『勝利』の結果
時:1930年(昭和五年)、3月
場所:ワシントンD.C. 日本大使館
東郷一成の武官府には、財務省からの最終回答書が置かれていた。
今度の内容は「YFD-2(ニューオーリンズの浮きドック)の売却は、海軍作戦部の猛反対により中止、あるいは大幅な価格吊り上げを要求する」というものだった。
「……やれやれ」
東郷は、書類をデスクの端に追いやった。
「ヒューズ提督も必死だな。たかだか1万8000トンの揚力しかない中古ドックにしがみつくとは」
秘書の橘小百合が、苦々しげに言った。
「いかがされますか? 交渉を続けますか?」
「いいや、時間の無駄だ」
東郷は受話器を取り上げた。
「彼らが『古道具』を高値で売りたくないと言うなら、結構。
我々は『新品』を、それも『特注品』を、彼らの隣人からその金で買うことにしよう」
東郷の連絡先は、アメリカ政府ではない。
不況で死に体となっている、アメリカの民間巨大造船所たちだった。
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時:数日後
場所:バージニア州、ニューポート・ニューズ造船所・社長室
社長のホーマー・ファーガソンは、目の前に広げられた図面を見て、葉巻を落としそうになった。
隣には、ニューヨーク造船所の重役も同席している。普段はライバル同士だが、今日は「日本海軍」という太客の前で、呉越同舟の姿勢を取っていた。
「……ミスター・トーゴー。これは……ドックですか?」
ファーガソンが震える声で尋ねた。
図面に描かれているのは、見たこともない異形の構造物だった。
10個のセクション(区分)に分かれた、巨大な箱。それを連結すると、全長312メートル、幅86メートルにもなる。
揚力、10万9000トン。
当時の最大戦艦ですら4万トン級だというのに、その倍以上の怪物を持ち上げられる計算だ。
「ええ。日本語では『超大型組立式浮船渠』と呼びます。英語にするなら……『アドバンスド・ベース・セクショナル・ドック(ABSD)』あたりでしょうか」
東郷が契約書を提示した。
「発注数は、5基。
総額、6,000万ドル。
支払いは即金。皆様に分散して発注いたします。
……受けられますか?」
6,000万ドル。
それは、アメリカ政府がYFD-2の売却で得られるはずだった金額の数倍だ。
造船所にとっては、向こう数年間のドックが埋まり、数万人の雇用が守られる救済の雨だった。
「……技術的には可能です」
技師長が、青ざめた顔で計算尺を弾いた。
「戦時中に研究されていた分割方式を拡張すれば……。しかしこれほど巨大なドックで、一体何を修理するつもりなのですか? パナマ運河すら通れないサイズですよ?」
「だから『セクショナル(分割式)』なのですよ」
東郷は微笑んだ。
「10個に分割し縦横を入れ替えれば、パナマ運河も通れるし、太平洋を曳航することもできる。
そして目的地に着いてから、溶接して組み立てる。
……そうすれば、そこは即座に『東洋のパールハーバー』になる」
造船所の経営者たちは、顔を見合わせた。
このドックが完成すれば、日本海軍は太平洋のど真ん中で、どんな巨大戦艦でも修理できるようになる。それは米海軍にとって悪夢だ。
だが。
目の前には6,000万ドルの現金がある。
断れば会社は倒産し、工員は路頭に迷う。政府は助けてくれない。
「……やります」
ファーガソン社長は、決断した。
「我々は造船屋だ。客が注文したものを造るのが仕事だ。
……たとえそれが、将来我々の艦隊を脅かす『要塞の土台』だとしてもな」
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時:同日
場所:ロンドン、ロイズ保険組合ビル
この巨大プロジェクトには、もう一つの「共犯者」がいた。
大英帝国の金融の心臓、ロイズ保険組合だ。
欧米視察の名目でアメリカからイギリスに渡った小沢治三郎中佐は、アンダーライター(引受人)のテーブルに、浮きドックの輸送計画書を置いた。
「……アメリカ東海岸から、パナマ経由で日本、および南洋諸島へ。
この巨大なドックの分割輸送(曳航)に関する、海上保険を引き受けていただきたい」
ロイズの老紳士は、眼鏡を拭きながら言った。
「……リスクが高いですな。太平洋の嵐、そして何より……アメリカ政府による妨害のリスクが」
「ご心配なく」
小沢は、その鬼瓦のような顔に笑みを浮かべた。
「アメリカの造船所が、生活をかけて造った製品です。米政府がこれを差し止めれば、数万人の失業者がホワイトハウスに火をつけに行きますよ。
