黒いダイヤモンドの家計簿
時:1930年(昭和五年)、ある日の夜
場所:横須賀・東郷邸、幸の自室
深夜、学習机の上の電気スタンドだけが灯っていた。
東郷幸は愛用のそろばんを脇に置き、計算尺と方眼紙を前にして、長い髪をかき上げながら小さく唸った。幸は学習机の電気スタンドの下、一枚の新聞記事と、自分なりの計算ノートを広げていた。
夜食のココアは、もうすっかり冷めて膜が張っている。
「……1ギガワット。1,000メガワット(MW)。……あうぅ……計算すればするほど、お父様のやってることが、人間業じゃなくなっていくよ……」
彼女の瞳には普段の控えめな光ではなく、数字の裏側にある「深淵」を覗き込んでしまった時特有の、冷徹で少し危うい色が宿っている。
幸は、切り抜きを愛おしげに指でなぞった。
彼女の容姿は、この数年で急速に大人びていた。背は伸び、少女のあどけなさの中に、ふとした瞬間に見せる理知的な陰影が混じるようになっている。
彼女の目の前には、新聞の切り抜きと、海軍経理学校の教科書、そして父から送られてきた手紙の写しが散乱している。
幸はノートの新しいページを開き、現代の知識(スプレッドシートの概念)を展開した。
【プロジェクト名:海軍電力事業(1GW級)収支シミュレーション】
1. 建設の部
まずは初期投資。
予算は8億円。当時の国家予算(一般会計)の半分近い。
資金源は、財閥から年利2%(実質タダ同然)で借り上げた円。担保はアメリカにあるドル資産。
で、これで作るのが……
京浜・阪神に最新鋭火力(高圧ボイラー)1GW。
送電網(154kV)の強化と周波数変換所。
その他予備費と燃料調達費。
「これ、普通の企業がやったら絶対破産するやつ……」
だってインフレで資材が高騰したらアウトだし、不況で需要がなくなったら赤字垂れ流しだもの。
でも、ここでお父様の「悪魔のタイミング」が光る。
発電機: アメリカ(GE)とドイツ(シーメンス)から購入。
恐慌で受注がゼロになったメーカーを、ドル現金払いで叩き買い。半値以下。
鉄塔・電線: 買い占めたUSスチールの鋼材と、政府がデフォルト寸前なチリの銅を使用。
これもタダ同然(制度債払い)。
土地: 埋め立て地か軍用地。ほぼタダ。
結果、建設単価は当時の民間電力会社の半分以下に抑えられている。
2. 収入(売上)の部
「まず、規模が変なの。100万キロワット(1GW)。
1ギガワット。
21世紀の感覚で言えば、原子力発電所1基分。現代日本全体の電力需要からすれば小さな数字に見えるかもしれない。
でも、今は昭和五年だ。
この時代の日本の総発電設備容量が、水力・火力合わせても400〜500万キロワット程度の時代。
その中で海軍という一組織が、単独で国の発電能力の2割から3割を一気に積み増そうとしている」
幸はペンを回した。
「この発電所はベースロード……つまり、24時間つけっぱなしにする。稼働率80%として、年間の発電量は約70億キロワットアワー(kWh)」
次に、売電単価。
民間の電力会社は、高い水力発電ダムの建設費回収のために、電灯料を高く設定している。
「これを海軍や工場、それに一般家庭に売る。単価は平均して6銭(0.06円)。お父様のことだから、市場を破壊しないギリギリの安値を攻めるはず」
70億kWh×0.06円=4億2,000万円
「……よんおく」
幸は、ごくりと喉を鳴らした。
この時代の日本の国家予算が約16億円だ。
たった一つの事業で、その4分の1に相当する売上が立つ?
3. 支出の部
「問題はここ。普通なら燃料費で利益なんて消し飛ぶはず。でも……」
彼女は、アメリカからの報告書(裏ルート情報)を写したメモを見た。
『米国・ウェストバージニア州のアパラチアおよびケンタッキー州炭鉱、海軍が破格で長期契約。トン当たり5〜7円』
「普通の電力会社なら、石炭を買うのにトン当たり12円から15円かかるわ。
でも海軍は違う。大恐慌で倒産したアメリカの炭鉱を買い叩いて、海軍の船で運んでくる。
私の試算だと、調達コストはトン当たり6円以下。市場価格の半値……」
当時の高効率火力の燃費(熱効率25%想定)で、石炭消費量は年間約300万〜350万トン。
350万トン×6円=2,100万円
「……嘘でしょ?」
幸は計算し直した。何度やっても同じだ。
売上が4億2000万円あるのに、一番重いはずの燃料費がたったの2100万円?
