医療用に限る
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:ワシントンD.C. 合衆国財務省・長官室
窓の外では、ポトマック川が灰色に凍てついていた。その光景は、この国の財政状態そのものだった。
財務長官アンドリュー・メロンは、マホガニーの執務机に置かれたバカラのグラスを、もはや書類の山の下に隠そうともしなかった。グラスの中の液体は、本来ならばこの部屋にあってはならない「違法な」琥珀色――12年物のスコッチ・ウイスキーだった。
「……報告を続けろ」
メロンの声は、枯れた落ち葉のように乾いていた。
財務官僚たちが、死刑宣告を読み上げるように数字を並べる。
「今年度末の国債利払い資金、不足額は推定2億ドル。日本海軍によるドル及び英仏によるゴールドの吸い上げと、それに伴う税収の蒸発が致命傷となっています」
「所得税は壊滅です。ウォール街のキャピタルゲインが消滅し、さらに銀行団が計上した巨額の繰越欠損金が、今後数年の法人税をゼロにしました」
「関税も期待できません。世界的な保護貿易の連鎖で、物流が止まっています」
沈黙が落ちた。暖炉の火が爆ぜる音だけが響く。
それはアメリカ合衆国という巨大な株式会社が、静かに債務不履行へと向かう足音だった。
「……カネだ。金がいるんだ」
メロンは、アルコールで少しだけ鈍らせた頭脳を、無理やり回転させた。
どこかに、まだ手をつけていない巨大な水源があるはずだ。国民が飢えと乾きの中でも、理性を失ってでも金を払うような何かが。
彼の視線が、部屋の隅に追いやられていた分厚い法典に吸い寄せられた。
『ボルステッド法(国家禁酒法)』
1920年以来、この国を「高潔な乾燥した(ドライ)国家」たらしめてきた、呪わしき聖典。
「長官……まさか、禁酒法の撤廃をお考えで?」
主席顧問弁護士が、主人の視線に気づいて青ざめた。
「不可能です。憲法修正第18条がある以上、酒の『製造・販売』は憲法違反です。これを覆すには、各州の批准を含めて数年はかかります。その前に国庫が尽きます」
「分かっている!」
メロンはグラスを叩きつけた。琥珀色の飛沫が、赤字の決算書を汚す。
だが、そのシミを見つめていたメロンの目が異様な光を帯びて見開かれた。彼はふらつく足取りで法典を掴み、ページを乱暴にめくった。
「……ここだ。ここを見ろ」
彼が震える指で示したのは、法の抜け穴とも言えぬほどの、細い条項だった。
『ただし、医師の処方による医療用アルコールはこの限りではない』
「……これだ」
メロンは憑かれたような低い声で呻いた。その表情は国家の財政を守る守護者というより、禁断の扉を開けるそれだった。
「現在財務省が認可している『医療用ウイスキー』の処方箋発行枠を……100倍、いや、事実上無制限に拡大しろ」
「ひゃ、100倍ですか!? それでは実質的な解禁です! 南部のバイブル・ベルト、禁酒法派が暴動を起こします!」
「構わん! 名目は立つ! なんでもいい、もっともらしい理屈をつけろ!」
メロンは立ち上がり、虚空に向かって叫んだ。
「『未曾有の大恐慌による国民の精神的ストレス(うつ病)が蔓延している。国家の人的資源を守るため、鎮静剤としてのアルコール処方を、政府として緊急かつ強く推奨する』と発表しろ!
これは飲酒ではない! 医療行為だ! 国民のメンタルヘルスを守るための、慈悲深い公衆衛生政策だとな!」
官僚たちは絶句した。それは法解釈の限界を超えた、国家規模の詭弁だった。だが、メロンの目は据わっていた。
「その上で……処方箋の発行手数料、認可薬局への登録税、そしてアルコール1パイントあたりの医療特別税含めて、合計で3ドル……いや、足元を見て5ドルふんだくれ!
