帳簿の外側
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:東京・霞が関 大蔵省主計局会議室
窓の外では、帝都の夜が静かに光っていた。
だがその光を、大蔵省主計課長・賀屋興宣は、まるで敵を見るような目で睨んでいた。
机の上には、二つの帳簿が並べられている。
一つは、彼が二十年かけて叩き込まれた「国家会計」の帳簿。
もう一つは、最近になって闇のように浮かび上がってきた――海軍電力事業の非公式収支予定表。
賀屋は、何度目か分からないため息を吐いた。
「……国家予算の外で、さらに年間3億円が動くことになる」
声に出してみても、現実感がなかった。
3億円。
それは、陸軍の年間装備更新費を軽く上回り、
全国の義務教育費に匹敵する金額だ。
しかも――
「税が、かかっていない」
これが致命的だった。
民間企業なら法人税。
国策会社なら配当金。
だが海軍は「政府機関」だ。
自分で稼ぎ、自分で使い、国庫を通らない。
賀屋は、机を指で叩いた。
「……国庫の蛇口を通らない金は、国家ではない。
それは――国家の中に巣食う別の国家だ」
扉が静かにノックされた。
「失礼します。是清公がお呼びです」
⸻
場所:大蔵大臣室
高橋是清は、湯呑みを片手に笑っていた。
「いやあ、賀屋君。海軍は見事なことをやったじゃないか」
「……大臣は、この事態を“見事”とお考えですか」
賀屋の声は硬かった。
「もちろんだ。失業者は減り、電力は安くなり、工場は動いている。
税金は使っていない。これ以上、健全な景気刺激策があるかね?」
是清は湯をすすり、続けた。
「それに、国債も増えておらん。
君たち主計局が一番嫌う『赤字』が、どこにもない」
賀屋は、堪えきれずに言った。
「……だからこそ、危険なのです」
是清が、眉を上げた。
「ほう?」
「国会も、内閣も、我々大蔵省も通らずに、
海軍が“独自の財源”で国家機能を掌握しつつある。
電気です。
工場、鉄道、通信、家庭……すべてが、海軍の発電所に繋がれる」
賀屋は、はっきりと告げた。
「このままでは、国家の財布は二つに割れます。
一つは表の国庫。
もう一つは、東郷一成という男の頭の中にある金庫です」
是清は、しばらく黙っていた。
そして、ふっと笑った。
「……君は、東郷が怖いのだな」
「はい」
賀屋は即答した。
「彼は政治家ではありません。
だから妥協をしない。
官僚でもない。だから制度を恐れない。
そして――」
賀屋は、一拍置いた。
「軍人です。
失敗しても責任を取らされない立場の人間が、
国家の経済を“成功してしまっている”。
これは、前例がありません」
是清は、深く息を吐いた。
「……で?
君は、どうしたい?」
⸻
時:翌日
場所:東京・霞が関、大蔵省・主計局会議室
その部屋には、明治以来の「財政規律」を信じて疑わない、古き良き主計局・主税局・理財局の官僚たちが集まっていた。
彼らは大蔵大臣・高橋是清を「放蕩おやじ」と陰で呼び、海軍の専横に腸が煮え繰り返っていた。
その背後には、経営危機に瀕した「五大電力会社(東邦、東京、大同など)」のロビイストたちの影がちらついていた。
議題は一つ。
『海軍電力事業に対する、合法的制約の可能性』
若い主税官が口を開いた。
「……課税は不可能です。
海軍は“営利企業ではない”と主張しています」
「ならば、国庫納付金だ」
「それも“軍務遂行の一環”として拒否されています」
会議室に、重苦しい沈黙が落ちる。
誰かが呟いた。
「……では、どうやって止める?」
賀屋興宣の目が氷のような光を放った。
彼は絶望に沈む部下たちを見渡し、静かに一枚の書類をテーブルに置いた。
「……諸君。頭を切り替えろ」
賀屋の声は、メトロノームのように正確で冷徹だった。
「我々のこれまでの敗因は、『カネ(税金・納付金)』を取りに行ったことだ。
海軍は金を持っている。有り余るほどな。だから金で縛ろうとしても痛くも痒くもない。
……ならば、金以外のルールで縛る」
彼が提示したのは、『公益事業条例』の改正案だった。
「電力とは、公益事業である。
民間への供給は、逓信省および地方長官の認可を受けた『許可業者』に限る。
……そして現行法上、軍隊は公益事業者にはなれない」
主税局長がハッとした。
「な、なるほど……!
