フーヴァー・シチュー
時:1930年(昭和五年)、4月
場所:大雪のニューヨーク・オールバニ、州知事公邸
窓の外では、ハドソン川を渡る季節外れの暴風雪が唸りを上げていた。
だが、書斎の中の空気はそれ以上に荒れ狂っていた。
ニューヨーク州知事フランクリン・ルーズベルト(FDR)は車椅子を激しくきしませながら、目の前のテーブルに広げられた報告書の山と、数日分の新聞のスクラップを交互に睨みつけていた。
スクラップの一番上にあるのは、フーヴァー大統領の演説草稿と『タイムズ』紙の例の風刺画だ。アンクル・サムが戦艦ワイオミングを「釣り船」に書き換えている、あの不愉快極まりない絵である。FDRは、その新聞を暖炉の方へ投げ捨てた。
「……ハリー! 酒だ! 密輸されたサントリーでも、病院からくすねた消毒用アルコールでもいい、今すぐ持って来い!!」
FDRの怒声が響く。
「私の目がおかしくなったのか、それともホワイトハウスの住人の脳みそが腐ったスープになったのか、確かめたいんだ!」
ホプキンスは無言で、琥珀色の液体が入ったグラスを差し出した。FDRはそれを一気に煽ると、咳き込みながら言った。
「……さて。もう一度聞こうか。フーヴァー大統領は確か、『連邦政府による歴史的な国際人道支援プログラムが成功した』と、ラジオで高らかに演説していたはずだが?」
ホプキンスは苦虫を噛み潰したような、あるいは吐き気をこらえるような顔で答えた。
「ええ。演説は立派でした。ですが現場の実態は……喜劇です。いや、もっと悪い。あれは、国民に対する虐待です」
ホプキンスは一枚の写真を見せた。
日本海軍が撤退し、アメリカ政府が引き継ぐ形で設営されたワシントンの連邦救済キャンプ、初日。星条旗の下で、凍えた市民たちが長蛇の列を作っている。だが、その列は進んでいない。人々は怒号を上げ、あるいは雪の中にうずくまっている。
「なぜだ? なぜ列が進まない?」
「書類です」ホプキンスは呻いた。
「スープ一杯をもらうのに、役人は『受給資格審査』を行っているのです。『失業証明書』『居住証明書』『過去三年の納税記録』……。そして極めつけは『自助努力誓約書』へのサインです」
「……何だと?」
「『私は怠惰により貧困に陥りましたが、政府の温情に感謝し、一刻も早く自立することを誓います』……そう書かれた紙にサインしなければ、パンの配給券が貰えないのです」
FDRは天を仰いだ。
「……馬鹿な。腹が減っている人間に、誓約書を書かせるとは。フーヴァーの奴は、ピューリタンの牧師にでもなったつもりか!」
「役人が一人一人を尋問し、書類の不備を指摘している間にスープは冷め、子供たちは泣き出し、父親たちは屈辱と怒りで震えています。……一方、先月までの日本海軍のテントでは、どうだったと思いますか?」
ホプキンスは皮肉な笑みを浮かべた。
「『顔パス』です。並べば、黙って肉入りのシチューとコーヒーが出る。待ち時間は平均15分。……これでは、どちらが『民主主義の政府』か分かりません」
FDRは頭を抱えた。
「それだけじゃないだろう、ハリー。……中身だ。我々が日本海軍から『救済認可料』として巻き上げたドルと日本が置いて行ったあの炊き出し用資材。あれを使えば、もっとマシなものが作れるはずだ」
「……消えました」ホプキンスの声が低くなった。
【連邦救済事業・収支仮決算】
収入(日本海軍よりの徴収): 約1億ドル
支出(食材費): 4,000万ドル
管理運営費・人件費(公務員給与補填): 3,000万ドル
緊急予備費(国債利払いへの流用): 3,000万ドル
「1億ドルのうち、食材に使われたのは4割だけ。残りは管理費と称した公務員の給与補填、そして『予備費』という名の国債利払いへの流用です」
FDRは絶句した。
日本から「人道支援のため」として毟り取った金を、借金の返済に回したのか。
さらにFDRは、報告書のリストを見た。
『GE製・大型電熱調理器:500台』
『USスチール製・耐寒プレハブ:500棟』
『業務用冷蔵庫、保温タンク、食器セット……』
「総額、数千万ドル相当の資産だ。
これを東郷は『使い古しだから置いていく』と言って、ポンと捨てていくわけか。
……金持ちの引っ越しだな」
FDRは、目を細めた。
「ハリー。連邦政府はどうするつもりだ?」
「……予算不足を理由に、連邦用の一部だけを残し大半の施設を閉鎖・解体する予定です。スタッフも全員解雇。
機材はスクラップとして売却し、少しでも現金を回収しようとしています」
「愚か者め!」
FDRは机を叩いた。
「あれはただの機材じゃない! 『社会インフラ』だ!
