政府の味
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:シカゴ、ユニオン・ストックヤード近隣
氷点下の風がミシガン湖から吹き荒れるシカゴの一角で、奇妙な熱気を帯びた工場が稼働していた。
かつては大手精肉業者「アーマー社」の系列だったが、不況の波に呑まれ、閉鎖されて廃墟同然になっていた缶詰工場だ。だが今、その赤煉瓦の煙突からは再び黒煙が上がり、構内には数百人の労働者たちの活気――いや、安堵と誇りの混じった熱気が満ちていた。
工場の入り口には、真新しいペンキで書かれた看板が掲げられている。
『Imperial Japanese Navy Provisioning Plant No.1(日本帝国海軍・第一糧食工場)』
ベルトコンベアの上を流れてくるのは、銀色に輝くブリキ缶の洪水だ。
中身は、塩漬けにされた牛肉――コンビーフ。
原料は、シカゴ市場で在庫過多となり、廃棄寸前だった「ブリスケット(肩バラ肉)」。アメリカ人がステーキには硬すぎると敬遠し、飼料用や石鹸の原料にするしかないとされていた部位だ。
日本海軍はこれを、頭数単位で購入したチャック(肩ロース)の「ついで」として、ポンドあたり12セントという捨て値で大量に買い叩いた。そしてじっくりと塩漬けにし、高圧で煮込んでほぐし、缶に封じ込めた。
工場長を務めるのは、元食肉工場のマイスターだったアイルランド系移民の男だ。彼は出来上がった缶詰を手に取り、満足げに頷いた。
「……いい出来だ。USスチールのブリキは丈夫だし、何より肉がたっぷり入っている」
彼は缶のラベルを指でなぞった。デザインはシンプルだが、それが逆に実直さを感じさせる。
『IJN Special Corned Beef(日本海軍特製コンビーフ)』
『Product of USA / Provided by Imperial Japanese Navy』
「皮肉なもんだな。俺たちが作った肉を、俺たちの政府じゃなくて、日本の海軍さんが買い取って、また俺たちに食わせてくれるんだからな」
この工場で働く労働者たちは、全員がこの冬路頭に迷うはずだった失業者たちだ。
日本海軍は彼らを雇い、市場ではまだ換金性の高い「NCPC債」と、ドルを半分ずつで給料を払った。
さらに彼らには、「作った缶詰を週末に家族へ持ち帰ってよい」という特典を与えた。
この「ウィークエンド・スペシャル」こそが、彼らにとっての本当の給料だった。金はインフレで目減りするかもしれないが、肉のカロリーは減らない。
彼らにとって、この工場は単なる職場ではなく、命綱そのものだった。
⸻
時:数週間後
場所:横浜港・大桟橋
太平洋を越えてきたアメリカ船籍の輸送船が、重そうに喫水を沈めて接岸した。
蒸気ウィンチが唸り、デリックが巨大な荷網を吊り上げる。中には最新鋭の旋盤やフライス盤だけでなく、無骨な木箱が山のように積まれている。
「……おい、なんだあの量は。弾薬か?」
出迎えに来た海軍省の若手士官が、双眼鏡を下ろして目を丸くする。
クレーン操作の揺れで、木箱の一つが崩れ、中から銀色の金属缶が転がり落ちた。甲板に落ちてへこんだそれを拾い上げた士官は、ラベルの英語を読んで首をかしげた。
『IJN Special Corned Beef』
「……牛肉、ですか? こんなに?」
報告を受けた軍務局長・堀悌吉は、リストを見てニヤリと笑った。
「東郷からの土産だ。『アメリカの牛が余りすぎて可哀想だから、日本で引き取ってやった』そうだ。向こうでの配給分を除いても、月産数百万缶が余るらしい。……船底のバラスト(重し)代わりにもなる」
堀は、主計局長に即座に指示を出した。
「全軍に配れ。士官用ではない、下士官兵の糧食だ。
それから、横須賀、呉、佐世保、舞鶴。各工廠の工員食堂、それに商工省が指導している紡績工場の女工たちにもだ。
これからは『海軍カレー』の肉が増えるぞ。肉じゃがもいいな。醤油と砂糖で煮込めば、塩辛いアメリカの肉も、上等な和食に化ける」
当時の日本において、牛肉は高級品だった。すき焼きはハレの日のご馳走だ。それをアメリカ産の激安ビーフで作った缶詰として、軍や工場の現場に日常的に大量供給する。
