インサル・ショック
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:シカゴ、シビック・オペラ・ビル インサル・ユーティリティ・インベストメント社長室
「電力王」サミュエル・インサルが築き上げた、45階建ての摩天楼。その最上階にある玉座は、今や処刑台と化していた。
インサルは受話器を握りしめたまま、脂汗を垂れ流していた。
「……待ってくれ、ミスター・モルガン! 話が違う!
私は中西部32州の電力網を支配している! GEの最大の顧客だ! 私が倒れれば、GEも共倒れになるぞ! なぜ私の社債には『日本の買い』が入らないんだ!」
受話器の向こう、JPモルガンの担当者の声は、氷のように冷たかった。
『……ミスター・インサル。日本側(東郷大佐)の基準は明確です。
彼らが買い支えるのは“実体”のある製造業と、資源インフラです。
貴社のビジネスモデルは……残念ながら、“金融工学による砂上の楼閣”と判定されました』
「砂上の楼閣だと!?」インサルは絶叫した。
「私は電気を作っているんだぞ! 文明の光だ!」
『ええ。ですが貴方は、その電気を作るために、複雑怪奇な持株会社を何層にも重ね、株価を吊り上げて借金を膨らませすぎた。
……FRBの金利6.5%。これがトドメです。貴社のキャッシュフローでは、もはや利払いが不可能です』
ガチャリ。通話が切れた。
インサルは窓の外を見た。シカゴの街は、彼が供給する電気で輝いている。だが、その光はもはや彼のものではなかった。
翌日、インサル・グループの中核企業がデフォルトを宣言した。
史実より2年早い、あっけない幕切れだった。
負債総額、数億ドル。米国史上最大の企業倒産。
「電力王」の死は、ウォール街に新たなパニックを引き起こした。
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時:同日
場所:ニューヨーク、ウォール街
「売りだ! 電力関係は全部売れ!」
「インサルが死んだぞ! 電力会社はみんな詐欺だ!」
トレーディングフロアは阿鼻叫喚に包まれていた。
インサル・ショックは、投資家たちから「公益事業」への信頼を根こそぎ奪い去った。
その飛び火は、太平洋を越えた日本の企業にも及んだ。
ブローカーが叫ぶ。
「おい! 日本の『東京電燈(Tokyo Dento)』のドル建て社債を持ってる客がいるんだが、どうする!?」
「売れ! 今すぐ叩き売れ!」
「しかし、日本は景気がいいと……」
「関係ない! カイグンじゃなくて電力会社だろ!? インサルと同じ穴のムジナだ!
日本なんて極東の島国の電気屋が、ドルで借金を返せるわけがない! 10セントでもいいから現金化しろ!」
市場は「連想ゲーム」で動く。
インサル(電力)=破綻。
ゆえに、東京電燈(電力)=破綻。
この短絡的だが、パニック時には絶対的なロジックが、日本の電力債をゴミ箱へと叩き込んだ。
額面100ドルの債券が、80ドル、50ドル、30ドル……と垂直落下していく。
誰も拾おうとしない。底なし沼だ。
……ただ一人を除いて。
その時、静かな声が響いた。
「……全量、買いましょう」
フロアの入り口に立っていたのは、日本海軍の委任を受けた代理人たちだった。彼らはNCPC債ではなく、ドル現金の詰まった小切手帳を持っていた。
「15ドルでどうです? 即日現金で払いますよ」
ブローカーは、地獄にメシアを見たような顔をした。
「15ドル!? 本気か! 紙くずになるかもしれないんだぞ!」
「ええ。我々はリスクを愛していますから」
取引は瞬殺だった。
ブローカーたちは「日本のカモがゴミを高値で引き取ってくれた」と安堵し、代理人たちは「100ドルの価値があるダイヤを、泥がついているという理由だけで15ドルで手に入れた」と微笑んだ。
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時:数日後
場所:ワシントンD.C. 司法省・長官室
司法長官ウィリアム・ミッチェルは、商務省からの緊急報告を受けて頭を抱えていた。
「……つまり日本海軍は、我々の投資家が投げ売りした日本の電力債を、底値で買い占めたというのか?」
商務省の次官が、青ざめた顔で頷いた。
「はい。額面2億ドルの債権を、わずか3,000万ドルで。……割引率85%です」
「止められなかったのか!?」
「無理です長官! これは『アメリカ国内の資産』ではありません!
アメリカ人が持っていた『外国(日本)企業の債権』を、日本人に売っただけです。
『戦略的産業防衛法(SIDA)』の管轄外です!
