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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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202/209

ウィルヘルミナ

 時:1930年(昭和五年)3月

場所:スイス・バーゼル郊外、臨時飛行船発着場


 格納庫から曳航されてきたグラーフ・ツェッペリン号は、銀色のジュラルミンの外皮が午後の陽光を反射し、まるで天から降りてきた巨大な鯨のようだった。


 タラップの前で、東郷は深呼吸した。  

 藤色のロングドレスに、毛皮のケープ。つばの広い帽子の下から、黒髪が風に揺れる。ヒールの高さは3インチ。踝まで届くスカートの裾が、微かに揺れた。  

完璧な「裕福な東洋人未亡人」の出で立ち。


 同行するのは松田千秋(こちらは「夫人の秘書」という設定)と、BISから派遣されたスイス人の護衛一名。


「……何度やっても慣れんな、このコルセットは」


 東郷は、松田にだけ聞こえる声で呟いた。


「いえ、お似合いですよ。靴のサイズだけが少し気になりますが」


「うるさい」


 客室に通されると、そこはマホガニーの壁材と革張りのソファが並ぶ、空飛ぶサロンだった。

 窓の外に、アルプスの山々がゆっくりと後方へ流れていく。

 高度300メートル。エンジンの低い唸りが、客室を微かに震わせている。


 南雲が向かったロンドンでは、軍縮会議の第一委員会が泥沼の様相を呈していた。  

アメリカ首席全権スティムソンが提出した「駆逐艦16%ルール(1,500トン以上の大型駆逐艦は、各国駆逐艦総トン数の16%まで)」が事実上の撤回に追い込まれたのが、つい数日前のことである。


 大型駆逐艦(特型)を主力とする日本海軍にとって、これは外交上の第一関門突破だった。  

だが、東郷一成にとっては「序盤の歩兵交換ポーン・トレード」に過ぎない。


「……16%ルールが消えた。序盤戦としては上々だ」


「次の手は?」


「英国だ」東郷は、復号文をライターで燃やしながら答えた。

「16%が消えたことで、英国は次の一手を考えている。彼らの狙いは明白だ。――『小型空母の穴塞ぎ』だ」


 松田の表情が引き締まった。

「『龍驤』、ですか」


「ああ。ワシントン条約では1万トン未満の航空機搭載艦は定義外だった。だから海軍は昨年11月に龍驤を起工した。完全に合法だ。だが、イギリスはロンドン条約でその穴を塞ぎにくるだろう。10,000トン未満の空母にも制限をかけようとする」


「遡及適用になりますね」

「その通り。法の不遡及の原則に反する。――だが、それだけでは弱い。道義論では英国は引き下がらない」


 松田は、震える手で書類をテーブルに置いた。


極秘覚書ドラフト

件名:横浜船渠第4号船体に関する建造契約の条件付対蘭移管について

対象:建造中の航空母艦『龍驤』


「……『条件付発効』ですか。これが肝ですね」


「そうだ」

 東郷は、扇子で口元を隠しながら頷いた。


「もしロンドン会議でイギリスが『龍驤は枠内に入れろ、でも遡及はしない(既起工艦は例外)』と言ってくれるなら、この覚書は発効しない。我々は龍驤をそのまま手元に残せる。――これが最善のシナリオだ」


「しかし英国が遡及を強行した場合は……」


「この覚書が発効し、龍驤はオランダに行く。――ただし、その場合も我々は負けてはいない。むしろ、もっと大きなものが手に入る」


東郷は、覚書の裏面に挟まれた別紙を指先で弾いた。


【交渉要項(対蘭)】

ハゼマイヤー社との技術提携契約

 ・蘭海軍向け射撃指揮装置(三軸ジャイロ安定式FCS)の共同開発および日本へのライセンス供与。


フォッカー社への資本参加

 ・日本側出資額:500万ドル相当。

 ・目的:航空機設計技術の移転、および蘭印向け哨戒機の共同開発。


「……これは」

 松田の目が見開かれた。彼は将校としての勘で、このリストの「恐ろしさ」を悟った。


「龍驤は『餌』であって、むしろ本命はハゼマイヤーとフォッカー……!」


「その通り」


 東郷は、窓の外のライン川を見下ろしながら言った。飛行船はスイスを越え、ドイツ上空に入っていた。眼下にフライブルクの赤い屋根が広がる。


「エリコンの機関砲がある。ボフォースの大砲がある。だが、どんなに優れた矛も、狙いが定まらなければ当たらない。それらを『当てる脳みそ(射撃指揮装置)』が、まだ日本にはない。だが、オランダにはある」


