狼とロレーヌ、そして川西
時:1930年(昭和五年)、3月
場所:ロンドン、サヴォイ・ホテル・日本代表団スイートルーム
ロンドン会議の舞台裏で、山本五十六はフランス海軍参謀総長ジョルジュ・デュラン・ヴィエル提督と、極秘の会談を行っていた。
デュラン提督の顔色は優れない。彼が推進していた「600トン型潜水艦」の量産計画が、財政難と技術的不具合で遅延していたからだ。
「……貴国が英国からS型を40隻も買ったと聞いた。
金欠の我が海軍からすれば、羨ましい限りだ」
テーブルの上には、最高級のコニャックとショコラ、一枚のリストが置かれている。
山本は、手元のリストを差し出した。
「提督。ならば、ウチの余り物を使いませんか?」
「余り物?」
「『呂号(Ro-go)』潜水艦です。S型の導入で退役予定の艦が出ます。
……ご存知でしょう? 」
『売却対象船舶目録:廃潜水艦・船体 17隻』
日本はかつて、フランスのシュナイダー社製の「波9型」を2隻導入したことがあった。
最大の特徴は複殻式船殻と呼ばれる構造で、これまで単殻式、つまり簡単に言えば一枚の鋼材で船体が覆われていたものを、二重構造にしたものだった。
外殻は非耐圧構造、内殻は耐圧構造となっていて、この外殻と内殻の間をメインタンクとした画期的な構造は後の日本潜水艦の設計にも踏襲されていく。
当時、日本海軍が戦力として保有していた500〜1,000トンクラスの二等潜水艦(呂号)のうち、フランスの技術をベースに建造された「海中型(海軍中型)」は、以下の通り。
• 海中3型(呂16〜25): 10隻(1920〜23年竣工)
• 海中4型(呂26〜28): 3隻(1923〜24年竣工)
• 特中型 / 海中5型(呂29〜32): 4隻(1923〜24年竣工)
合計:17隻
これらはすべて排水量700トン台で、航続距離や武装(魚雷管4門など)の仕様が統一された、扱いやすい中型潜水艦だった。
「……ムッシュ・ヤマモト」
デュラン提督はリストを指でなぞりながら、信じられないという表情で呟いた。
「これらは全て、貴国の『海中型』……つまり、我らがシュナイダー・ローブフ社の設計図から生まれた『波9型』の子供たちだと言うのかね?」
「その通りです、提督」
山本は、コニャックには見向きもせず、ショコラに手を伸ばしながら答えた。
「我が国は、英国からS型40隻を導入することにしました。
となれば、この17隻のロートルたちはお役御免です。
条約の規定通り、武装を撤去し、日本でスクラップにする予定でしたが……」
山本は、意味深な笑みを浮かべた。
「ふと思いました。これらを鉄屑にするくらいなら、設計の故郷であるフランスの炉で溶かしてもらった方が、船たちも本望ではないかと。
……もちろん、『鉄屑』としての価格で譲ります」
デュランの目が鋭く光った。
「鉄屑」として輸入する。
だが、届くのは「船体が無傷で、エンジンも完調な潜水艦」だ。
魚雷発射管は撤去されているかもしれないが、フランスの工廠には55cm魚雷の予備発射管が山ほどある。ポン付けすれば、即座に現役復帰できる。
「……イタリアのムッソリーニが、地中海で潜水艦を増やしてうるさくてな」
デュランは、独り言のように言った。
「即戦力が17隻も手に入るなら、地中海の底は随分と賑やかになるだろう。
……よかろう。その『スクラップ』、我が国が引き受けよう」
「感謝します。……その代わり、パリで『買い物』をさせていただきたい」
「商売が上手いな、日本人は」
⸻
時:数日後
場所:パリ、SGA(航空一般会社)設立準備室
フランスを代表する航空エンジン・高級車メーカー、ロレーヌ・ディートリッヒ(Lorraine-Dietrich)社。
かつては名機を輩出したが、大恐慌の煽りで受注が激減し、工場のラインは止まっていた。自動車事業は完全に不採算事業へと転落し、航空事業も大恐慌による需要減退により、業績は即座に暗礁に乗り上げた。
そして、当時フランス航空省の肝煎りで設立された巨大コングロマリット、SGA。
その船出は、シャンパンの泡のように華やかであるはずだった。だが現実は、泥船の沈没寸前だった。
親会社である金融グループSFFCが株価暴落で破綻の危機に瀕し、SGAへの出資金が焦げ付いたのだ。
