海軍は我々のパンを奪うな
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:満州・旅順、関東軍参謀室
石炭ストーブだけが赤々と燃える殺風景な部屋で、関東軍参謀・石原莞爾は、一枚の比較表を前に凍りついていた。
彼の手元にあるのは、満鉄調査部から上がってきた悲観的な決算見込みと、東京の永田鉄山から送られてきた海軍の「電力事業目論見書」だった。
「……計算が、合わん」
石原は、うわ言のように呟いた。
「我々が血を流して守っている満州の権益……『日本の生命線』と呼ぶ満鉄の利益が、たかだか3,000万円だと?
大豆が暴落し、銀が下がり、張作霖に足元を見られ……必死でかき集めて、これっぽっちか」
同席していた板垣征四郎が、苦虫を噛み潰した顔で海軍の資料を指さした。
「対して、海軍はどうだ。
東京湾と大阪湾の埋立地でタービンを回しているだけで、年間3億円の純利益だと?
……桁が違う。ふざけるな。国家予算の2割強を、海軍一軍の“内職”が稼ぎ出す計算になるぞ!」
石原は、窓の外を見た。
満州の荒野は広大だ。だが、そこはあまりにも貧しく、寒かった。
自分たちは「王道楽土」という夢のために、泥にまみれて働いている。だがその実入りは、内地で安穏と電気を売っている海軍の十分の一にも満たない。
「……これが、東郷の言う『効率』か」
石原は、悔し涙を滲ませながら笑った。
「奴は、領土を取る苦労を嘲笑っているのだ。インフラ(蛇口)だけを握れば、富は向こうから勝手に流れ込んでくる、と」
さらに、資料の末尾には恐るべき将来計画が記されていた。
『将来的には、余剰キャッシュフロー及び追加のアメリカ炭を活用し、発電容量を150万キロワットへ拡大予定。
得られた電力により、内地にてアルミニウム精錬(年産10万トン目標)を開始する』
「アルミだと……!?」
板垣が絶句した。
「そんな電気を食う産業、日本には無理だと言われていたはずだ!」
「だが、海軍には電気がある」
石原は冷静に分析した。
「原価タダ同然の電気があれば、ボーキサイトを溶かしてジュラルミンに変えることなど造作もない。
……奴らはカネでカネを生み、そのカネで技術と素材を生むエンジンを完成させてしまったのだ」
石原は、自分の軍服の襟を掴んだ。
このままでは、陸軍はジリ貧だ。近代化どころか、兵士に飯を食わせることもできなくなる。
「最終戦争」を戦う前に、予算戦争で海軍に餓死させられる。
だが、石原莞爾という男は、絶望だけで終わる男ではなかった。
彼はカッと目を見開き、海軍の電力網(送電マップ)を指さした。
「……板垣さん。ここに、我々の生き残る道があるかもしれません」
「何だ?」
「電気は、作るだけでは金になりません。……『送ら』ねばならんのです」
石原の指が、発電所から各都市、そして山間部へと伸びる送電線をなぞった。
「154kVの特別高圧線。これを全国に張り巡らせるには、膨大な土地の買収と、保守管理の人員、そして何より『天災やテロからの防衛』が必要です。
……海軍の連中は、海の上なら専門家でしょうが、陸の上の泥臭い管理業務は苦手なはずだ。
電柱一本立てるのにも地主と揉め、送電線が雪で切れれば山奥へ復旧に行かねばならん。
スマートな海軍士官様が、雪山で電柱に登りますかね?」
板垣の目に、理解の光が宿った。
「……なるほど。汚れ仕事は、我々の得意分野だ」
「ええ。全国の連隊区司令部、工兵隊、そして通信隊。
我々には、日本中の津々浦々に展開する『組織力』と『人手』があります。
……海軍に提案しましょう。
『発電』は海軍様にお任せする。だが、『送電』と『管理』は、陸軍が請け負ってやろうじゃないか、と」
「……ただのガードマンになれと言うのか?」
「タダじゃない」