それに、もし止めれば……パニックになっているウォール街の投資家たちが『政府は不良債権の処理を邪魔するのか!』と暴動を起こします!」
司法長官は机を叩いた。
「だが、その結果どうなる? 日本の電力インフラの支配権が、完全に日本海軍の手に落ちたということだろう!」
そこに部下が、さらに絶望的な報告を持ってきた。
「長官。問題はインフラ支配だけではありません。……カネの流れです」
部下は一枚のチャートを広げた。
「我々の分析では、日本海軍はこの取引で得た利益(債務圧縮益や将来の利息収入)の一部を、ある組織に還流させる契約を結んでいます」
「ある組織?」
「……日本陸軍です」
部下は震える声で続けた。
「『電力事業の警備・インフラ整備協力費』という名目で、事業利益の10%から15%が、陸軍にキックバックされます。
金額にして数千万円……ドル換算で数千万ドル規模。これは、日本陸軍の近代化予算を倍増させるに等しい額です」
司法長官は、口を開けたまま固まった。
脳内で、恐ろしい因果関係が繋がっていく。
① アメリカでインサル・ショックが起きる。
② アメリカの投資家がパニックで日本の電力債を投げる。
③ 日本海軍がそれをタダ同然で拾う。
④ 浮いた巨額の利益が、日本陸軍に流れる。
⑤ その金で、日本陸軍が戦車や飛行機を買う。
「……おい、待て。
つまり我々は、自らのパニック(市場の失敗)によって、仮想敵国のインフラを整備してやっただけでなく、仮想敵国の陸軍のスポンサーにまでなってしまったというのか!?」
「……左様であります。
我々が投げ売った債券が、回り回って日本軍の戦車に化けているのです」
長官室に、重苦しい沈黙が落ちた。
それは「敗北」などという言葉では生温い。
自らの血肉を切り取って、敵に「どうぞ食べて強くなってください」と差し出したような、究極の愚行だった。
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場所:東京・丸の内、東邦電力・本社社長室
かつて「電力の鬼」と呼ばれた男、松永安左エ門は、執務机の上で震える両手を組んでいた。
彼の目の前には、一枚の紙切れが置かれている。それは、ニューヨークの債権者から届いた「債権譲渡通知書」だった。
東邦電力が発行したドル建て社債、額面3,000万ドル。
そのすべての権利が、本日付で『日本帝国海軍』に移転された。
松永は、窓の外を見た。丸の内のビル街には、今日も電気が送られている。その電気を送る電線、鉄塔、変電所……彼が人生をかけて築き上げた巨大なネットワーク。
それが今、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
扉が開いた。
入ってきたのは、海軍省軍務課長・沢本頼雄。
軍服ではなく、仕立ての良い背広を着ているが、その威圧感は戦艦そのものだった。
「……松永さん。単刀直入に申し上げます」
沢本は、ソファに深く腰掛けた。
「貴社のドル建て債務は円安および株安で膨れ上がり、もはやバランスシートは回復不能です。
通常ならば会社更生法か、破産ですな」
「……待ってくれ、沢本課長」
松永は呻いた。
「我々には資産がある! 送電網だ! あれの価値を考えれば……」
「ええ、その通りです」
沢本は涼しい顔で頷いた。
「だからこそ、我々は『提案』をしに来たのです。
債務の株式化、です。
貴社の借金をチャラにする代わりに、貴社の新規発行株式を我々が引き受ける。
……比率は、議決権の51%相当で手を打ちましょう」
松永は息を呑んだ。
過半数。それは「経営権の譲渡」を意味する。
「……海軍が、電力会社を経営すると?」
「いいえ。経営は貴方にお任せします、松永さん。貴方は『電力の鬼』だ。その手腕は高く評価している。
ただ、今後の方針を少し変えていただきたい」
沢本は、一枚の系統図を広げた。
「貴社は今後、新規の電源開発(発電所建設)を凍結してください。
代わりに我々海軍が出資建設する1GW計画の火力発電所から電気を仕入れ、それを貴社の送電網で配る『送配電事業者』に特化していただきたい」
松永は、全てを悟った。
海軍は、面倒な「客商売(集金や検針)」や「電線の保守」をやるつもりはない。
一番美味しくて、一番権力を握れる「発電(上流)」だけを独占し、既存の電力会社を「下請けの運送屋(下流)」に変えようとしているのだ。
「……断ったら?」
「即座にドルでの元本一括返済を求めます。
できませんよね? ならば会社は解散、資産は競売です。
……競売になれば、我々はもっと安く送電網を手に入れられる。どちらでも構いませんよ」
完全に詰んだ。
松永は、ガクリと項垂れた。
「……分かった。
海軍さんの下請けでも何でもやってやろう。……電気が止まるよりはマシだ」
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時:同日 夜
場所:東京・赤坂、料亭
高橋是清と堀悌吉は、祝いの杯を交わしていた。
肴は、五大電力すべての「降伏文書(資本提携合意書)」だ。
「……いやはや、堀君。君たちは悪党だねえ」
是清は、可笑しくてたまらないといった風情で笑った。
「たった3,000万ドル……今のレートで6,000万円そこらか?
戦艦2隻分にも満たない金で、日本中の電信柱と電線を全部手に入れたわけだ。
電線を一から引けば10年はかかるし、数億円は下らないだろうに」
「ええ。時間と手間をお金で買いました」
堀は、酒を一口含んだ。
「これで海軍の発電所で作った電気は、明日からでも日本中の工場と家庭に届きます。
『海軍電気』の誕生です。
しかも電力会社からの配当金だけで、財閥への利子を返してなお余る計算です」
是清は、天井を仰いだ。
「東郷の奴、アメリカで『南米』を買い占めたと思ったら、日本では『インフラ』を買い占めおった。
賀屋(主計課長)君が『規制だ、条例だ』と騒いでいたのが、まるで子供の夜泣きのように思えてくるわい。
……借金の証文を握られた相手に、規制など効くわけがない」
堀は、静かに言った。
「……是清閣下。これが『総力戦』です。
銃を撃つ前に、相手のライフラインを抑える。
国内の産業も、同じです。これからは海軍がエネルギーという首輪をつけて、産業界を正しい方向(軍需・輸出)へ導きます」
1930年。
日本の電力網は静かに、しかし劇的に再編された。
看板こそ「東邦電力」や「東京電燈」のままだが、その血管を流れる電気はすべて「海軍製」となり、その利益は霞が関の金庫へと還流するシステムが完成したのである。
21世紀の経済学者がこれを見たら、こう叫ぶだろう。
「これは『国家資本主義』ではない。『海軍株式会社による敵対的買収(TOB)』だ!」と。
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