ウィルヘルミナ
時:1930年(昭和五年)3月
場所:スイス・バーゼル郊外、臨時飛行船発着場
格納庫から曳航されてきたグラーフ・ツェッペリン号は、銀色のジュラルミンの外皮が午後の陽光を反射し、まるで天から降りてきた巨大な鯨のようだった。
タラップの前で、東郷は深呼吸した。
藤色のロングドレスに、毛皮のケープ。つばの広い帽子の下から、黒髪が風に揺れる。ヒールの高さは3インチ。踝まで届くスカートの裾が、微かに揺れた。
完璧な「裕福な東洋人未亡人」の出で立ち。
同行するのは松田千秋(こちらは「夫人の秘書」という設定)と、BISから派遣されたスイス人の護衛一名。
「……何度やっても慣れんな、このコルセットは」
東郷は、松田にだけ聞こえる声で呟いた。
「いえ、お似合いですよ。靴のサイズだけが少し気になりますが」
「うるさい」
客室に通されると、そこはマホガニーの壁材と革張りのソファが並ぶ、空飛ぶサロンだった。
窓の外に、アルプスの山々がゆっくりと後方へ流れていく。
高度300メートル。エンジンの低い唸りが、客室を微かに震わせている。
南雲が向かったロンドンでは、軍縮会議の第一委員会が泥沼の様相を呈していた。
アメリカ首席全権スティムソンが提出した「駆逐艦16%ルール(1,500トン以上の大型駆逐艦は、各国駆逐艦総トン数の16%まで)」が事実上の撤回に追い込まれたのが、つい数日前のことである。
大型駆逐艦(特型)を主力とする日本海軍にとって、これは外交上の第一関門突破だった。
だが、東郷一成にとっては「序盤の歩兵交換」に過ぎない。
「……16%ルールが消えた。序盤戦としては上々だ」
「次の手は?」
「英国だ」東郷は、復号文をライターで燃やしながら答えた。
「16%が消えたことで、英国は次の一手を考えている。彼らの狙いは明白だ。――『小型空母の穴塞ぎ』だ」
松田の表情が引き締まった。
「『龍驤』、ですか」
「ああ。ワシントン条約では1万トン未満の航空機搭載艦は定義外だった。だから海軍は昨年11月に龍驤を起工した。完全に合法だ。だが、イギリスはロンドン条約でその穴を塞ぎにくるだろう。10,000トン未満の空母にも制限をかけようとする」
「遡及適用になりますね」
「その通り。法の不遡及の原則に反する。――だが、それだけでは弱い。道義論では英国は引き下がらない」
松田は、震える手で書類をテーブルに置いた。
【極秘覚書】
件名:横浜船渠第4号船体に関する建造契約の条件付対蘭移管について
対象:建造中の航空母艦『龍驤』
「……『条件付発効』ですか。これが肝ですね」
「そうだ」
東郷は、扇子で口元を隠しながら頷いた。
「もしロンドン会議でイギリスが『龍驤は枠内に入れろ、でも遡及はしない(既起工艦は例外)』と言ってくれるなら、この覚書は発効しない。我々は龍驤をそのまま手元に残せる。――これが最善のシナリオだ」
「しかし英国が遡及を強行した場合は……」
「この覚書が発効し、龍驤はオランダに行く。――ただし、その場合も我々は負けてはいない。むしろ、もっと大きなものが手に入る」
東郷は、覚書の裏面に挟まれた別紙を指先で弾いた。
【交渉要項(対蘭)】
ハゼマイヤー社との技術提携契約
・蘭海軍向け射撃指揮装置(三軸ジャイロ安定式FCS)の共同開発および日本へのライセンス供与。
フォッカー社への資本参加
・日本側出資額:500万ドル相当。
・目的:航空機設計技術の移転、および蘭印向け哨戒機の共同開発。
「……これは」
松田の目が見開かれた。彼は将校としての勘で、このリストの「恐ろしさ」を悟った。
「龍驤は『餌』であって、むしろ本命はハゼマイヤーとフォッカー……!」
「その通り」
東郷は、窓の外のライン川を見下ろしながら言った。飛行船はスイスを越え、ドイツ上空に入っていた。眼下にフライブルクの赤い屋根が広がる。