石原は、電文に数字を書き込んだ。
「『技術協力費および警備費』として、海軍電力事業の純益の10%を要求する。
さらに、1.5GW達成の暁には、成功報酬込みで15%だ」
板垣が素早く計算する。
3億3,000万円の10%=3,300万円。
1.5GWになれば、利益は約5億円。その15%=7,500万円。
「……おい、石原」
板垣の声が震えた。
「電信柱の下で見張りをしているだけで、満鉄を経営するより儲かるぞ……」
「そうだ。それが『東郷経済学』だ」
石原はペンを置いた。
「張作霖も生きている今、無理に満州で事を構える必要はない。満鉄平行線の経営も、アメリカの暴落で東郷の言う通り怪しくなり出した。
まずは海軍からふんだくったカネで、軍の腹を満たし、装備を近代化する。
……王道楽土は、その後でも遅くはない」
その日、関東軍参謀部から「満州事変」の計画書が、一時的に金庫の奥へとしまわれた。
代わりにテーブルに広げられたのは、日本列島の送電網マップと、皮算用で埋め尽くされた予算案だった。
⸻
時:同日
場所:東京・霞が関、海軍省・軍務局長室
永田鉄山からの申し入れを受けた堀悌吉は、呆れたように、しかし満足げに笑っていた。
「……陸軍め。プライドを捨てて、実利を取りに来たか」
同席していた第一課長の沢本頼雄が、懸念を示した。
「局長。利益の10%といえば、3,000万円以上です。巡洋艦が2隻作れます。高すぎませんか?」
「……安いものだよ、沢本君」
堀は即答した。
「彼らに3,000万円渡せば、彼らはその金を守るために、必死で我々の送電線を守るだろう。
共産党が発電所を襲おうものなら、憲兵隊が目の色を変えて飛んでいくはずだ。
……海軍にとって、全国に広がる送電網の管理は、はっきり言って「面倒くさい」業務だった。
用地交渉、保守点検、警備。これらに海軍の人員を割けば、艦隊や工場の運営に支障が出る。
それを、全国にコネを持つ陸軍が代行してくれるなら、渡りに船だ。
しかも、陸軍を「インフラ防衛」という建設的な任務に縛り付けておけば、満州で変な気を起こす暇もなくなる」
堀は、陸軍との協定書にサインをした。
「金で買える平和なら、安いものだ。
それに1.5GWに増強してアルミ生産が始まれば、陸軍もジュラルミン欲しさに更に頭を下げてくる。
……少なくとも、今は飼い慣らせる。この、電気という鎖でな。仲良くやりましょう、陸さん。電気は、喧嘩の種にするには勿体無いですからな」
こうして、日本陸軍は「満州の夢」を一時凍結し、「海軍の下請け警備」としての旨味に溺れる道を選んだ。
満州事変の導火線は、東郷一成が作り出した「莫大な利益」という水によって、湿らされてしまったのである。
⸻
時:同日
場所:ワシントンD.C. 商務省・長官室
一方その頃合衆国海軍作戦部長ヒューズ大将は、商務長官のデスクに拳を叩きつけていた。
「長官! 正気ですか! 日本がウェストバージニアの炭鉱を丸ごと買い取ったんですよ!?
あそこから掘り出された石炭が、日本へ運ばれ、発電所で燃やされ、その電力が日本の工廠を動かし、我々に向ける大砲を作っているんです!
即刻、石炭の対日輸出を禁止してください! 国家安全保障の問題だ!」
ラモント商務長官は、冷ややかな目でヒューズを見上げた。そして、無言で部屋の隅を指差した。
そこにはあごひげを蓄えた大柄な男が、葉巻をふかして座っていた。
ウェストバージニア州選出のジョー・マチン上院議員だ。
「……ヒューズ提督」
議員は、煙を吐き出しながらドスの利いた声で言った。
「あんた、我が州の炭鉱は、ここ十年の石油への転換と、昨今の恐慌で死に体だ。
そこへFRBの馬鹿げた利上げだ! 地元の銀行は金を貸すどころか、運転資金を引き揚げて炭鉱を潰して回っている!
