龍驤
時:1930年(昭和五年)、3月
場所:ロンドン、セント・ジェームズ宮殿・第三委員会室(補助艦艇分科会)
薄曇りのロンドン。テムズ川から立ち上る湿った空気が、セント・ジェームズ宮殿の窓ガラスを曇らせていた。
第三委員会室は、巡洋艦と駆逐艦の比率問題で連日紛糾を続けるホットスポットだ。だがこの日の午後、議題は「補助規定」――すなわち、空母の細目制限へと移った。
イギリス首席代表のA・V・アレグサンダー海軍大臣が、分厚い草案の束をテーブルに置いた。
「……諸君。本日は、空母に関する補足規定について協議したい。
周知の通り、ワシントン条約では、排水量1万トン以上の艦艇を『航空母艦』と定義し、各国の総枠を定めた。
しかしながら、この定義には重大な欠陥がある。
つまり、1万トン未満の航空母艦については、一切の制限が存在しない」
彼は、手元のメモを読み上げた。
「我が国の提案は以下の通りである。
『排水量に関わらず、飛行甲板を有し航空機の運用を主目的とする艦艇は、すべて航空母艦として総枠にカウントする』
これにより、各国が小型空母を無制限に量産するという、軍縮精神を損なう行為を防止できる」
アメリカのスティムソン国務長官が、真っ先にうなずいた。
「英国案を支持する。小型空母の抜け穴は、直ちに塞ぐべきだ」
彼らがそう言うのも当然だった。この世界線の日本海軍は、すでに『赤城』『加賀』『土佐』という27,000トン級の大型空母3隻を保有し、条約枠(81,000トン)をほぼ使い切っていたからだ。ここに小型空母を量産されたらたまらない。
若槻禮次郎全権は、穏やかな表情で発言を求めた。
「……アレグサンダー大臣の提案は、傾聴に値します。 しかしながら、一点、確認させていただきたい。
この新規定は、既に起工済みの艦艇にも適用されるのですか?」
アレグサンダーは一瞬だけ目を伏せ、切り出した。
「……我が国としては、条約発効後の統一基準として、既起工艦にも適用することが望ましいと考える」
若槻は、静かに微笑んだ。
「なるほど。では、仮定の話をさせてください。
もし、ある国が、1929年に――つまりロンドン会議の開催前に――ワシントン条約の当時の適法なルールに従い、国家予算を投入して1万トン未満の航空母艦を起工していたとします。
大臣のご提案は、その国に対して『お前の合法な投資は、我々が今から作る新ルールで無効にする』と宣告することになりますが……」
「若槻全権。それは仮定の話であって……」
「仮定ではありません」
山本五十六少将が、穏やかだが断固とした声で遮った。
「我が国は昨年11月に、排水量約8,000トンの『龍驤』を横浜にて起工しております。
ワシントン条約上、1万トン未満の本艦は『航空母艦』の定義に該当せず、総枠の対象外であることは、条約第4部の文言から明白です。
我が国は完全に合法な手続きに従い、国家予算を投入し、三菱という民間造船所との建造契約を締結しております」
会議室がざわめいた。
英国代表団の法務顧問が、慌てて手元の資料をめくっている。
山本は続けた。
「アレグサンダー大臣のご提案が、仮にこの龍驤に遡及適用されるのであれば……それは、法の不遡及という近代法の基本原則に対する重大な挑戦です。
起工時点で合法だった行為に対し、事後に制定されたルールで制裁を加えることは、いかなる文明国の法理も許容しません」
アレグサンダー海軍大臣が反論する。
「山本少将。条約は『精神』に基づいて解釈されるべきものだ。抜け穴を利用して軍拡するのは、軍縮の精神に反する」
「では、お尋ねします」
山本は、微塵も表情を崩さなかった。
「軍縮の精神の発露たるワシントン条約の制定時、つまり1922年に、なぜ英米両国は1万トン未満の航空母艦を規制対象にしなかったのですか?