それに……シェル・タンカーの件で我々と貴国との間には、太いパイプがありますから」
ロイズは日本海軍がシェルを救済し、タンカーを買った恩義を忘れてはいなかった。
日本は今や、ロイズにとって最大かつ最良の顧客候補なのだ。
「……承知しました。
『ロイズ』の名にかけて、この荷物は確実に目的地まで保証しましょう。
アメリカ海軍が手出しできないよう、再保険の網も完璧にかけておきます」
こうしてアメリカで作られ、イギリスが保証し、日本が使うという、奇妙な三角同盟による「要塞建設」が始まった。
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場所:ワシントンD.C. 財務省長官室
その部屋には凍てつくような沈黙と、財務長官アンドリュー・メロンの震える呼吸音だけが響いていた。
彼の目の前には、海軍作戦部長ヒューズ大将と、海軍長官アダムスが座っている。
メロンは、一枚の薄っぺらい小切手を指先で弾いた。
「……500万ドル」
メロンの声は低く、ドスが効いていた。
「私が東郷大佐と握った話では、総額7,000万ドルの取引になるはずだった。
だが、君たちが『現役の工作艦は売らん』『給油艦もダメだ』『ドックは維持する』と駄々をこねた結果……。
国庫に入ったのは、あのボロ屑の給炭艦代、たったの500万ドルだ」
ヒューズ提督は、脂汗をかきながらも反論した。
「し、しかし長官! 虎の子の工作艦と給油艦を守ったのです! これは海軍としての勝利です!」
「勝利だと?」
メロンは別の報告書を机に叩きつけた。
「これを見ろ! 商務省からの報告だ!
東郷大佐は政府との交渉が決裂したその足で、民間企業に向かった。
そして……ベスレヘム、ニューポート・ニューズ、ニューヨーク、サンフランシスコ造船所と、総額『8,000万ドル』の契約を結んだ!」
「は、8,000万ドル!?」
アダムス長官が絶叫した。
「内訳だ。
『マトソン・ラインの中古船』4隻の買取と工作艦への改装。
そして……『拡張型超大型浮きドック』5基の新規建造だ」
メロンは天井を仰いだ。
「……分かるか?
君たちが中古品を出し渋ったせいで、日本は『新品』を注文したんだ。
そのカネ(8,000万ドル)は、全て民間企業の懐に入った。
財務省の金庫には、1セントも入らん! 法人税は恐慌の繰越欠損金で相殺されるからな!」
ヒューズは青ざめた。
「大型浮きドックを……5基も? しかも拡張型だと?」
「そうだ。君たちが守ったYFD-2(揚力1.8万トン)の、実に6倍の能力を持つ怪物を5つもだ。
……君たちの『勝利』の結果がこれだ。満足かね?」
メロンの声は、諦めを超えて慈悲深くすらあった。
「……それに言っただろう。『予備役艦の維持費は出さん』と。
君があの時、工作艦や給油艦を日本に売っていれば、7,000万ドルの現金が手に入った。
その金があれば、『テキサス』のペンキ代くらいは出ただろう」
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時:数ヶ月後
場所:フィラデルフィア海軍工廠・予備役艦艇係留地
夏の湿気を含んだ風が、淀んだ港の海面を撫でていた。
そこには、数百隻にも及ぶ大戦の生き残り――駆逐艦、旧式戦艦、そしてヒューズ作戦部長が「売却拒否」して守り抜いた給油艦や工作艦たちが、お互いの船体を擦り合わせるように、ぎゅうぎゅう詰めに係留されていた。
だが、その光景は「栄光の艦隊」ではなく「鉄の墓場」だった。
かつて「大西洋の盾」と呼ばれた戦艦『テキサス』は、いまや巨大な鉄の墓標として岸壁に繋がれていた。
その甲板は赤錆で覆われ、主砲塔は防水シートではなく、ボロボロの帆布で雑に覆われているだけだ。
レイモンド・スプルーアンス中佐と、マーク・ミッチャー中佐は、視察のためにその桟橋に立っていた。
だが、二人の足は止まっていた。
目の前の光景が、あまりにも惨めだったからだ。
「……酷いな」
ミッチャーが、ハンカチで鼻を押さえながら呻いた。
腐った海藻と、錆びた鉄、そして漏れ出した重油の臭いが充満している。
かつての大艦隊は、今や「幽霊屋敷」だった。
船体は赤錆に覆われ、ペンキは剥がれ落ちて地肌がのぞいている。
本来なら湿気から守るためにカバーされるべき砲塔や機関部のハッチは、破れた帆布で適当に覆われているだけか、あるいは開けっ放しだ。
「……管理官!」
スプルーアンスが、小屋から出てきた管理担当の少尉を怒鳴りつけた。
「これはどういうことだ! 『モスボール(保存処置)』されているはずだろう!