傘下のロレーヌ・ディートリッヒ社の工場では、工員たちが給料の支払いを求めてストライキの構えを見せている。
航空大臣ローラン=エイナックは、頭を抱えていた。
「……カネがない。国策会社を作ったはいいが、運転資金がないとは」
「大臣。銀行団も融資を拒否しています。このままではロレーヌ社は連鎖倒産、SGA構想も空中分解です」
そこに、救いの神――あるいは死神――が現れた。
東郷一成の代理人、小沢治三郎中佐だ。
彼の前には、アタッシュケースに入った2,000万ドルの小切手がある。
「……2,000万ドル(約5億フラン)。即金です」
小沢は、小切手を提示した。
「条件は一つ。ロレーヌ社の全資産を、日本海軍と民間の合弁会社に譲渡すること」
エイナック大臣は絶句した。
「ロレーヌを売れだと? あれはフランスの至宝だぞ! バルバルー技師も連れて行く気か!」
「連れて行きます。ですが、ご安心を」
小沢は、契約書のある一ページを示した。
「工場はパリに残します。雇用も維持します。
バルバルー氏には、日本とフランスを行き来していただき、引き続きSGAのためにエンジンを開発してもらいます。
……ただし、その開発費と特許権は日本が持ちますが」
エイナックは呻いた。
これは「買収」ではない。「パトロンの交代」だ。
フランス政府に金がないから、日本海軍がスポンサーになって、フランスの技術者を養ってやろうというのだ。
「……分かった。売ろう」
エイナックは決断した。
「ただし、名目は『日仏共同開発』だ。フランスの面子を潰さないでくれ」
こうしてフランスの名門ロレーヌ社は、事実上日本海軍の「欧州技術研究所」となった。
この買収により、日本は液冷エンジンの最大の難関である「精密鋳造」と「クランクシャフトの加工技術」を、現地の技術陣や、当時航空エンジン年産1,000台を誇るアルジャントゥイユ工場の生産設備、熟練工ごと手に入れたのである。
⸻
場所:兵庫県・鳴尾、川西航空機製作所・社長室
川西航空機の社長・川西龍三は、机の上の図面を拳で叩きつけた。
それは、海軍から試作を命じられた大型飛行艇(後の九〇式二号飛行艇)の設計図だった。
「……またか! また中島のエンジンを使えと言うのか!」
龍三は、歯ぎしりした。
川西は、機体を作る技術ではどこにも負けない自負がある。だが、心臓部であるエンジンを持たない悲しさ。常にライバルであり、かつて袂を分かった中島飛行機に頭を下げてエンジンを供給してもらわねばならない。
「社長、致し方ありません」
技術部長が嘆息する。
「国内でまともな航空エンジンを作れるのは、三菱か中島だけ。三菱は自社の機体で手一杯、中島は……足元を見てきます」
「ええい、忌々しい!
自前のエンジンさえあれば……! 世界一の飛行機を作ってみせるものを!」
そこへ、秘書が来客を告げた。
海軍省軍務局長・堀悌吉である。
「……堀局長。わざわざこんな工場まで、何の御用で?」
龍三は、不機嫌を隠そうともせずに尋ねた。
「川西社長。貴社に、面白いお話を持ってきました」
堀は、涼しい顔で一枚のカタログをテーブルに置いた。
フランス語で書かれたその表紙には、美しい水冷エンジンの写真と、『Lorraine-Dietrich』のロゴ。
「……ロレーヌ社? フランスの名門ですが、これが何か?」
「この会社を、貴社に『買収』していただきたい」
「は?」
龍三は、目を丸くした。
「買収……? ロレーヌを? 我々が?
……冗談でしょう、局長。あちらはフランスの国策企業に近い巨大メーカーだ。我々ごとき地方財閥に、そんな資金もコネも……」
「コネはあります」
堀は静かに言った。
「現在、欧州に滞在中の小沢治三郎中佐が、先方と話をつけました。フランス政府は、ロレーヌ社の売却を許可する内諾を出しています」
「しかし、資金が!」
「資金も、あります」
堀は、懐から小切手帳を取り出した。
NCPC債の換金によって得られた、2,000万ドルの銀行保証小切手。
「この資金を、海軍から貴社に『特別融資』します。……返済は、将来貴社が納入する航空機とエンジンによる『現物払い』で結構」
龍三は、震える手で小切手を見つめた。
意味が分からなかった。なぜ海軍がそこまでしてくれる?