失業した坑夫たちは、冬の寒さの中で飢えているんだぞ!」
「し、しかし! 日本の海軍がアパラチアの良質な無煙炭を独占することは、将来的に……!」
「将来だと!?」
マチン議員は机を叩き割らんばかりに激昂した。
「坑夫たちは『今日』食う飯がないんだ!
アメリカの企業は誰も石炭を買わない! 政府も助けない!
唯一、キャッシュを持って『全量買い取る』と言ってくれたのが日本だ!
それを止めろだと?
いいか提督。もしあんたが輸出禁止令なんて出してみろ。俺は炭鉱夫10万人を連れて、海軍省の前で座り込みをしてやる。
『海軍は我々のパンを奪うな!』ってな!」
商務長官が、疲れた声で引き取った。
「……ということです、提督。
石炭産業は『斜陽』です。政府としても、在庫が捌けて助かっているのが本音です。
それに、法的根拠もありません。石炭は戦略物資指定を受けていませんから」
ヒューズは、唇を噛み締めて議員を睨んだ。
「……日本の発電所が稼働すれば、奴らの工業力は倍になるぞ。その責任を取れるのか」
「知ったことか」
議員は鼻で笑った。
「俺の責任は、ウェストバージニアの家族に暖房と食い物を用意することだ。
……日本の東郷とかいう男は、あんたらよりよっぽどその苦労を分かっているようだがな」
ヒューズは無言で部屋を出た。
廊下に出ると、彼は壁を殴りつけた。
(……東郷。貴様は、我が国の『資源の豊かさ』さえも、我々を縛る鎖に変えたのか……!)
⸻
時:同日 夜
場所:ニューヨーク州ハイドパーク、ルーズベルト邸
暖炉の前で、FDRはハリー・ホプキンスが持ち帰った報告書を読み終え、爆笑していた。
それは怒りでも悲しみでもなく、純粋な「感服」の笑いだった。
「ハハハハ! 最高だ! 傑作だよ、東郷君!」
「……フランク。笑い事ではありませんよ」
ホプキンスは呆れ顔だ。
「ウェストバージニアの炭鉱夫たちは、今や星条旗よりも日章旗に敬礼しかねない状況です。『俺たちの石炭が、日本を照らしてるんだ』と自慢げに話しています」
「ああ、知っているとも」
FDRは、涙を拭った。
「私が笑っているのはね、ハリー。
東郷がやったこと……
『地域独占の電力供給と、それによる産業振興』
これはまさに、私が大統領になったらやりたいと思っていた『テネシー川流域開発公社(TVA)』そのものじゃないか!」
FDRは、自分の脚(車椅子)を叩いた。
「私は、大統領権限と議会の承認と、血の滲むような説得を経て、ようやくそれを実現しようと考えていた。
だが東郷はどうだ?
議会も通さず、税金も使わず、ただ『制度』という名の財布一つで、あっさりと成し遂げてしまった」
彼は、窓の外の闇を見つめた。
遠く、エンパイア・ステート・ビルの建設現場の灯りが見える。
「しかも、その燃料は我が国のアパラチア炭だ。
……泥棒に入られたと思ったら、その泥棒が自分の家の台所を使って、最高に美味いディナーを作っていたようなものだ。
悔しいが、認めざるを得ない」
FDRの目が、鋭く光った。
「東郷は、証明しかけているのだ。
『公共事業』こそが、不況を脱出し、国を強くする最強の手段であることを。
フーヴァーが『自助努力』だの『民間主導』だのと寝言を言っている間に、日本は『国家主導の繁栄』という実例を作り上げてしまった」
「……では、我々はどうすれば」
「真似るのさ」
FDRは即答した。
「恥も外聞もない。東郷がやったことを、もっと大規模に、もっと大胆に、アメリカ流にやる。
TVAだけじゃない。道路も、橋も、学校も、全て国が作る。
……見ていろ。私がホワイトハウスに入ったら、東郷に著作権料を払いたくなるくらいの『ニューディール』を見せてやる」
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