答えは簡単です。当時は、1万トン未満で有効な空母が作れるとは誰も思っていなかったからです。
つまり、あなた方が予見できなかった技術的可能性を、我が国が実現したのです。
それを『精神に反する』と責めるのは、あなた方自身の条約起草能力の不備を、他国に転嫁する行為ではありませんか?」
アレグサンダーが言葉に詰まった。
スティムソンが介入した。
「しかし山本少将。我々は現在、その不備を修正しようとしているのだ。修正自体は不当ではない」
「おっしゃる通り。修正は結構です」
山本は、ここで初めて――わずかに口元を綻ばせた。
「ただし、修正は将来に向かって適用されるべきであり、過去の合法な行為に遡及してはなりません。
……もし遡及適用されるのであれば、我が国は、龍驤の建造契約の権利を第三国の民間企業に譲渡することになるでしょう。
これは軍艦の売却ではありません。未完成の民間船体に関する、民間造船契約の発注者変更です」
会議室の温度が、一瞬で下がったように感じられた。
マクドナルド首相が、会議テーブルの後方から身を乗り出した。
「……山本少将。その『第三国』とは、具体的にどこですかな?」
山本は、にっこりと笑った。
「オランダです」
「オランダ、だと……?」
アレグサンダー海軍大臣の声が、素っ頓狂に裏返った。
マクドナルド首相は、こめかみを指で押さえた。頭痛がした。
オランダ。
先日のシェル石油の危機において、日本が救済し、そして経済的な足がかりが出来てしまった国。
「……山本少将。貴国は、オランダに空母を売るというのか?」
「『民間船体の譲渡』です」
山本は、しれっと訂正した。
「オランダ政府は、広大な蘭印の島々における海賊対策と、警備の効率化に頭を悩ませておられます。
多数の巡洋艦を配備する予算はないが、移動する航空基地――すなわち小型空母が一隻あれば、広範囲を安価に監視できる。
……非常に合理的な判断だと思いませんか?」
合理的だ。あまりにも合理的すぎて酔っ払いたくなるほどだ。
イギリス海軍本部の随員が、青ざめた顔で首相に耳打ちした。
「……首相。これはマズいです。
もし蘭印海軍が空母を持てば、シンガポールの側面にとてつもない不安定要素が生まれます。
しかもその空母はメイド・イン・ジャパン。搭載機も整備も、日本の支援なしには動かないでしょう。
それは実質的に、日本海軍が蘭印に『出張所』を置くのと同じです!」
マクドナルドは唸った。
イギリスにとって、蘭印は「緩衝地帯」でなくてはならない。そこが日本の軍事力(技術と兵站)で染め上げられるなど、悪夢だ。
スティムソンが、顔を真っ赤にして机を叩いた。
「……詭弁だ! 貴国が建造中の『龍驤』は、全通甲板を持ち、航空機を運用する能力がある。それは常識的に考えて『航空母艦(Aircraft Carrier)』だ!」
対する日本側、山本五十六少将は、涼しい顔でワシントン条約の条文集をパラパラとめくった。
「常識? いえいえ。我々は『法』の話をしているのです」
山本は、条約の第2章・定義の項を指し示した。
「ワシントン条約における航空母艦の定義は、『排水量1万トンを超え、2万7千トン以下の艦』と明記されています。
……ひるがえって、我が国の『龍驤』は基準排水量8,000トン。
したがって、条約法上、この艦は空母ではありません。ただの『水上機母艦』、あるいは『航空機運搬艦』です」
英国側が食い下がる。
「だが、第18条がある! 建造中の軍艦の他国への譲渡は禁止されている!」
「第18条の対象は『この条約によって制限される軍艦(Vessel of War)』です」
山本は、ピシャリと言った。
「龍驤は制限外の艦です。よって、第18条の適用も受けません。
……我々が、我々の造船所で建造した『商船に近い何か』を、友好国であるオランダに売却する。
これのどこに、国際法上の問題がありますか?」
英国代表団は沈黙し、逃げるように閉会を宣言した。
「……留保する。本国政府と協議する」
⸻
時:数日後
会議室の空気は、張り詰めたピアノ線のようだった。
アレグサンダー海軍大臣は、苦虫を噛み潰したような顔で、最後の抵抗を試みていた。
「……山本少将。貴官の法的な主張は理解した。
だが、これは法律だけの問題ではない。大英帝国の安全保障秩序に関わる問題だ」
アレグサンダーは、威圧的に言った。
「蘭印の安定は、我々にとって死活的に重要だ。
そこに、日本製の空母が配置されるということは……地域のバランスを崩し、ひいては帝国の防衛計画に重大な影響を及ぼす。
英国政府としては、そのような不安定要因を容認することはできん」
それは「俺たちの庭で勝手な真似をするな」という、大国の恫喝だった。
だが山本は、待ってましたとばかりにニヤリと笑った。
「……なるほど。
つまり大臣は、こう仰りたいのですか?
『オランダ領東インドは、実質的に大英帝国の管理下にある保護領であり、その国防政策はロンドンの許可なく決定できない』と」
「なっ……! 誰もそんなことは言っていない!」
アレグサンダーが色めき立つ。
「おや、そうですか?」
山本は、わざとらしく首を傾げた。
「もしオランダが独立した主権国家であるならば、彼らが自国の防衛のためにどの国の企業から船を買おうと、それは彼らの自由な権利のはずです。
それを英国が『許さん』と言うのであれば……それはつまり、貴国がオランダの主権を認めていない、という告白に他なりません」
山本は、会議室に控えていたオランダ代表団の方をチラリと見た。
オランダ代表は、憮然とした顔でイギリス側を睨みつけている。
「……大臣。もし貴国が『蘭印は英帝国の秩序の中にあり、日本はその秩序に従え』と主張されるのであれば……。
どうぞ、その旨を条約の付帯条項に明文化してください」
山本は、ペンを差し出した。
「『オランダ王国は、軍備調達において英国の承認を必要とする』と。
……書けますか?」
書けるわけがない。
そんなことをすれば、オランダとの同盟関係は崩壊する。
アレグサンダーは、ペンを見つめたまま、動けなかった。
論理の迷路に誘い込まれ、出口を塞がれたのだ。
「……書けないようですね」
山本は、ペンを引っ込めた。
「ならば、結論は一つです。
日本とオランダの商取引は、主権国家間の自由な契約であり、第三国が口を挟む余地はない。
……そう、議事録に残してよろしいですね?」
長い沈黙の後。
アレグサンダーは、力なく頷いた。
「……異議はない」
その瞬間、イギリスの「アジアにおける絶対的な支配権」に、決定的な風穴が開いた。
日本はオランダという「抜け道」を使って、堂々と空母を建造し、技術を移転し、そして戦略的なパートナーシップを築く権利を、国際的に認めさせたのだ。
山本は会議室を出ると、廊下で待っていた随員の南雲忠一大佐に小声で言った。
「……南雲君。東郷君からの『カンペ』、役に立ったよ」
「はっ。……あいつ、性格が悪すぎます」
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