「……なぜです、局長。海軍工廠で買収すればいい話でしょう」
「それでは『角』が立つのですよ」
堀は、ニヤリと笑った。
「帝国海軍がフランスの軍需企業を軍縮会議中に買収したとなれば、英米が騒ぎます。『軍事技術の囲い込みだ』とね。
だが……『日本の民間企業が、事業拡大のためにフランスの民間企業を友好的に買収した』という形なら、それはただのビジネスだ。文句を言われる筋合いはない」
堀は、龍三の目をまっすぐに見据えた。
「川西社長。貴殿は中島に勝ちたいのでしょう?
自前のエンジンを持って、誰にも頭を下げずに、世界一の飛行機を作りたいのでしょう?
……その夢、海軍が投資しましょう」
龍三の背筋に、電流が走った。
これは、罠かもしれない。海軍の手先として使われるだけかもしれない。
だが目の前には、喉から手が出るほど欲しかった「心臓」がある。
「……やりましょう」
龍三は、小切手を掴んだ。
「ロレーヌの技術、川西が骨の髄までしゃぶり尽くして見せます。
……中島の鼻を明かしてやる!」
⸻
時:数ヶ月後
場所:フランス、トゥーロン軍港
地中海の強い日差しの中、港湾労働者たちが呆気にとられていた。
東洋から到着した「スクラップ船団」が入港してきたからだ。
地中海の青い海に、旭日旗を掲げた小柄な潜水艦の群れ。
日本の乗員によって操船され、自力で地球を半周してきたその17隻の潜水艦は、錆一つなく磨き上げられ、銀色に輝いていた。
武装こそ外されているが、その姿はどう見ても「死に行く船」ではなく「凱旋する英雄」だった。
「おい、見ろよあの船体。シュナイダー型そっくりだぞ」
「そっくりも何も、兄弟だろ。……なんだか、懐かしい形をしてやがる」
フランス海軍の技術将校たちが、艦内に雪崩れ込む。
そして彼らは驚愕した。
日本で建造され、10年近く運用されたはずの艦体は、驚くほど手入れが行き届いていたからだ。
「……メルシー(ありがとう)、日本!」
機関室に降りた技師が叫んだ。
「ズルツァー(Sulzer)のエンジンだ! しかも、驚くほど手入れが行き届いている!
油漏れ一つない。……日本の機関兵は、毎日舌で床を舐めて掃除していたのか!?」
本来、ズルツァー・エンジンはスイスの技術だが、フランスでもライセンス生産されており、部品の互換性や整備ノウハウは十分にある。
フランス海軍にとって、これは「鉄屑」などではない。
「包装紙を開ければすぐ使える優良中古」だった。
「……すぐにドックに入れろ!」
基地司令官が叫ぶ。
「魚雷発射管を載せろ! 潜望鏡を付け直せ!
潜水艦名を書き換えろ!
来月の演習に間に合わせるぞ! イタリア海軍の度肝を抜いてやる!」
デュラン提督は、潜水艦から降りてきた日本人艦長の手を握った。
「……メルシー、艦長。
これほど状態が良いとは。武器があれば、すぐにでもパトロールに出せそうだ」
「大切に使ってきましたから」
日本人艦長は、愛艦との別れを惜しむように船体を撫でた。
「彼女たちは、フランスの血を引く日本の娘です。
どうか、故郷の海で可愛がってやってください」
フランス海軍にとって、これは干天の慈雨だった。
イタリア海軍が地中海で潜水艦を増強している中、即戦力の17隻がいきなり手に入ったのだ。
翌日のフランスの新聞は、こう書き立てた。
『東洋からの帰還! 日本海軍、友情の証として潜水艦隊を寄贈』
『日仏の絆は、鋼鉄よりも堅し』
スティムソン国務長官がロンドンで「日本を孤立させろ」などと叫んでいる間に、地中海では日仏の蜜月が、物理的な「艦隊」の形をとって完成していたのである。
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