売上対燃料費率、わずか5%。現代の火力発電ではありえない数字だ。
「そして、財閥から借りた建設資金8億円。これの金利は年2%。
年間の利払いは……」
8億円×2%=1,600万円
「……売り上げ4億円に対して、一番重いはずの借金の利息が1,600万円。今の公定歩合(5%以上)を考えたら、これは『タダで貸してくれてありがとう』レベルの優遇金利……燃料費と合わせても4,000万円いかない」
機械も50Hzの東日本はドイツのシーメンスから、60Hzの西日本はアメリカのGEから購入している。
「工場みたいに屋根付きで、最新鋭のドイツ・アメリカ製機械だからメンテナンス費も安いし、寿命も長い。多めに見積もって年間5,000万円としても……」
4. 利益の部
収入:4億2,000万円
支出:約9,000万円(燃料2,100万+利息1,600万+償却・人件費など5,000万)
純利益:約3億3,000万円 / 年
幸の手が止まった。
ペンが、カタリと机に落ちた。
「……3年弱。たった3年足らずで、建設費の8億円を完済できちゃう」
彼女は、天井を仰いだ。
3億円。
それは、あと数年で作られるはずの戦艦「大和」に換算すれば、2隻分以上。
これは当時の帝国海軍の通常予算(軍縮下で約2.6億円程度)を、発電事業の利益だけで上回ってしまうことを意味する。
税金?
そう、ここが一番の問題だ。
海軍は政府機関だから、法人税はかからない。
あるいは「国庫納付金」として一部を政府に戻すかもしれないけれど、それは大蔵省の是清おじいちゃんとの「政治的な取引」に使われるだけだ。
この発電所群が一年動くだけで、大和が2隻作れて、まだお釣りが来る。
しかも、これは「単年度」の話だ。
発電所は一度作れば、20年、30年と金を産み続ける。
幸は儚げに、誰にともなく呟いた。
「……お父様、これは……反則です。お父様は、電気を売っているんじゃないわ。
日本の空気を『お金』に変える装置を作っちゃったの……。
これじゃあ、民間企業も、大蔵省も勝てっこないよぉ……」
これはビジネスではない。
「不況」という名のセール会場で、世界中の投げ売り品(石炭・機械)を買い集め、それを「電力」という一番高く売れるインフラに変換して売る。
その元手(8億円)すら、財閥の「円安恐怖」を利用して、格安で調達している。
わらしべ長者どころの話ではない。
他人の褌で相撲を取り、その勝負に「自分が勝つ」以外の目が出ないように盤面を固定してしまっている。
「……しかも」
幸は、新聞記事の切れ端を見た。
『海軍、将来的には電力事業の収益を元に、将来的に150万キロワット(1.5GW)体制を目指す』
「……複利で回す気だわ」
彼女は戦慄した。
稼いだ3億円を、他の民間企業のように配当や返済に回すのではなく、次の発電所建設に再投資する。
そうすれば、利益は雪だるま式に膨れ上がる。
このままいけば、数年後には、日本の電力の半分以上を海軍が供給することになるかもしれない。
そうなれば、工場も、鉄道も、一般家庭も……すべての国民が、海軍のコンセントに繋がれることになる。
幸はペンを置き、小刻みに震えた。
大好きなお父様。優しいお父様。
でもその頭脳は、国家を丸ごと「経営」し、誰にも文句を言わせない完璧な城塞を築き上げてしまった。
幸は、窓の外を見た。
横須賀の港には、制度債で造られた新しい工場の明かりが、不夜城のように輝いている。
その光は美しく、頼もしく、そして……どこか恐ろしかった。
幸は、マッチを擦った。
計算を書きなぐったページを破り取り、火をつける。
紙が燃え尽き、灰皿の中で黒い塵となるのを、彼女は無表情で見つめていた。
「……ふふっ。お父様ったら、悪い人」
灰になった秘密を見つめながら、幸は小さく笑った。その笑顔は、年相応の少女の可愛らしさと、共犯者の妖艶さが入り混じっていた。
「でも、そんなお父様が……私は大好きです」
彼女の瞳に、悲壮だが折れない、静かな炎が灯った。
それは遠いアメリカで戦う父に向けられた、祈りにも似た決意だった。
彼女は冷めたココアを一気に飲み干した。
甘くて、少し苦い。
それが、今のこの国の味だと思った。
幸は、窓を開けた。
海からの風が、彼女の髪を揺らす。
その風は、遠くアメリカにいる父の匂いを運んでくるような気がした。
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