アングロ・サクソンの泥仕合
時:1930年(昭和五年)、3月
場所:ロンドン、セント・ジェームズ宮殿・特別小委員会室・軍縮会議場
その日のヘンリー・スティムソン米国務長官は、勝負服である濃紺のスーツに身を包み、決意に満ちた表情で円卓に向かっていた。
軍艦の比率(トン数)の議論は膠着している。ならば、盤面を変えるしかない。
彼は日本の力の源泉である「NCPC債(制度債)」そのものを、国際的な「不公正慣行」として告発し、英米共同で規制をかけるつもりだった。
「……諸君」
スティムソンは、演説を始めた。その声は、ピューリタンの牧師のように厳格で、高潔だった。
「軍縮とは、単に船を減らすことではない。互いの信頼を築くことだ。
しかし、日本が行っている経済活動……あの『制度債』は、国家の財政規律を無視し、為替操作と脱税を助長する、極めて不道徳なシステムである!」
彼は、日本の全権・若槻禮次郎を指弾した。
「政府が保証しない通貨もどきを発行し、他国の資産を買い漁る。これは『経済的な海賊行為』だ!
このような不公正な資金源で軍拡を続ける日本に対し、我々文明国は断固たる措置を取るべきである!」
スティムソンは、自信満々に隣の席のマクドナルド英首相を見た。
(さあ、同意してくれ。大英帝国の誇りにかけて、この東洋の成金を叩くのだ)
「……マクドナルド首相。英国もまた、ポンドの地位を脅かされ、不快に思っておられるはずだ。
ここは英米が結束し、日本に対し『制度債の即時停止』を共同宣言すべきではないか?」
完璧なロジックのはずだった。
だが、マクドナルドは視線を合わせようとしなかった。彼は手元のティーカップの縁を、神経質そうに指でなぞっている。
「……ミスター・スティムソン」
マクドナルドが、重い口を開いた。
「『不道徳』とは……少々、強い言葉ですな」
「何?」
スティムソンの眉が跳ね上がった。
「事実ではないか! 奴らは市場を歪めている!」
「……ですが」
マクドナルドは、困ったように眉を下げた。
「市場とは、需要と供給で動くものだ。
日本が金を出し、売り手が合意すれば、それは商取引だ。……そこに道徳を持ち込むのは、いかがなものかと」
スティムソンは耳を疑った。
あの誇り高きジョン・ブルが、日本の肩を持っている?
⸻
午後のセッションが始まった時、スティムソンは異様な空気の変化を感じ取っていた。
午前中まで「日本に対し、潜水艦保有量の削減を強く求める」ことで合意していたはずのイギリス代表団が、まるで別人のようによそよそしいのだ。
議題が潜水艦の保有トン数に移った瞬間、イギリスのマクドナルド首相が発言した。
「……えー、潜水艦についてだが。
日本側の主張する78,000トン(現有量維持)。
よくよく検討したが……これは妥当な数字ではないかね?」
「なっ!?」
スティムソンは椅子から転げ落ちそうになった。
「首相! 話が違います! 潜水艦は『卑劣な兵器』であり、全廃もしくは大幅削減を目指すのが文明国の責務だと、貴方は今朝言ったばかりではありませんか!」
「いやいや、ヘンリー」
マクドナルドは、冷や汗を拭いながら視線を逸らした。
「あくまで『防衛用』の小型潜水艦ならば、各国の事情もあろう。
それに……日本は島国だ。海岸線を守るために、数が必要だという彼らの理屈も、分からんでもない」
スティムソンは呆然とした。
なぜだ? なぜイギリスは急に日本に媚び始めた?
その時、彼の視界の端で傍聴席に座る山本五十六が、ヴィッカース社のローレンス会長と親しげに目配せを交わしているのが見えた。
(……まさか)
スティムソンは戦慄した。
買収されたのだ。個人ではない。「国家の産業基盤」ごと。
日本は軍縮会議のテーブルの下で、イギリスの基幹産業に「発注書」という名の莫大な賄賂を渡し、イギリス政府の喉元を握ったのだ。
「……アメリカは、反対する」
スティムソンは震えていた。
怒りではない。恐怖だった。
目の前のイギリス首相マクドナルドの瞳には、かつてのアングロサクソンの同胞としての温かみは微塵もない。あるのは冷徹な計算と、「持てる者(日本)」への追従だけだった。
「……首相。貴国は、太平洋の安全保障を売り渡す気か!」
スティムソンは最後の力を振り絞って吠えた。
「日本の潜水艦7万8千トン! これは我々の通商路を脅かす『狼の群れ』だぞ! それを認めるということは……」
「ミスター・スティムソン」
マクドナルドは、冷ややかに遮った。
「貴国は、我々に『戦債を返せ』と言った。我々は返すために金を稼がねばならん。
日本は我々に仕事(S型潜水艦40隻)をくれた。そして代金をくれた。
……我々はその金で、貴国への借金を返済するのだよ。
貴国は金が返ってくる。我々は雇用が守られる。日本は潜水艦を得る。
……日本のことわざでいう、『三方良し(Win-Win-Win)』ではないかね?」
スティムソンは絶句した。
自分の放ったブーメラン(戦債取り立て)が、日本の潜水艦という鋭利な刃物になって、自分の喉元に返ってきたのだ。
⸻
時:翌日
場所:ロンドン、ダウニング街10番地・首相官邸
ロンドンの日曜日の天気は、雨だった。
だが、首相官邸の閣議室に降り注いでいたのは、雨粒ではなく、アメリカ合衆国国務長官ヘンリー・スティムソンの唾だった。
バンッ!!