「エリコンの機関砲がある。ボフォースの大砲がある。だが、どんなに優れた矛も、狙いが定まらなければ当たらない。それらを『当てる脳みそ(射撃指揮装置)』が、まだ日本にはない。だが、オランダにはある」
当時の対空射撃は、揺れる艦の上から高速で飛ぶ飛行機を目視で狙うという、神業に近い難易度だった。
「ハゼマイヤーの三軸ジャイロ安定マウント……。あれは艦がどんなに揺れても、照準器と砲を常に水平に保ち続ける魔法の機械です」松田が呟く。
「あれを手に入れたら、日本の対空戦闘は……」
「世界最強になる。エリコンとボフォースを、ハゼマイヤーの射撃指揮装置で統合的に管制する。――航空機を撃ち落とすのに必要な要素は三つだ。『砲(火力)』『弾幕(密度)』そして『照準(知能)』だ。最初の二つはスイスとスウェーデンで手に入れた。最後の一つを、オランダで手に入れる」
「そしてフォッカーには……」
「フォッカーはオランダ航空産業の誇りであり、王室にも近い。ここに日本の金が入れば、オランダ王室と財界は日本を『侵略者』ではなく『パートナー』として認識するようになる。
――そうなれば蘭印の石油とゴムは、戦争ではなく『商売』で手に入る」
⸻
時:同日・夕刻
場所:オランダ・ハーグ郊外、王室離宮「ハウステンボス宮殿」近くの私邸
グラーフ・ツェッペリン号は、ロッテルダム郊外のワールハーフェン飛行場に着陸した。
そこから自動車で30分。ハーグの旧市街を抜け、王室の森に接する瀟洒な邸宅に「マダム・カズコ」は案内された。
門扉には紋章もなく、表札もない。だが門番の背筋の伸ばし方と、庭園の手入れの完璧さが、ここが「一般の屋敷」ではないことを物語っていた。
応接室のマントルピースには、オランダ王家(オラニエ=ナッサウ家)の紋章が小さく刻まれた時計が置かれていた。
暖炉の前のソファに座っていたのは、二人の人物。
一人は、50歳前後の男。髪は灰色がかったブロンド、鼻梁が高く、海軍の軍服ではなく上質のツイードスーツを着ている。オランダ海軍参謀本部の情報将校、ヘルマン・ファン・デル・クン大佐。王室の私的な軍事アドバイザーを兼ねていた。
もう一人は――。
東郷は、一瞬だけ呼吸を止めた。
白髪交じりの短い髪。丸い眼鏡の奥の、深い知性を湛えた瞳。質素だが仕立ての良い濃紺のドレス。首元には、控えめなダイヤモンドのブローチが一つだけ。
ウィルヘルミナ女王、その人だった。
非公式の(そして公式記録には絶対に残らない)会見。
「ようこそ、マダム」
女王は、流暢な英語で微笑んだ。握手ではなく、軽い会釈。
これは「対等な交渉者」として迎えるという意思表示だった。
「陛下。このような非公式の場を設けていただき、心より感謝申し上げます」
東郷は、完璧なカーテシー(女性の敬礼)で応じた。
ファン・デル・クン大佐が、紅茶とスペキュラース(オランダの焼き菓子)を勧めながら、本題を切り出した。
「マダム。トリップ総裁から概要は伺っております。日本が建造中の航空機搭載艦を、蘭印の防衛力強化のために提供する用意がある、と」
「正確に申しますと」東郷は紅茶に口をつけた。「『日本海軍が発注した建造中の船体』を、民間造船契約の移管という形で、オランダの民間企業にお譲りすることを検討しております。軍艦の売却ではなく、あくまで民間の商取引です」
ファン・デル・クン大佐は眉を上げたが、ウィルヘルミナ女王の表情は微動だにしなかった。
この女王は、1898年に18歳で即位して以来、30年以上にわたってオランダを統治してきた鉄の君主である。世界大戦を中立で乗り切り、植民地帝国を維持し続けてきた。外交的な言葉遊び(ダブルスピーク)には、十分すぎるほど慣れていた。
「マダム・カズコ」
女王が、静かに口を開いた。
「私が知りたいのは、船の値段ではありません。――日本が、なぜオランダに『売りたい』のか。その理由です」
東郷は、女王の目をまっすぐに見た。
「陛下。率直に申し上げます。日本は、蘭印を欲しておりません」
