ベネズエラ
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:ペンシルベニア州ピッツバーグ、メロン・ナショナル・銀行本店
かつて「世界の工場の心臓」と呼ばれたピッツバーグは、今や巨大な鉄の墓場と化していた。
高炉の火は消え、煙突からは煙の代わりに冷たい冬風が吹き抜ける。街を覆う静寂は平和ではなく、経済活動の「死」を意味していた。
その街を見下ろすメロン・ナショナル・銀行の最上階。
メロン財閥の実質的な総帥であり、財務長官アンドリュー・メロンの弟であるリチャード・B・メロンは、執務室の窓ガラスに額を押し付けていた。
彼の目の前には、かつて「アメリカ三大財閥」の一角として世界に君臨したメロン・エンパイアの連結決算見込みが広げられていた。
そこに並ぶ数字は、赤、赤、赤。
それは企業の成績表というより、瀕死の重症患者のバイタルデータのようだった。
「……リチャード様」
財務担当役員が、乾いた唇を舐めながら報告を始めた。
「キャッシュ(現金)の燃焼スピードが、想定を超えています。このままでは、今期末の配当はおろか、運転資金すらショートしかねません」
リチャードは、震える手で眼鏡を外した。
「なぜだ。我々はキャッシュリッチだったはずだ。不況になれば、安値で資産を買い叩くのが我々の流儀だったはずだ!」
「その『資産』が、カネを産まなくなったのです」
役員は、残酷な現実を突きつけた。
その時秘書が、死人のような顔で入ってきた。
「……お客様です。裏口から、極秘に」
「誰だ。借金取りか?」
「いいえ。……『買い手』だそうです」
現れたのは、仕立ての良いスーツを着た東洋人だった。
伊藤整一・日本帝国海軍中佐。その背後には、スーツではない“規律”があった。
東洋人は慇懃に一礼すると、一枚の小切手をデスクの上に滑らせた。
そこには、震えるような数字が印字されていた。
『額面・400,000,000ドル(振出人:日本帝国海軍制度信用基金)』
リチャードは息を呑んだ。
4億ドル。
それは「一企業の取引額」ではない。
当時の中堅国家の年間予算に匹敵する。この金があれば、銀行は一年は生き延びる。
二年持てば、嵐が去る可能性もある。
だが流動性が蒸発したこの国で、これだけの「真水」を用意できるのは、神か、国家か、あるいは狂気だけだ。
「……何の冗談だ」
リチャードの声が震えた。
「冗談ではありません、メロン会長」
伊藤は一枚の地図を広げた。
それはアメリカの地図ではない。カリブ海から南米大陸北部を描いた、資源地図だった。
「我々が頂きたいのは、貴財閥の『海外資産』です。
ガルフ・オイルが保有するベネズエラのマラカイボ油田などアメリカ国外の油田。
そしてアルコアが保有する、スリナムなどアメリカ国外のボーキサイト(アルミ原料)鉱山。
……これらの権益と現地法人の株式を、100%譲渡していただきたい」
「なっ……!?」
リチャードは激昂した。
「ふざけるな! それは我々の未来だ!
航空機時代の到来に備えて確保したアルミ資源と、枯渇しつつあるテキサスを補うための重要な油田だぞ! それを売れということは、手足を捥げと言うに等しい!」
「ええ。ですが会長」
日本人は冷徹に、しかし静かな声で告げた。
「手足を捥がなければ、心臓が止まりますよ」
彼は窓の外の群衆を指差した。
「あと半月で、貴行の運転資金はショートを起こす。そうなれば、海外資産どころか、このビルの椅子一つに至るまで競売にかけられ、二束三文で買い叩かれるでしょう。
……我々は、市場価格の『2倍』を提示しています。油田も鉱山も、今は“負債”としてしか評価されていない。
だからこそ、我々はその倍を今すぐ現金で払う。
これは帝国海軍からの最大限の『敬意』であります。……売らない理由がありますかな?」
2倍。
破産寸前の企業にとって、それは悪魔の囁きであり、同時に地獄からの唯一の非常口だった。
「……SIDA(戦略的産業防衛法)がある。政府が許すわけがない」
リチャードは最後の抵抗を試みた。
「ご安心を。我々の法務チーム(サリヴァン弁護士たち)が確認済みです。
SIDAが禁じているのは『合衆国国内』の重要産業への出資です。
ベネズエラやスリナムの現地法人は、米国法の下にはありません。これはあくまで、外国企業同士の取引です。
……法は、そこまでは想定していないですよ」
「……兄(財務長官)が知ったら、私を殺すだろうな」
リチャードは自嘲した。
国務省は激怒するだろう。戦略物資の流出だと騒ぐだろう。
だが今ここでサインをしなければ、メロン家は今日で終わる。
「ですが、お兄様は貴方を助けてくれませんでした」
伊藤は決定的な一言を放った。
「彼が守ろうとしたのは『ドルの信認』であって、『メロン家の繁栄』ではありませんでした。
……皮肉なことです。貴方を救えるのは、お兄様が敵視している日本海軍のドルだけなのですから」
リチャードは、天井を仰いだ。
兄の顔が浮かんだ。冷徹で、高潔で、そして残酷なまでに原理原則を貫く兄の顔。