このインパクトは、給料の増額以上の効果があった。
「海軍に行けば、白い米と牛肉が腹一杯食える」
「工廠で働けば、子供に肉缶を持って帰れる」
それは単なる食料支援ではない。
「海軍についていけば肉が食える」という、強烈な求心力を生み出す装置だった。
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時:同日
場所:シカゴ・サウスサイド 叔母の屋根裏部屋
その夜、パパは珍しく、少しだけ胸を張って帰ってきた。いつもなら俯いて帰ってくる背中が、今日は妙に明るく見えた。
手には、茶色い紙袋を大事そうに抱えている。
「メアリー、ベティ。……見てくれ。政府がついに、俺たちを助けてくれるぞ」
ママが期待に満ちた顔で立ち上がり、編みかけの靴下を置いた。
「まあ! 職業紹介所から仕事が回ってきたの? それとも、現金給付が決まったの?」
「いや、もっと『即効性』のあるものだ」
紙袋から出てきたのは、パンでも、肉でも、石炭でもなかった。
琥珀色の液体が入った、ガラス瓶だった。
「……ウイスキー?」
ベティは眉をひそめた。禁酒法の国で、堂々と酒を持って帰ってくるなんて。
「違うんだ、ベティ。よくラベルを見ろ」
パパが突き出した瓶には、財務省の鷲の紋章と、もったいぶった活字が印刷されていた。
『合衆国財務省認可・医療用蒸留酒(Medicinal Spirits)』
『効能:経済的困窮による神経衰弱、うつ状態の緩和、疲労回復』
「……は?」
あたしは口を開けたまま固まった。
「うつ状態の緩和? つまり、酔っ払って忘れろってこと?」
「しっ! 人聞きが悪いぞ。これは『治療』だ」
パパは、ポケットからしわくちゃの処方箋を取り出した。そこには見覚えのない医者の殴り書きのサインと、「鎮静剤として経口摂取を推奨」という判が押してある。
「診察代が2ドル。薬代が3ドル。合計5ドルだ」
「5ドルですって!?」
ママの悲鳴が屋根裏に響き渡った。彼女の顔色が、さっと青ざめる。
「あなた! 正気なの!? 5ドルあれば、小麦粉が1ヶ月分買えるのよ! トミーの靴だって買えるわ! それを、こんな……こんな『お薬』一本に!?」
「だ、だがな、メアリー。よく聞け。この金の半分は『連邦救済基金』に入るんだそうだ。つまり、俺がこの酒を飲めば飲むほど、国にお金が入って、巡り巡って俺たちの失業対策に使われるんだぞ!
これは……そう、愛国的な行為なんだ!」
あたしは、部屋の隅に置かれた「空き缶」を見た。昼間日本海軍の給食所でもらってきた、コンビーフの空き缶だ。
あの時、日本人は何も要求しなかった。「天皇陛下万歳」と叫べとも言わなかったし、金を取ろうともしなかった。ただ、肉をくれた。
対して、あたしたちの政府は?「国を救うために、高い酒を買え」と言う。「現実を見るな、酔って忘れろ」と言う。
「ねえ、パパ」
あたしは、冷ややかに言った。あたしが知る限り、もっとも冷酷な声で。
「その『お薬』、よく効くといいわね。だって敵(日本)はタダで肉を食わせてくれるのに、味方は金を取って毒を飲ませるんだもの。
酔っ払ってなきゃ、やってられない冗談だわ」
パパは何も言えず、震える手でボトルの封を切った。コップに注がれる琥珀色の液体。それは、かつて繁栄を誇った自由の国が、プライドを恥で割り、薄めた汁のように見えた。
パパが一気にそれをあおる。
「……うっ。……効く。……ああ、政府の味がするよ」
その夜、パパはすぐにイビキをかいて寝てしまった。彼にとっては、「愛国的な泥酔」が唯一の毛布だったのだろう。
あたしは窓の外を見た。遠くで日本海軍の給食所の明かりだけが、皮肉なほど明るく輝いていた。あそこは、まだ開いている。
もし、未来の歴史の教科書にあたしが何か書き込めるなら、こう書くだろう。
『1930年、アメリカ合衆国政府は、国民の胃袋ではなく、肝臓をターゲットにした』
あたしは、日本海軍のマークが入った空き缶にそっとキスをした。
少なくとも、この缶詰の中身には嘘も言い訳も入っていなかったから。
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