海軍が『軍事施設(工廠)』に電気を送るのは勝手だが、一歩でも外に出て『民間(一般家庭や工場)』に電気を売れば、それは『業』となる。
無許可営業は違法行為だ!」
「その通りです」
賀屋は、意地の悪い笑みを浮かべた。
「海軍が作った電気を民間に流すには、既存の電力会社(東京電燈や東邦電力)の送電網を借りるか、あるいは卸売りをするしかない。
……そこで蛇口を締めるのだ」
賀屋の描いた絵図はこうだ。
海軍から民間への直接販売を禁止する。
代わりに「既存電力会社への卸売り」を強制する。
その卸値は、政府が適正価格(極めて安い値)で統制する。
「これなら海軍の『利益(3億円)』は、既存の電力会社や需要家に移転する。海軍の手元には、設備維持費ギリギリの金しか残らない。
……『民業圧迫』を防ぐという大義名分があれば、世論もこちらに味方するはずだ」
完璧なロジックだった。
法の網をかけて、海軍を「ただの下請け発電業者」に格下げする。
賀屋は確信した。これで東郷という男の手足を縛れる、と。
⸻
時:数日後
場所:海軍省・軍務局長室
賀屋興宣は単身、敵の本丸へと乗り込んでいた。
迎えるのは、海軍軍務局長・堀悌吉。
その表情は、まるで親しい友人を迎えるかのように穏やかだった。
「……というわけでして」
賀屋は、改正条例案のコピーを堀の前に突きつけた。
「海軍独自の送電網による一般販売は、既存の民業を著しく圧迫し、経済の秩序を乱します。
よって今後は、地域独占権を持つ既存電力会社を通じてのみ、電力を供給していただきたい」
賀屋は、勝利を確信していた。
堀は、この理路整然とした行政指導に反論できないはずだ、と。
だが、堀は困ったように眉を下げ、一枚の書類をパラリとめくっただけだった。
「……賀屋君。君は相変わらず優秀だな」
「……お褒めにあずかり光栄ですが、回答を」
「ああ、回答ならもう出ている」
堀は、机の上の電信機を指差した。
「ちょうど今、アメリカにいる東郷と電信を交わしていたところだよ。君の来訪も予測済みだったようだ。
東郷の言葉を、そのまま伝えようか」
堀は、手元のメモを読み上げた。
『……賀屋さんがそうおっしゃるなら、そうしましょう。法を守るのは大事です』
賀屋は耳を疑った。降伏か?
いや、堀が不気味に笑っている。
「ただし、東郷はこうも言っていたよ。
『我々の電気を受け取ってくれる既存の電力会社さんたちが、まだ生きていればの話ですが』と」
「……何?」
「賀屋君。君は財務を司る官僚として、今の電力会社(俗にいう『五大電力』)のバランスシートを見たことがあるかね?」
堀は、帝国興信所の調査書を放り投げた。
「東京電燈も、日本電力も、東邦電力も……。彼らは大正時代の拡張競争で、莫大な借金を背負っている。それも『ドル建ての外債』でな。
円安が進んだ今、彼らの借金は膨れ上がり、利払いだけで破産寸前だ」
賀屋の背筋に、嫌な汗が流れた。
忘れていた。電力会社の放漫経営と、外債依存を。
「さて、ここで問題だ」
堀は、教師のように指を立てた。
「彼らが発行したその額面2億ドルのドル建て社債。
……今、それを額面の15%〜20%のディストレス価格で買い占めて『最大の債権者』になっているのは、一体どこの誰だと思う?」
その瞬間、賀屋の脳裏に稲妻が走った。
ニューヨーク市場で、あらゆる債権を底値で拾い集めていたハゲタカの姿。
「……まさか」
「そのまさかだ」
堀は、ニヤリと笑った。
「五大電力の生殺与奪の権は、すでに我々(海軍)が握っている。
もし君が条例を改正して我々の任務を邪魔すると言うなら……我々は、債権者として直ちに『外貨での貸し剥がし(債務の即時償還要求)』を行う」
「なっ……!?」
「そうなれば電力会社は連鎖倒産だ。東京も大阪も大停電。日本の産業は全滅する。
……その引き金を引いたのは、『民業を守れ』と叫んだ大蔵省だということになるな」
詰みだった。
賀屋が「盾」にしようとした民間企業は、すでに海軍の「人質」だったのだ。
堀は、凍りついた賀屋に、優しくトドメを刺した。
「東郷は言っていたよ。
『賀屋さんほどの秀才が、なぜ“帳簿の外側(誰が債権者か)”を見ようとしないのか不思議でならない。
……この程度(既得権益の保護)の理屈で、設計図に勝てると思っている、そのおめでたい脳みそに驚いているのですよ』とな」
⸻
時:同日 夜
場所:ワシントンD.C. 日本大使館
東京からの返電を見た東郷一成は、解読されたばかりの電文用紙を机に置き、執務室の窓ガラスに映る自分の顔に向かって、呆れたように呟いた。
「……違うよ、デコ(賀屋)」
東郷は、淹れたてのコーヒーを口に含み、苦笑いを浮かべた。
「あいつらは『法律』という名の積み木細工で、『洪水(市場の暴力)』を止められると思っている」
副官の伊藤が、恐る恐る尋ねる。
「……大佐。東京の大蔵官僚たちは、これで大人しくなるでしょうか」
「なるさ。彼らは数字には聡いが、情勢には疎い。
『自分たちが守ろうとした相手の首輪を、敵が握っている』と分かれば、もう手出しはできん」
東郷は、デスクの上の地図――日本列島を覆う送電網と、各電力会社の勢力図――を眺めた。
「賀屋君の試みだけは、評価してやろう。彼は国家を守ろうとした。
だが、その守ろうとした国家の『心臓』と『血液(金融)』が誰の手にあるか……そこまでは、分からなかったようだな」
東郷の瞳は、もはや日本国内の政争など見てはいなかった。
彼の視線は、すでにその先。
この巨大な「電力と金融の独占体」を使って、いかにして来るべき世界大戦を戦い抜くか、その冷徹な計算だけに注がれていた。
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