドウ由来の栄養ドリンク』として合衆国に輸出したいと正式に提案していますが、商務省の見解は?」
エイカーソンの顔が、蒼白から真紅に変わった。
「……商務省としては、当該提案の成分表を現在精査中であり……」
「精査中!? シャンパンの成分を精査するんですか!?
報道官、成分はブドウとアルコールですよ! 小学生でも知っています!」
「成分分析の結果が出るまでコメントは差し控え……」
「では、コニャックの『薬用蒸留水』はいかがですか? 大統領府の医務室で処方されるご予定は?」
「……次ッ!!」
「追加ですが。英国のスコッチ業界から、ウイスキーを『液体暖房燃料』として輸出したいという照会が来ているそうですが」
「……次の質問!!!」
「では最後に。ニューヨーク州のルーズベルト知事が、連邦政府が日本海軍のプレハブ給食所を解体する前に、州軍のトラック部隊を出動させて機材を全て『保全』したとの報道がありますが、これは連邦の資産に対する窃盗に該当するのでは?」
エイカーソンの顔が、赤を通り越して紫になった。
「……ルーズベルト知事の行為は、州知事としての公衆衛生上の緊急権限に基づくものであり、連邦資産の窃盗には当たら……当たらないと……大統領府としては、現在、法務省の見解を待っている段階です!!」
「つまりフーヴァー大統領は、日本のスープ釜を捨てようとしたら、それをルーズベルト知事に横取りされた、ということですか?」
「……閉会! 本日はこれまでッ!!!」
エイカーソンは、報道官生命において最も速いスピードで壇上から逃げ出した。
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