スティムソンは、机を拳で叩き割らんばかりの勢いで立ち上がっていた。
「……改めて申し上げる。正気かね、マクドナルド首相!」
彼の目の前には、英国首相ラムゼイ・マクドナルド、外相アーサー・ヘンダーソン、そして海軍大臣A.V.アレグサンダーが、冷ややかな顔で座っている。
「40隻だぞ! 日本に、潜水艦を40隻も!
しかも、貴国の虎の子である『ASDIC』と『全溶接技術』まで付けて売り渡すとは、一体何事だ!」
スティムソンの顔は、怒りで紫色に変色していた。
「貴国は欧州大戦でUボートに何をされたか忘れたのか!
潜水艦は『卑劣な兵器』だ! それを、太平洋の覇権を狙う日本に、大量に供給する……。
これは、我々アメリカに対する裏切りだ!
『協調』という言葉を、辞書で引いてきたらどうだ!」
スティムソンの怒号が、厚い壁に反響する。
だがマクドナルド首相は、紅茶のカップをソーサーに戻すと、静かに、しかし絶対零度の声で答えた。
「……辞書なら引きましたよ、ミスター・スティムソン。
『協調(Alliance)』の項の隣に、『破産(Bankruptcy)』と『偽善(Hypocrisy)』という単語が載っていましたな」
「……何だと?」
マクドナルドは、顎で海軍大臣に合図した。
アレグサンダー大臣が、一枚の写真をテーブルに滑らせた。
ニューポート・ニューズ造船所で、日本海軍のために改装中の『プレジデント・クーリッジ』の写真だ。
「長官。貴国の辞書には、『航空母艦の卵』を『客船』と言い換える項目があるようですな」
アレグサンダーが、低い声で詰問する。
「全長220メートル。電気推進。速力28ノット。
……貴国は、この怪物を『2隻(日本建造1隻追加で3隻)』も日本に売却した。
しかも、GEの技術者付きでだ」
スティムソンが口ごもる。
「あ、あれは……民間企業の……倒産を防ぐための……」
「民間?」
外相ヘンダーソンが、嘲笑った。
「ならば、ヴィッカース社の潜水艦輸出も『民間取引』です。
我々も、倒産を防ぐために売ったのです。貴国と同じように」
「規模が違う! 潜水艦40隻だぞ!」
「質が違います!」
アレグサンダーが声を荒らげた。
「貴国が売った『フーバー級』は、たった一隻で我が軍の巡洋艦隊を翻弄できる怪物だ!
それに引き換え、我々が売ったのは排水量700トンの豆鉄砲(S型)だ。
……太平洋の脅威を拡大させたのは、どちらかね?」
スティムソンは、反論の言葉を探した。だが脳裏に浮かぶのは、自国の造船所が日本の注文で潤っているという、否定しようのない事実だけだった。
マクドナルド首相が追撃を加えた。
彼は、ロンドンの株式市場のレポートを指先で弾いた。
「それに、ヘンリー。
君は『協調』と言ったが……友好国の喉元にナイフを突きつけるのが、アメリカ流の友情かね?」
「……何の話だ」
「『スタンダード・オイル』だよ!」
マクドナルドが、初めて感情を露わにして叫んだ。
「貴国のスタンダード・オイルとモルガン銀行は、我が国の至宝『ロイヤル・ダッチ・シェル』に対し、卑劣な空売りと敵対的買収を仕掛けた!
我々が不況で苦しんでいる隙に、火事場泥棒のように襲いかかってきたではないか!」
「そ、それは……政府は関与していない! 独禁法の範囲内で……」
「黙れッ!!」
マクドナルドの剣幕に、スティムソンがたじろぐ。
「我々がシェルを救う金を持っていなかった時、誰が助けてくれたと思う?
……日本だ!
日本海軍が、即金でタンカーを買ってくれたおかげで、シェルは生き延びたのだ!
貴国が殺そうとしたものを、日本が救った。
……我々がどちらに『義理』を感じるべきか、子供でも分かる理屈だろう!」
スティムソンは、椅子に崩れ落ちた。
完全に論破されていた。
アメリカ政府が「不干渉」を決め込み、自国企業の暴走(フーバー級売却、シェル買収)を放置した結果が、このザマだ。
イギリスは今、「アメリカ=強盗」「日本=救世主」と認識している。
「……つまり、何か」
スティムソンは、乾いた唇を舐めた。
「貴国は、日本の要求を……支持すると?」
「支持はしません」
マクドナルドは、冷ややかに言った。
「ただ、『反対はしない』だけです。
日本とアメリカ、どちらが何割持とうが、我々の知ったことではない。
……我々は、自国の造船所と石油会社を守るために忙しいのでね」
一方ヴィッカースの工場では、久々に汽笛が高らかに鳴り響いていた。
労働者たちは、掲示板に張り出された「40隻受注・全員復帰・給料満額保証」の張り紙を見て、帽子を投げて歓声を上げていた。
「God Save the King! (国王陛下万歳!)」
「No! God Save the Japanese Navy! (違う! 日本海軍万歳だ!)」
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