東郷が4ヶ月かけて築き上げた、この国で唯一まともに機能している『セーフティネット』だぞ!
それをスクラップにするだと? 国民を餓死させる気か!」
そして、ホプキンスは決定的な一枚の写真を出した。
政府のキャンプで配られている食事。薄い茶色のお湯に、得体の知れない固形物が浮いている。
「人々はこれを『フーヴァー・シチュー』と呼んでいます。中身は古いマカロニ、薄めたトマトスープ、そして……大量の『自由の味(具なし)』です」
「肉は? 日本から巻き上げたカネで、肉を買ったはずだろう?」
「消えました。新しい『救済管理局』の立派なオフィスの内装費と、役人たちの管理手当、そして……怪しげな仲介業者のポケットの中へ」
FDRは、グラスを床に叩きつけた。
限界だった。
グラスが砕け散る乾いた音が、書斎の空気を凍りつかせた。琥珀色の酒とガラスの破片が、ペルシャ絨毯にシミを作っていく。
ホプキンスは冷静に落ちたガラス片を拾い集めた後に、懐から一枚のメモを取り出した。
「日本海軍が撤収を宣言した直後……彼らが雇っていたアメリカ人の『現場監督』たちが、一斉にフーヴァーの『連邦救済局』への再就職面接を受けました。ですが彼らは全員、不採用になりました」
「なぜだ? 彼らは世界最高水準の『炊き出しプロフェッショナル』だろうが!」
「理由その一、『彼らは日本の手先として働いた経歴があるから思想的に危険』」
ホプキンスは、皮肉な笑みを浮かべた。
「理由その二、『彼らを雇うと、彼らが連打してくる現場改善の意見書(書類の簡素化、衛生基準の引き上げ、物流の即時決裁など)を取り扱わなければならず、ワシントンの役人の"業務負担"が増えるから』……これが本音です」
「馬鹿か!!!」
FDRは、再び吠えた。
「自分たちのメンツと保全のために、有能なスタッフを全員クビにした!? そして代わりに雇ったのは、スープの作り方も知らない書類の虫どもだと!?
……ハリー。ワシントンは、国民をなんだと思っているんだ」
FDRは目を閉じた。
車椅子の手すりを握る彼の手が、白く鬱血していた。これ以上バカども(同胞)の行動を聞かされれば、本当に狂ってしまいそうだった。
「……ハリー」
彼が再び目を開けた時、その眼差しからは激昂の炎が消え、代わりに、氷の刃のような冷徹な決意が宿っていた。
「……知事?」
「私たちがやる。ニューヨーク州(TERA)が、連邦政府の無能のケツを拭く」
FDRは、机の上の書類の束を手で強引に払いのけた。
「ハリー! 今すぐ、州軍のトラック部隊を動員しろ! 宛先は、日本海軍が放棄していった配給所のプレハブと、GEの電熱器、冷蔵庫の置かれたすべての一帯だ」
「な……州軍ですか!?」
ホプキンスは驚愕した。
「連邦政府の守銭奴があの資産(機材)をスクラップ業者に売り払う前に、我々がすべて『接収』するんだ。名目はなんだっていい! 『公衆衛生上の緊急事態に伴う、一時的な州有財産の保全措置』とでもしておけ!」
「知事、それは……半分、連邦政府への窃盗、ないし反逆になりますよ! ワシントンの連邦捜査局(FBI)や内務省が黙っていません!」
「ふざけるな、この吹雪の中で彼らが動けるものか!」
FDRは、車椅子から身を乗り出すようにして怒鳴った。
「私が全責任を負う! もしフーヴァーの役人が文句を言ってきたら、私が出向いて、この車椅子で奴らの顔面を轢いてやる! ……それと」
FDRは、指を折って素早く指示を出し始めた。
「さっきお前が言った、『クビにされた、有能な現場監督(アメリカ人)』たち。彼らのリストはあるか?」
「……はい、持っていますが」
