アナポリスの亡霊
時:1930年(昭和四年)、1月
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス・地下会議室
その部屋の空気は、冬のポトマック川の底よりも冷たく、そしてドブのように淀んでいた。
本来ならば世界を動かすはずの合衆国大統領と閣僚たちが、まるで借金取りに追われる多重債務者のような顔で、テーブルを囲んでいる。
議題は一つ。
「米国債の消化(借金の借り換え)」について。
「……状況を説明しろ、メロン」
フーヴァー大統領の声は、乾燥した枯れ枝が折れるような音に似ていた。
「はい、大統領」
財務長官アンドリュー・メロンは、脂汗を拭おうともせず、絶望的な数字が並んだ黒板を指した。
【1930年度 合衆国財政収支(破滅的予測)】
1. 歳入の蒸発
予定税収(所得税・法人税):前年比 50%以上減
(理由:株価暴落と企業倒産により、課税対象となる利益が消滅。市民も税を払う金がない)
2. 償還の壁(Rollover Crisis)
1月〜3月に償還期限を迎える短期国債:約15億ドル
(理由:欧州大戦の戦費調達などで膨れ上がった借金の返済期限が迫っている)
3. 市場の拒絶
国債入札への応募状況:激減
(理由:市場のドルはほとんど日本海軍(NCPC)に吸い上げられた。米国の銀行は死に体か貸し渋りで、国債を買う余力などない)
「……結論を言います」
メロンは、死刑判決を読み上げるように言った。
「来年度を待たず、米国財務省の金庫は空になります。公務員給与と国債利払いを同時に満たすことは不可能です。
どちらかを延期すれば、どちらかが破綻します」
合衆国政府は、まだ倒れてはいない。
だが――自力で立っているわけでもない。
今はただ、次の給料日と利払い日が重ならないことを祈りながら、
かろうじて呼吸を続けているだけだ。
医者ならこう診断するだろう。
『心停止ではない。だが、次の発作で終わる』と」
「……唯一の希望は」
スティムソン国務長官が、苦渋に満ちた顔で言った。
「現在、世界で唯一、潤沢なドルキャッシュを持っている組織……日本海軍に、米国債を引き受けてもらうことです」
「……頭を下げろというのか。あの東洋の悪魔に」
フーヴァーは呻いた。だが、他に道はなかった。プライドで腹は膨れないし、借金は返せない。
時:翌日
場所:ワシントンD.C. 合衆国財務省・秘密会議室
財務省の秘密会議室には、暖房が効きすぎているのか、あるいは出席者たちが冷や汗をかきすぎているのか、不快な湿気が籠もっていた。
テーブルの一方には、アンドリュー・メロン財務長官と、ヘンリー・スティムソン国務長官。
そしてもう一方には、日本海軍駐米武官・東郷一成。
彼は軍服の埃一つない完璧な着こなしで、廃人のような顔をしたアメリカ政府の頂点たちを見回し、そして、にっこりと微笑んだ。
部屋の隅には、アメリカ海軍側の立会人として、マーク・ミッチャー中佐が、まるで処刑台の介添人のような顔で控えていた。
「……ですから、東郷大佐」
メロン長官が、プライドをかなぐり捨てて懇願した。
「貴国の手元にあるドルで、新規発行の米国債を引き受けていただきたい。利回りは勉強する。3.5%、いや4%でもいい」
東郷は出されたコーヒーに口もつけず、静かに言った。
「お断りします」
「なっ……!?」
スティムソンが色めき立つ。
「待ってくれ! 君は先日、南米の債権は買ったじゃないか! なぜ、世界で最も信用ある米国政府の債券を買わない!?」
その瞬間、東郷の目がふと冷徹な光を帯びた。
それは、交渉相手を見る目ではなかった。かつてアナポリスで、理不尽なしごきを行う上級生を見つめていた、あの静かな軽蔑の眼差しだった。
「スティムソン長官。投資とは、相手の『信用』に対して行うものです」
東郷は白い手袋を外しながら、指を折り始めた。
「第一に。メロン長官は以前、私の『制度債』を潰すために、中国経済を道連れにするほどの銀売り介入を行いましたね?」
メロンが「うっ……」と呻き、視線を逸らす。
「第二に。イギリスやフランスが、正当な権利として金を引き出そうとした時、貴国は戦時債務を盾に圧力をかけ、事実上の引き出し制限をかけようとしました」
「第三に。……ここが重要ですが。私は先日、貴国の銀行を救うために南米の不良債権を買い取りました。その見返りに『三年間はドルを金に換えない』という密約も結びました。……私は約束を守っていますよ?」
東郷はスティムソンの目を射抜いた。その視線は、どこか遠い過去を見つめているようだった。
「ですが、スティムソン長官。貴方はどうでしたか?