シカゴでは、ドラッグストアチェーンのウォルグリーンがその手口でボロ儲けしていると聞く。民間ができるなら、国家がやって何が悪い!」
「……長官、それは」
「酒が飲めるなら、連中は喜んで払う! 今、アル・カポネや密造酒マフィアに流れている莫大な地下マネーを、すべて国庫に吸い上げるんだ!
日本海軍に吸われた血は、アルコールで補うしかない!」
要するに、それは“酒を飲む権利”そのものに税金をかける仕組みだった。
プライドをかなぐり捨てた、なりふり構わぬ徴税計画。
それは「文明国の財政規律の守護者」を自任していたアメリカ政府が、自ら定めた法の精神を蹂躙し、「国営の密造酒ブローカー」へと堕ちた瞬間だった。
⸻
時:数日後
場所:ニューヨーク・マンハッタン、8番街のウォルグリーン薬局
灰色の空から、絶え間なくみぞれが降り注いでいた。
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の記者、ベン・カーターは、コートの襟を立てながら、奇妙な光景を取材していた。大手ドラッグストア「ウォルグリーン」の前に、ブロックを一周するほどの長蛇の列ができているのだ。
店先には、インクの匂いも新しい看板が誇らしげに掲げられている。
『合衆国財務省認可・特別医療用薬局(Designated Medicinal Dispensary)』
ベンは列に並び、店内へと入った。そこはもはや薬局ではなかった。
ソーダファウンテンの奥、かつて調剤室だった場所には、酒屋のカウンターが設えられ、白衣を着た——どう見ても数日前までスピークイージー(闇酒場)でシェイカーを振っていたであろう——無精髭の男が、流れ作業で客をさばいていた。
「次の方。患者さん、症状は?」
男は、手元の帳簿から目を離さずに尋ねる。
「へえ。……えっと、不景気で、女房に逃げられそうで、昨夜から動悸がしまして」
客の男は、芝居がかった咳を一回した。
「それは重症だ。急性経済性不安神経症だな」
白衣の男は、診断に要する時間わずか2秒で、ゴム印を処方箋に叩きつけた。
「特効薬『精神安定液(Spiritus Frumenti)』を処方しましょう。1パイント瓶です。税金と手数料込みで5ドル。……高いですがね」
「買います! お願いします、ドクター!」
客は、震える手でポケットからくしゃくしゃになったドル紙幣を叩きつけ、代わりに政府の鷲の紋章が入った琥珀色の瓶を、まるで聖遺物のように受け取った。
ラベルには『For Medicinal Purposes Only(医療用に限る)』と、ゴシック体で大きく、そして白々しく印刷されている。
史実において、この時期に店舗数を500店以上に急拡大させたのがウォルグリーンだった。彼らは禁酒法の抜け穴を突き、「薬局」という隠れ蓑を使って事実上の酒屋として機能し、莫大な富を築いた。
そして今、そのスキームをアメリカ合衆国政府自体が乗っ取り、国家財政の延命装置として利用しているのだ。
ベンはその「薬」を自分でも買い、外に出た。
キャップをひねると、ツンとしたアルコールの揮発臭が鼻を突く。震える手で一口あおる。喉を焼く粗悪なケンタッキー・バーボンの味だ。
だがその味は、かつて闇酒場で飲んだ密造酒より遥かに苦く、そして重く感じられた。
この5ドルの大半はギャングの懐ではなく、ワシントンのフーヴァー政権の金庫に入り、かろうじて公務員の給料や国債の利払いになる。
国民の肝臓を壊して、国家の延命を図る。なんと効率的な循環だろうか。
道の向かい側では、日本大使館の出張所が、温かいスープとパンを無料で配給している。そこには「お金」は必要ない。ただ並べば、温もりと生存が約束される。
こちら側には、政府公認の「有料の酔い」を求めて並ぶ男たち。彼らは政府に金を払い、一時の忘却を買う。
「……日本人は『慈悲』でスープを配り、我々の政府は『病気』をでっち上げて酒を売るか」
ベンはその「薬瓶」を雪の降る空にかざした。灰色の空に、琥珀色の液体が揺れる。
「禁酒法の精神はどうした? 道徳は?