(……兄さん。あんたは立派だよ。身内を見殺しにしてまで、財政規律を守ったんだからな)
だが、私は違う。私は銀行家だ。家長だ。
泥をすすってでも、一族を生き残らせなければならない。
「……ペンをくれ」
リチャードは、震える手で小切手を押さえた。
万年筆の先が紙に触れる。そのインクの滲みは、アメリカ帝国の血管から血が流れ出るかのように見えた。
署名が終わると、伊藤は地図を畳んだ。
将来の航空機産業を支えるボーキサイトと、艦隊を動かす石油。
西半球の戦略資源の支配権が、ピッツバーグの銀行の一室で、静かに日本海軍の手へと滑り落ちた。
数日後、アンドリュー・メロン合衆国財務長官の手には、弟リチャードからの手紙が握られていた。
『兄さん。財閥は助かりました。銀行は守られました。
……その代償として、我々は海外の翼と足を失いましたが』
メロンは、その手紙を暖炉に投げ込んだ。
紙が燃え上がり、灰になっていく。
彼は、執務机の上の報告書に目を落とした。
日本海軍による、スリナム・ボーキサイト鉱山の買収完了。
そして、日本のアルミニウム精錬計画の大幅な上方修正。
メロンは、机の引き出しから「医療用ウイスキー」を取り出した。
グラスに注ぎ、一気に呷る。
苦い。
アメリカはまだ倒れてはいない。
だがその身体からは確実に、将来の成長のための「栄養(資源)」が抜き取られていた。
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場所:ニューヨーク、ブロードウェイ26番地 スタンダード・オイル本社ビル
そのビルの最上階は、アメリカ資本主義の「神殿」と呼ばれていた。
ロックフェラー家が築き上げた石油帝国の総本山。そこからは自由の女神像も、そして眼下のウォール街で右往左往する銀行家たちも、すべて豆粒のように見下ろすことができた。
社長のウォルター・ティーグルは、広大な執務室で一枚のレポートを指先で弾いていた。
それは、ピッツバーグで成立した「日本海軍とメロン財閥の4億ドル取引」の報告書だった。
「……リチャード(メロン弟)も、随分と安く買い叩かれたものだな」
ティーグルは上質な葉巻の煙を吐き出しながら、憐れむように言った。
「ベネズエラの権益とスリナムの鉱山を、たったの4億ドルか。……まあ、首が回らない正直な銀行家にしては、上出来な逃げ道だったかもしれんが」
同席していた重役が、懸念を口にした。
「ですが社長。これで日本海軍は、自前の『石油(ガルフの元権益)』を手に入れました。
これまで我々の子会社IPCからNCPC債で喜んで買っていた原油を、今後は自給自足し始める恐れがあります。
……我々の『ドル箱』が減るのでは?」
「……ふん。浅はかだな」
ティーグルは、鼻で笑った。
「日本が手に入れたのは、ベネズエラの『重質油』だ。
ドロドロで硫黄分が多く、そのままでは軍艦のボイラーを傷める。ましてや、航空機のエンジンには使えない代物だ」
彼は立ち上がり、壁の世界地図――日本の支配地域が赤く塗られた地図――を睨んだ。
「東郷という男は賢いが、欲張りだ。
彼はアルミ(ボーキサイト)を手に入れ、航空機産業を興そうとしている。
だが、彼には決定的に欠けているものがある」
ティーグルは、黒板に化学式を書き殴った。
『C8H18(イソオクタン)』
「ハイオクタン・ガソリンだ。
最新鋭の航空機を飛ばすには、普通のガソリンではダメだ。アンチノック性の高い、高品質な燃料がいる。
そしてその製造技術(熱分解法・改質法)と、添加剤(テトラエチル鉛)の特許は……全て我々スタンダード・オイルと、アメリカの企業が握っている」
ティーグルは、獰猛な笑みを浮かべた。
ガルフ・オイルの資産など、ただの「原油」に過ぎない。それを「兵器」に変える魔法の杖は、自分たちが持っているのだ。
「……日本海軍に連絡しろ。東郷大佐にこう伝えるんだ。
『ガルフの油田を買収されたこと、心よりお祝い申し上げる。
ついては、その汚れた原油を、世界最高水準の航空ガソリンに変えるための“最新鋭製油所プラント”を、貴国に建設する用意がある』とな」
重役が息を呑んだ。
「せ、製油所を……売るのですか? 戦略技術の流出になりますが……」
「売るんじゃない。『貸してやる』んだよ」
ティーグルは、目を細めた。
「プラントの建設費は、もちろん全額日本持ちだ。支払いはNCPC債でいい。
だがそのプラントを動かすための触媒、添加剤(テトラエチル鉛)、そしてメンテナンス技術は、永遠に我々が供給し続ける。
……日本が飛行機を飛ばせば飛ばすほど、我々にチャリンチャリンと特許料が入る仕組みにするんだ」
彼は、窓の外の摩天楼を見下ろした。
「メロンは『過去の資産』を売って生き延びた。
我々は日本の『未来の喉元』を押さえて、永遠に搾り取る。
……それが、スタンダードの流儀だ」
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