当時の対空射撃は、揺れる艦の上から高速で飛ぶ飛行機を目視で狙うという、神業に近い難易度だった。


「ハゼマイヤーの三軸ジャイロ安定マウント……。あれは艦がどんなに揺れても、照準器と砲を常に水平に保ち続ける魔法の機械です」松田が呟く。

「あれを手に入れたら、日本の対空戦闘は……」


「世界最強になる。エリコンとボフォースを、ハゼマイヤーの射撃指揮装置で統合的に管制する。――航空機を撃ち落とすのに必要な要素は三つだ。『砲(火力)』『弾幕(密度)』そして『照準(知能)』だ。最初の二つはスイスとスウェーデンで手に入れた。最後の一つを、オランダで手に入れる」


「そしてフォッカーには……」


「フォッカーはオランダ航空産業の誇りであり、王室にも近い。ここに日本の金が入れば、オランダ王室と財界は日本を『侵略者』ではなく『パートナー』として認識するようになる。

 ――そうなれば蘭印の石油とゴムは、戦争ではなく『商売』で手に入る」



 時:同日・夕刻

場所:オランダ・ハーグ郊外、王室離宮「ハウステンボス宮殿」近くの私邸


 グラーフ・ツェッペリン号は、ロッテルダム郊外のワールハーフェン飛行場に着陸した。  

そこから自動車で30分。ハーグの旧市街を抜け、王室の森に接する瀟洒な邸宅に「マダム・カズコ」は案内された。


 門扉には紋章もなく、表札もない。だが門番の背筋の伸ばし方と、庭園の手入れの完璧さが、ここが「一般の屋敷」ではないことを物語っていた。


 応接室のマントルピースには、オランダ王家(オラニエ=ナッサウ家)の紋章が小さく刻まれた時計が置かれていた。


 暖炉の前のソファに座っていたのは、二人の人物。


 一人は、50歳前後の男。髪は灰色がかったブロンド、鼻梁が高く、海軍の軍服ではなく上質のツイードスーツを着ている。オランダ海軍参謀本部の情報将校、ヘルマン・ファン・デル・クン大佐。王室の私的な軍事アドバイザーを兼ねていた。


 もう一人は――。


 東郷は、一瞬だけ呼吸を止めた。


 白髪交じりの短い髪。丸い眼鏡の奥の、深い知性を湛えた瞳。質素だが仕立ての良い濃紺のドレス。首元には、控えめなダイヤモンドのブローチが一つだけ。


 ウィルヘルミナ女王、その人だった。


 非公式の(そして公式記録には絶対に残らない)会見。


「ようこそ、マダム」


 女王は、流暢な英語で微笑んだ。握手ではなく、軽い会釈。

 これは「対等な交渉者」として迎えるという意思表示だった。


「陛下。このような非公式の場を設けていただき、心より感謝申し上げます」


 東郷は、完璧なカーテシー(女性の敬礼)で応じた。


 ファン・デル・クン大佐が、紅茶とスペキュラース(オランダの焼き菓子)を勧めながら、本題を切り出した。


「マダム。トリップ総裁から概要は伺っております。日本が建造中の航空機搭載艦を、蘭印の防衛力強化のために提供する用意がある、と」


「正確に申しますと」東郷は紅茶に口をつけた。「『日本海軍が発注した建造中の船体』を、民間造船契約の移管という形で、オランダの民間企業にお譲りすることを検討しております。軍艦の売却ではなく、あくまで民間の商取引です」


 ファン・デル・クン大佐は眉を上げたが、ウィルヘルミナ女王の表情は微動だにしなかった。

 

 この女王は、1898年に18歳で即位して以来、30年以上にわたってオランダを統治してきた鉄の君主である。世界大戦を中立で乗り切り、植民地帝国を維持し続けてきた。外交的な言葉遊び(ダブルスピーク)には、十分すぎるほど慣れていた。


「マダム・カズコ」


 女王が、静かに口を開いた。


「私が知りたいのは、船の値段ではありません。――日本が、なぜオランダに『売りたい』のか。その理由です」


 東郷は、女王の目をまっすぐに見た。


「陛下。率直に申し上げます。日本は、蘭印を欲しておりません」


 部屋の空気が、一瞬だけ張り詰めた。


「欲していない、ですと?」ファン・デル・クン大佐が反射的に聞き返した。


「ええ。蘭印の石油もゴムも、我が国にとっては確かに魅力的です。ですが、それを『武力で奪う』ことは、我が国の政策の選択肢にはありません。我が国が必要としているのは、蘭印の資源への『安定的なアクセス(供給契約)』であって、領土ではないのです」