……金の前では、神も聖書も、ただの言い訳に過ぎないのか」
彼は瓶をポケットにねじ込み、メモ帳を取り出した。
記事のタイトルは決まっていた。
『政府という名のバーテンダー』
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場所:オハイオ州デイトン 市庁舎前
「バイブル・ベルト(聖書地帯)」の心臓部、オハイオ州デイトン。
市庁舎前の広場は、日曜礼拝の静謐さとは程遠い、異様な熱気と殺気に包まれていた。
プラカード、十字架、星条旗。そして、怒りに赤く染まった数千の顔。
「酒は悪魔の血だ!!」
「医療用ウイスキーは神への冒涜だ!!」
「フーヴァーはユダの生まれ変わりか!!」
演説台の最前線に立つのは、禁酒法派の急先鋒、反酒場同盟の大物牧師、エゼキエル・ホーキンス師だった。
彼は分厚い旧約聖書を頭上に掲げ、全身を震わせながら、寒空に向かって絶叫していた。
「兄弟姉妹よ! 聞け!
我々は長年、信じてきた! この国は“神に選ばれた清潔な国家”だと!
我々は欲望を律し、勤勉に働き、その果実として繁栄を享受してきたはずだ!」
群衆が「アーメン!」と応える。その声は地鳴りのようだった。
「だが今、ワシントンの政治家たちは何をした!?
金が足りないという、ただそれだけの理由で!
“医師の処方”という悪魔の紙切れ一枚で、地獄の水を合法化したのだ!!」
ホーキンス師は、ポケットから忌まわしいその物体を取り出した。
政府公認、「医療用蒸留酒」の瓶。
ラベルの鷲の紋章が、冬の陽光に反射して白々しく、そして冒涜的に光る。
「見よ、この偽善を!!
神は酒を禁じた! 憲法も酒を禁じた!
だが財務省は“5ドル”で、その罪を赦すというのか!!
これは贖罪ではない! 魂の売買だ!!」
彼はその瓶を、石畳に叩きつけた。
ガシャン! という破砕音とともに、琥珀色の液体が広場に飛び散る。アルコールの匂いが漂うと同時に、群衆のボルテージは沸点に達した。
「恥を知れ!!」
「政府を倒せ!!」
さらに事態は、最悪の方向へと転がり落ちていく。
広場の端で、一人の男が群衆に取り囲まれていた。彼はただ薬局から出てきただけの、善良そうな市民だった。手には、茶色い紙袋を持っている。
「見ろ! あの男だ! さっき“特別薬局”から出てきたぞ!」
「袋の中身を見せろ!」
「いやだ! これは私の薬だ!」
「嘘をつけ! 酒の匂いがするぞ!」
反酒場同盟の活動家たちが、即席の「道徳裁判」を始めたのだ。
男は青ざめ、後ずさりする。
「違う! これは医者が出した処方だ! 合法だ! 私は税金を払ったんだ!」
「合法でも不道徳だ!!」
一人の老婦人が叫んだ。彼女の目は狂信的な光を宿していた。
「なら問おう! お前は神と医者、どちらに従うのだ!?」
男が一瞬、答えに詰まった。
「冒涜だァァ!!」
「信仰の裏切り者に裁きを!!」
それはもはやデモではなかった。リンチだった。
政府が定めた法律と国民が信じる道徳が真っ向から衝突し、社会の分断が噴出した瞬間だった。
その夜、新聞はこう書いた。
『禁酒法派、医療用ウイスキーに激怒
一方、処方箋発行数は過去最高を記録』
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