私が着任するや否や、公聴会という吊るし上げの場に私を引きずり出し、最高裁で私の制度を違法化しようとした。
あまつさえ、市場が暴落した直後に『戦略的産業防衛法(SIDA)』なる法案を用意し、大統領権限で我々の資産を凍結しようと画策された」
「そ、それは……国家の安全保障上の……」
「ええ、分かりますよ」
東郷はにっこりと笑った。その笑顔は、真冬のポトマック川よりも冷たかった。
「ですから、私も『安全保障』上の判断をさせていただくのです。
……そんな“前科”のある政府の借用書など、怖くて買えませんよ」
東郷は、テーブルの上の米国債の目論見書を指先で弾いた。
「私が今日、貴国の国債を買ったとして……明日、貴方がたが大統領令で『敵性資産凍結』を宣言し、その借金を踏み倒さないという保証が、このワシントンのどこにありますか?」
誰も答えられなかった。
彼らは実際に、それをやろうとしていたからだ。
そして東郷は、決定的な一言を放った。
「考えてもみてください。
我々は今、貴国の国民にスープを配っています。その資金を、貴国政府がピンハネしました。
その上でさらに、貴国の借金まで我々が肩代わりしたとあっては……日本国内の納税者が納得しませんよ。
『アメリカ政府は、乞食なのか?』とね」
「最後に……」東郷は、とどめを刺すように付け加えた。
「日本海軍が米国債を買う、ということは……アメリカ国民の税金が、利回りとして我々日本海軍に支払われる、ということを意味します。
カリフォルニアで排日運動をしている人々が、自分たちの税金で、日本の新しい戦艦が造られることを納得するとお思いですか? そのコンセンサスは取れているのですか?」
東郷は、慇懃無礼に頭を下げた。
「……我々は貴国の主権と、国民感情を尊重します」
メロンは灰のような顔になり、スティムソンは震える手で眼鏡を直した。
そして部屋の隅でミッチャー中佐は天井を仰ぎ、心の中で盛大なツッコミを入れていた。
(……カズ。身の毛がよだつほど懐かしいな。アナポリスの最上級生が、生意気な新入生を追い込む時のトーンだ)
ミッチャーの脳裏に、20数年前のチェサピーク湾の風が蘇る。
1906年、アナポリス。
当時の兵学校は「鋼鉄と蒸気の海軍」へと生まれ変わるための実験場であり、同時に「紳士教育」という名目の、陰湿な「ヘイジング(しごき)」の地獄だった。
法律では「ヘイジング禁止」と明記されている。発覚すれば即退学だ。
だが夜の寮舎では、上級生による暴力的な儀式が毎晩のように行われていた。
「新入生は人間ではない」
「苦痛に耐えてこそ、部下を率いる士官になれる」
教官たちは見て見ぬふりをする。それが「伝統」だからだ。
(あの時、カズはどうしていた?)