「ならば、なぜ空母を?」


「蘭印は今、世界で最も豊かで、最も無防備な領土です」

東郷は、テーブルの上にオランダ領東インドの地図を広げた。


「石油、ゴム、錫、香辛料。どの国にとっても――イギリスも、アメリカも、フランスも、そして日本も含めて――この宝の山は魅力的です。しかし、オランダ海軍の現有戦力では、列強の圧力に対して蘭印を守り切ることは困難ではありませんか?」


 ウィルヘルミナ女王は、何も答えなかった。だが、その沈黙が雄弁だった。  

蘭印の防衛力の脆弱さは、オランダ王室にとって最大のコンプレックスであり、眠れない夜の原因だった。


「我が国は、オランダに空母を提供することで、蘭印の防衛力を劇的に強化できます。さらに、ハゼマイヤー社の射撃指揮装置と、フォッカー社の航空技術において、双方が協力関係を築くことを提案いたします」


「……つまり」ファン・デル・クン大佐が、慎重に言葉を選んだ。

「日本は蘭印に進出する代わりに、蘭印を守る手助けをしたい、と」


「はい。なぜなら、我が国にとって蘭印が安全であることは、資源供給の安定を意味するからです。オランダが強ければ、英米に蘭印を『保護』の名目で奪われることもなくなります。それは、日本の国益にも叶います」


 沈黙が流れた。  

 暖炉の薪が、パチリと一つ弾けた。


 ウィルヘルミナ女王が、ゆっくりと口を開いた。


「マダム・カズコ。一つ、確認させてください」


「何なりと」


「この空母の売却は、ロンドンの軍縮会議で、イギリスに対する『圧力カード』としても使われるのではありませんか?」


 東郷は、一瞬だけ微笑んだ。  

 この女王は、全てを見透かしている。


「……陛下は、聡明でいらっしゃる」


「お世辞は結構。答えを」


「はい。否定いたしません。この売却案がロンドンの交渉テーブルに載れば、イギリスは動揺するでしょう。蘭印のすぐ隣に、日本設計の空母が浮かぶことを、彼らは好まないからです」


「ならば、我が国はあなたの外交ゲームの『駒』にされるのではないか?」


「駒ではありません、陛下。パートナーです」


 東郷は、カップを置いた。


「もしイギリスがその圧力に屈して、日本に有利な条件で妥協し、この売却が『条件付』で不発効となった場合でも、我が国はハゼマイヤーとフォッカーとの技術提携を別途進めます。オランダにとって、この交渉は『空母を手に入れるか、技術提携を得るか』の二択ではありません。――どちらの結果でも、オランダは得をする。損をするのは、イギリスとアメリカだけです」


 ファン・デル・クン大佐が、思わず唸った。

「……恐ろしい女だ」


「大佐、失礼ですわ」

 東郷は、扇子で口元を隠しながら微笑んだ。


 ウィルヘルミナ女王はしばらくの間、暖炉の炎を見つめていた。  

 やがて、静かに立ち上がった。


「マダム・カズコ。私は今夜、あなたとお会いしたことはありません。この部屋で交わされた言葉は、すべて暖炉の煙と共に消えました」


「承知しております、陛下」


「ですが」

 女王は窓辺に歩み寄り、夜のハーグの街を見下ろした。


「もし将来、ファン・デル・クン大佐が、BISのバーゼルにある某口座の手数料について、あなたの部下と『事務的な打ち合わせ』をすることがあったとしても、私はそれを知りません」


 東郷は、深く頭を下げた。


「――ありがとうございます。女王陛下にとっても、良き一夜でありますよう」


いつもお読みいただきありがとうございます。


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― 新着の感想 ―
どの道保有できない空母なら、一番恩を売れる所に譲ろうと。いやはや。
紙切れ燃やすだけとはいえ水素飛行船内でライター使って大丈夫なのかな。 オランダといえば今はフィリップスが先に思い浮かぶけどフォッカーという有名な 航空会社あったな。軍用機というより旅客機のほうが秀でて…
オランダにも特型売るのかと思っていたら、まさか建造中の龍驤をテーブルに乗せるとは。 東南アジアで米英が余り舐めた真似をしないように、対英けん制ついでにオランダにもテコ入れして勢力均衡を図るわけですか。…
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