なぜ防錆塗装をしていない! なぜ機関部に除湿機が回っていない!」
少尉は、疲れ切った顔で敬礼した。
「予算がありません、中佐。
塗装用のペンキも、防錆油も、電気代も……財務省からすべてカットされました。
我々にできるのは、沈まないように浸水をポンプで汲み出すことだけです」
「……人は? 整備員はどうした?」
「レイオフされました。
優秀な工員はみんな、隣の民間造船所に行きましたよ。
……あそこなら、日本人がドル現金で給料をくれますから」
スプルーアンスは言葉を失った。
彼は、係留されている給油艦『カウィーア(AO-15)』の甲板に飛び乗った。
ヒューズが「艦隊の足だ、絶対売らん」と抱え込んだ船だ。
艦内に入った瞬間、スプルーアンスは絶叫したくなった。
ない。
パイプがない。バルブがない。真鍮製の計器類が、根こそぎ消えている。
「……盗まれたのか?」
「いいえ、中佐」
追いかけてきた少尉が淡々と言った。
「『共食い(Cannibalization)』です。
現役艦の修理予算もないので、予備役艦から使える部品を外して回しているんです。
……それに一部は警備兵が夜な夜な外して、屑鉄屋に売っているという噂も……」
スプルーアンスはむき出しになった配管の切断面を見つめ、拳を壁に叩きつけた。
鈍い音が、空っぽの船倉に響く。
「……これが、ヒューズ提督が守った『国家の財産』か?
ただのドンガラじゃないか!!」
ミッチャーが、甲板から双眼鏡で対岸を指差した。
「……レイ。あっちを見ろ」
デラウェア川の対岸、ニューヨーク造船所のドック。
そこでは、日本海軍が購入したハリスクラス運送艦『佐渡(元プレジデント・ピアース)』が、眩しいほどの照明の下で整備工事を受けていた。
船体は丁寧に錆を落とされて再塗装されている。
アメリカ人の工員たちが、生き生きと働いている。
その船の中には大量のアメリカ製品が、新品のまま搬入されているのだ。
「……笑えるな」
ミッチャーは、乾いた笑いを漏らした。
「敵の船は、俺たちの国の造船所で、俺たちの国の技術者によって、ピカピカに磨き上げられている。
味方の船は、俺たちの目の前で、俺たちの手によって、錆びたゴミに変えられている」
スプルーアンスは、崩れ落ちそうになる体を支柱で支えた。
彼は理解してしまった。
東郷一成がなぜあの時、あっさりと引き下がったのかを。
(……奴は知っていたんだ。
我々が『売らない』と決めた瞬間、この船たちが『負債』に変わることを。
金のない軍隊が抱え込んだ装備が、どういう末路を辿るかを)
「……マーク。俺たちが『オレンジ・プラン』で想定していた艦隊は、もう存在しない」
スプルーアンスの声は震えていた。
「この給油艦は、二度と動かない。直す金で新造したほうが安いレベルだ。
駆逐艦もだ。ボイラーが腐っている。
……いざ戦争になった時、我々はハワイから一歩も出られないぞ。
太平洋を渡るための靴が、靴箱の中で腐って底が抜けているんだからな」
二人の士官は錆びついた甲板の上で、南の空を見上げた。
そこには東郷一成がいる。
彼は今頃、ワシントンの大使館で、この光景を想像しながらコーヒーを飲んでいるのだろうか。
「……畜生」
ミッチャーが、空き缶を蹴り飛ばした。
「日本に撃たれて沈むなら、まだ軍人として諦めもつく。
だが……予算不足とメンテナンス不良で自滅するなんて、あまりに惨めすぎる」
フィラデルフィアの風は、錆の粉を巻き上げて吹いていた。
それはかつて世界最強を誇ったアメリカの海軍力が、緩やかに、しかし確実に「死」に向かっている匂いだった。
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