東洋から来たエイリアン(異邦人)。
黄色い肌、小さな身体。当時のアメリカで、これほど格好の「標的」はいなかった。
ある夜、上級生たちによる過酷な「しごき(ヘイジング)」の最中。東洋人の東郷は逆立ちを強要され、気絶寸前まで追い込まれていた。
だが、彼は決して悲鳴を上げなかった。ただ静かに、その理不尽な暴力を振るう「紳士候補生」たちを、軽蔑と憐れみが入り混じった目で見上げていた。
翌日、査問委員会が開かれた。
教官は厳かに言った。
『本校において私的制裁は厳禁である。真実を話せば守ってやる』と。
だが誰も口を割らなかった。「沈黙の掟」と「仲間の名誉」という美名の下に、暴力は隠蔽された。
その時も東郷は、何も言わなかった。
ただ『ルールを守らない人間が、ルールを守れと説教する。ここはそういう場所なのだな』と悟ったような顔で、淡々と授業に戻っていった。
ある夜ボロボロになったカズに、ミッチャーは尋ねたことがある。
『……悔しくないのか、カズ。規則では禁止されているのに』
カズは腫れた唇で、淡々と答えた。
『ミッチ。僕は学んでいるんだよ』
『何を? 忍耐か?』
『いいや。「本音」だよ。この国の人たちが、法律や正義という美しい看板の裏側で、本当は何を考えて、どう動くのかをね。……これは、教室では教えてくれない最高の帝王学だ』
ミッチャーは、東郷の背中を見つめた。
あの男はアメリカの「建前と本音の乖離」を、学生時代に骨の髄まで学習してしまったのだ。
そして今その学習成果を、最大級の皮肉として叩き返している。
「法律では禁止されているが、現場では黙認されていること」
「正義を掲げながら、裏では実利を優先すること」
それがアメリカという国の行動原理だと、彼は骨の髄まで理解したのだ。
だからこそ、今の彼はあれほど的確にアメリカの急所を突ける。
東郷は席を立ち、帽子を手に取った。
だがドアノブに手をかける寸前、ふと思い出したかのように足を止め、振り返った。
「……ああ、それから」
東郷の声は告解室の神父のように優しく、そして共犯者のように静かだった。
「本日のこの『ご相談』の件は……聞かなかったことにして差し上げます」
「……え?」
メロンが虚ろな目を向けた。
「考えてもみてください。『栄光あるアメリカ合衆国政府が、仮想敵国の海軍に公務員の給料を払うための借金を土下座して頼み込んだ』などという事実が、万が一にもウォール街や新聞に漏れたらどうなります?」
東郷は目を細めた。
「ただでさえ瀕死のドルの信用は、今夜中に完全に崩壊するでしょう。国民は政府を信じなくなり、暴動が起きるかもしれません。
……それは我々としても寝覚めが悪い」
彼は唇に人差し指を一本立てて見せた。
「ですから、この話は墓場まで持っていきましょう。
記録にも残しません。公式には、今日はただの『友好的な茶話会』だった。……よろしいですね?」
スティムソンは屈辱に顔を歪めながらも、首を縦に振るしかなかった。この秘密を守ってくれるなら、悪魔の靴でも舐めるしかなかったのだ。
「……感謝する、大佐……」
「いいえ。友人のよしみです」
東郷はニッコリと微笑むと、さらに言葉を継いだ。
「さて。では借金ができないとなれば、金策を考えねばなりませんな。
カネがないなら、稼げばいい。あるいは、無駄を削ればいい」
彼は、部屋の隅にあるキャビネットを指さした。
そこには役人たちがこっそりと隠している「密造酒」のボトルが入っていることを、東郷は知っていた。
「貴国には『高貴な実験(禁酒法)』という、実に金のかかる道楽がおありだ。
あれを取り締まるために、どれだけの予算を使い、どれだけの酒税を取り逃がしているのですかな?」
「……まさか」スティムソンが目を見開いた。
「禁酒法を廃止せよと言うのか!?」
「私は何も言っていませんよ。ただ……」
東郷は、部屋を出る間際に振り返った。
「国民に『酒を飲む自由』と『税金を払う義務』を返してあげれば、財政も少しは潤うのではないでしょうか。
……少なくとも、仮想敵国の海軍に頭を下げて借金をするよりは、よほど健全で、プラグマティックなアメリカらしい解決策だと思いますがね」
扉が閉まる。
残されたのは絶望的な財政報告書と、禁断の選択肢を突きつけられた二人の閣僚だけだった。
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