部屋の空気が、一瞬だけ張り詰めた。
「欲していない、ですと?」ファン・デル・クン大佐が反射的に聞き返した。
「ええ。蘭印の石油もゴムも、我が国にとっては確かに魅力的です。ですが、それを『武力で奪う』ことは、我が国の政策の選択肢にはありません。我が国が必要としているのは、蘭印の資源への『安定的なアクセス(供給契約)』であって、領土ではないのです」
「ならば、なぜ空母を?」
「蘭印は今、世界で最も豊かで、最も無防備な領土です」
東郷は、テーブルの上にオランダ領東インドの地図を広げた。
「石油、ゴム、錫、香辛料。どの国にとっても――イギリスも、アメリカも、フランスも、そして日本も含めて――この宝の山は魅力的です。しかし、オランダ海軍の現有戦力では、列強の圧力に対して蘭印を守り切ることは困難ではありませんか?」
ウィルヘルミナ女王は、何も答えなかった。だが、その沈黙が雄弁だった。
蘭印の防衛力の脆弱さは、オランダ王室にとって最大のコンプレックスであり、眠れない夜の原因だった。
「我が国は、オランダに空母を提供することで、蘭印の防衛力を劇的に強化できます。さらに、ハゼマイヤー社の射撃指揮装置と、フォッカー社の航空技術において、双方が協力関係を築くことを提案いたします」
「……つまり」ファン・デル・クン大佐が、慎重に言葉を選んだ。
「日本は蘭印に進出する代わりに、蘭印を守る手助けをしたい、と」
「はい。なぜなら、我が国にとって蘭印が安全であることは、資源供給の安定を意味するからです。オランダが強ければ、英米に蘭印を『保護』の名目で奪われることもなくなります。それは、日本の国益にも叶います」
沈黙が流れた。
暖炉の薪が、パチリと一つ弾けた。
ウィルヘルミナ女王が、ゆっくりと口を開いた。
「マダム・カズコ。一つ、確認させてください」
「何なりと」
「この空母の売却は、ロンドンの軍縮会議で、イギリスに対する『圧力カード』としても使われるのではありませんか?」
東郷は、一瞬だけ微笑んだ。
この女王は、全てを見透かしている。
「……陛下は、聡明でいらっしゃる」
「お世辞は結構。答えを」
「はい。否定いたしません。この売却案がロンドンの交渉テーブルに載れば、イギリスは動揺するでしょう。蘭印のすぐ隣に、日本設計の空母が浮かぶことを、彼らは好まないからです」
「ならば、我が国はあなたの外交ゲームの『駒』にされるのではないか?」
「駒ではありません、陛下。パートナーです」
東郷は、カップを置いた。
「もしイギリスがその圧力に屈して、日本に有利な条件で妥協し、この売却が『条件付』で不発効となった場合でも、我が国はハゼマイヤーとフォッカーとの技術提携を別途進めます。オランダにとって、この交渉は『空母を手に入れるか、技術提携を得るか』の二択ではありません。――どちらの結果でも、オランダは得をする。損をするのは、イギリスとアメリカだけです」
ファン・デル・クン大佐が、思わず唸った。
「……恐ろしい女だ」
「大佐、失礼ですわ」
東郷は、扇子で口元を隠しながら微笑んだ。
ウィルヘルミナ女王はしばらくの間、暖炉の炎を見つめていた。
やがて、静かに立ち上がった。
「マダム・カズコ。私は今夜、あなたとお会いしたことはありません。この部屋で交わされた言葉は、すべて暖炉の煙と共に消えました」
「承知しております、陛下」
「ですが」
女王は窓辺に歩み寄り、夜のハーグの街を見下ろした。
「もし将来、ファン・デル・クン大佐が、BISのバーゼルにある某口座の手数料について、あなたの部下と『事務的な打ち合わせ』をすることがあったとしても、私はそれを知りません」
東郷は、深く頭を下げた。
「――ありがとうございます。女王陛下にとっても、良き一夜でありますよう」
いつもお読みいただきありがとうございます。
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