飛躍
ワシントンの夜が明けた。
冷たい雨が、石造りの街並みに薄い靄を漂わせ、国会議事堂の白いドームをぼんやりと霞ませている。東郷一成は、日本代表団の宿舎とするホテルの自室で、机に散らばった資料の山を前に座っていた。
昨夜の会話が、まだ頭を離れなかった。フランクリン・ルーズベルト──海軍次官補。
鋭い視線の奥に、利権や感情の表層を越えた「仕組み」への理解が垣間見えた気がする。
あの男は本当に、自分の言葉をどこまで受け取ったのだろうか。
窓の外で雨脚が強まる。コーヒーの湯気が細く立ち上り、湿った空気にすぐ溶けていった。
そのとき、ドアが乱暴にノックされた。随行員が蒼い顔で飛び込む。
「中佐、大変です! 米海軍のミッチャー少佐が、至急お会いしたいとロビーで──」
「……ミッチか」
アナポリス時代の同期、マーク・ミッチャー。
彼がわざわざここを訪れる理由は、ただの旧交を温めるためではあるまい。
ロビーに降りると、ミッチャーは濡れた軍帽を手に持ち、落ち着かない様子で立っていた。
「アナポリス時代は世話になったな」
「君も少佐か、出世したじゃないか」
東郷はかつてベイジング(いじめ)で死人が出て退学になりそうだったミッチャーを、かばったことがあった。
「カズ、急に押しかける形になってすまない。少し、歩きながら話さないか」
二人はホテルを出て、雨に煙る通りを抜け、近くのカフェへ逃げ込んだ。
店内はまだ朝の客で賑わい、食器のぶつかる音とコーヒーの香りが満ちている。
通された席に着くや否や、ミッチャーは声を潜めて切り出した。
「会議は、どうにも馬鹿げた方向に進んでいる。『未完成の戦艦は完成扱いにしろ』『主力艦の保有比率は七割だ』──冗談じゃない。お前の代表団、本気であんな数字を捻じ込むつもりなのか?」
苛立ちが混じる声。だがそこには、友を案じる響きも含まれていた。
東郷はカップを取り上げ、香りを吸い込みながら静かに答える。
「ミッチ、君の不満は理解できる。だがね、この会議の本質は“レンガ”の数を競うことではない」
「レンガ?」
「戦艦のことだよ。数や大きさをどう積み上げるか──それだけが争点だと思われている。しかし本当に決めねばならないのは、そのレンガを並べる“設計図”だ」
「設計図……?」ミッチャーの眉がひそむ。
東郷はカップを置き、身を乗り出した。
「昨夜、ルーズベルト氏とも話したが──重要なのは大砲の口径でも装甲の厚さでもない。鋼鉄を産み出す工業力、艦を動かす石油の供給網、それを制御する制度だ。戦争を形作る“流れ”そのものだよ」
ミッチャーは腕を組み、少し黙ってから反論した。
「だがカズ、その“流れ”とやらは、明日の戦闘で敵機を撃ち落としてはくれないぞ。俺は空から敵艦を叩く方法を必死に模索してる。紙の上の仕組みより、俺には翼のある一機が必要なんだ」
その言葉に、東郷は微かに笑みを浮かべた。
「いいや、逆さ。君が操縦桿を握るその瞬間にも、燃料を精製する工場の火は絶えず燃えている。飛行機一機を飛ばす背後で、どれほどの人々の生活が支えているかを思い出すべきだ。もしその流れを敵に握られたら、君の空は一秒で閉ざされる」
ミッチャーの表情が揺れた。彼は指でカップの縁をなぞり、視線を落とした。
「……お前は、まるで戦争を経営するつもりのようだな」
「経営か。悪くない表現だ」東郷は目を細めた。「父が言った。戦とは国の力全てを束ねるものだと。だから私は、その束ね方を学びたいのさ」
沈黙が落ちた。店の奥でウェイターがトレイを落とし、皿の割れる音が響く。二人の間に漂う緊張が、雨音と混ざり合った。
その日の午後。重厚なマホガニーの扉の前で、東郷は立ち止まった。深呼吸を一つ。これから始まる場面の重みを、自らに刻み込む。
扉を押し開けると、そこは日本代表団の会議室だった。分厚いカーテン越しに雨の光が淡く差し込み、加藤友三郎全権大使をはじめ、歴戦の提督たちが並んでいる。
東郷は前に進み出て、声を整えた。
「閣下、意見を具申いたします」
彼の言葉は、慎重に、しかし熱を帯びていた。
「我々が交渉すべきは、単なる保有比率にあらず。来るべき総力戦の時代を見据え、石油の供給や産業基盤の協定を有利に進めることが肝要です。艦を建造するだけでなく、その基盤を握ることこそ……」
しかし、加藤の反応は冷ややかだった。
「東郷中佐。君の意見は興味深いが、飛躍しすぎている。我々の任務は、帝国海軍の誇りたる主力艦を一隻でも多く確保することだ。金融や石油は政治家の領分である。軍人は艦隊決戦を見据えよ」
他の提督たちも無言で頷いた。その視線は、「若気の至り」という言葉を突きつけるに等しかった。
会議室を退出した東郷は、拳を固く握ったまま廊下を歩いた。誰もいない窓際で立ち止まり、外の雨に滲む景色を見つめる。指先が白くなるほどに拳を握り締め、やがて力なく開いた。深い吐息が漏れる。
その夜。ホテルのバルコニー。雨は上がり、濡れた街路が灯りを反射して煌めいていた。
ワシントンの街は眠らず、無数の光が夜空を照らしている。その光のひとつひとつが、アメリカという国家の底知れぬ工業力と経済力を象徴しているかのようだった。
「……父上」東郷は低く呟いた。
耳の奥に、かつての声が甦る。
『戦は大砲の数だけで決まるにあらず。国の力を流れとし、相手を呑み込む者こそ勝つ』
昨夜のルーズベルトの目が、脳裏に浮かんだ。鋭く、しかしどこか楽しげに、こちらを探る視線。
「誰もがレンガを数えることに夢中だ。だが、本当に恐ろしいのは、その設計図を静かに書き換えている者だ……」
冷たい夜気が頬を撫でる。彼は両の掌を見つめた。
「ならば──目に見える成果が要る」
街の灯りは答えない。ただ黙って、彼の決意を映し出していた。