「全員、州の特別救済局(緊急雇用職員)として今日付けで採用しろ! 日本が払っていた給料と同額、いや、1割増しで出す。彼らに、接収したGEの機材とプレハブの再稼働を命じろ。
サトウとかいう日本の鉄道官僚が押さえていた物流ルートもだ。州政府がドルで買い上げる契約に今夜中にサインして、新鮮な肉と野菜を確保しろ!」
ホプキンスの目が、みるみるうちに輝き始めた。
それは無茶苦茶な、まさに超法規的な「クーデター的救済措置」だった。だが、目の前のこの車椅子の男は、それを本気でやろうとしている。
「……知事。予算は? 日本から巻き上げたカネは、連邦政府に取られています」
「州債を発行する。それから、州内の富裕層(ウォール街の連中)に電話をかけまくる。……それでも足りなければ」
FDRは、獰猛な笑みを浮かべた。
「……私が、日本の東郷からNCPC債で直接借金してやるよ。連邦法違反? 知ったことか」
ホプキンスは、思わず身震いした。
この男は、正気だ。正気で狂っている。
大恐慌という未曾有の危機と、東郷一成という異次元の化物が見せつけた「あまりにも残酷な効率」が、フランクリン・デラノ・ルーズベルトという政治家の本質を覚醒させてしまったのだ。
FDRは、葉巻に火を点けた。
紫煙の向こうで、自分という政治家が置かれた「圧倒的な矛盾」が嘲笑っているように見えた。
「ハリー。私は再来年の大統領選で、フーヴァーを倒してホワイトハウスに入るつもりだ。そしてアメリカ経済を立て直し、いつか訪れるであろう『日本(東郷)』との決戦に向けて、この国を再武装させなければならない」
「ええ。承知しています」
「だが、どうだ? 今、私がニューヨーク州知事としてやろうとしていることは……」
FDRは、自嘲気味に笑った。
「『日本の偉大な東郷サンが作ってくれた完璧なシステムと設備を、そのまま居抜きで借り受けて、日本人に躾けられたアメリカ人を使って、アメリカ国民にメシを食わせる』……という、屈辱的な敗戦処理ではないか!」
「知事。政治家は、泥水を飲んででも国民を食わせるのが仕事です。……海軍が議会から金をふんだくるために、戦艦を中東のバザールよろしく叩き売りしようとしているのと同じですよ。彼らも泥水を飲んでいる」
ホプキンスの言葉は冷徹だった。
「ワシントンは、戦艦を『浮体構造物』と言い張ってイタリアに売り払うことで、太平洋の盾(駆逐艦)を作る金を得ようとしている。
我々は日本の残した『屈辱的な施し』を、『ニューヨーク州独自の先進的救済プログラム(TERA)』へと看版を掛け替えることで、来るべきニューディール政策の土台を作ろうとしている。……どちらも嘘と強弁にまみれていますが、生き残るためには必要な嘘です」
FDRは、深く息を吐き出した。
「看板の架け替え、か……」
「ええ。明日から、あのプレハブ小屋の入り口に掛かっていた『日本帝国海軍・特別給与所』という看板を外し、『ニューヨーク州・緊急救済局(TERA)』のペンキを塗り直します。……タイムズ紙が描いた『アンクル・サムのペンキ塗り』と同じですね。我々は戦艦ではなく、スープ釜にペンキを塗るわけですが」
「まったく、忌々しい話だ」
FDRは、車椅子の車輪を自身の腕で力強く回し、窓辺へと向かった。
オールバニの夜空。その向こう、はるか西の果てに、日本がある。
「……ハリー。引き継ぎを急げ。5月1日には『ニューヨーク州のスープ』の配給を開始しろ。
一人でも市民を飢えさせれば、彼らは『やっぱり助けてくれるのはトウゴウさんだけだ! ワシントンも知事も無能だ!』と叫び出す。……それは、絶対に阻止しなければならない」
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