泡の革命
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:東京港・大桟橋
その日、東京湾には見慣れぬ国籍の貨物船が入港していた。星条旗を掲げたアメリカ船と、黒・赤・金のヴァイマル共和政旗を掲げたドイツ船。
蒸気ウィンチが唸りを上げ、デリック(荷役クレーン)が巨大な荷を慎重に吊り上げている。頑丈なオーク材で組まれた、家一軒ほどもありそうな巨大な木箱クレートだ。箱の側面には、アメリカの消防機器大手「アメリカン・ラフランス(American LaFrance)」社の焼印が押されている。
埠頭には東京市消防局の制服を着た幹部たちと、仕立ての良い背広に身を包んだ海軍艦政本部の技師たちが集まり、異様な熱気の中で荷下ろしを見守っていた。
木箱がゆっくりと降ろされ、側板がバールでこじ開けられる。
現れたのは、目にも鮮やかな「深紅」の塗装が施された巨大車両。
「高圧ポンプ消防車(High-Pressure Pumper)」
ニューヨークの摩天楼で頻発する高層ビル火災に対応するために開発された、毎分1,000ガロン(約3,800リットル)という、従来の日本製の倍以上の放水能力を持つ怪物である。その真鍮製の金具は鈍い光を放ち、エンジンの轟音を想像させるような威圧感を湛えていた。
「……でかいな。化け物だ」
東京市消防局長・大西は、口ひげをさすりながら呆れ顔で言った。
「あんな図体、下町の狭い路地裏じゃ曲がれんぞ。曲がる前に軒先を潰しちまう」
その隣で、腕組みをして車両を見上げていた海軍造船大佐・藤本喜久雄が、ニヤリと笑って答えた。斬新なアイデアで知られる、艦政本部の鬼才である。
「道路を走らせるんじゃありませんよ、局長。欲しいのは車体じゃない。『ポンプ』と『ノズル』の心臓部です」
藤本は、ニヤリと笑ってポンプの吸水口を指先で弾いた。
「この『心臓』と、あの『ノズル』の技術だけです。
こいつをバラして、スケッチして、日本のサイズに詰め直す。……そのための標本として、200台分買い付けました」
藤本は同時にドイツ船から陸揚げされている、武骨なドイツ語のラベルが貼られた大量の木箱を指差した。
『Total Walther - Luftschaum(機械泡消火剤)』
そしてその隣には、アメリカのキドニー社(Walter Kidde)の刻印が入った、鋼鉄製の高圧ボンベの群れ。
「あの中身こそが、将来の海戦……特に我が国が命運を託す航空母艦を、地獄の業火から守るための『白い盾』なのです」
「……海戦? わしらは市民の火事を消す話をしているんだがな」
大西局長は不満げに鼻を鳴らした。予算を出してくれたのは海軍だが、その目的がいまいち理解できない。
藤本は、真剣な眼差しで局長に向き直った。
「ええ。ですが局長。ガソリンの火は、街の倉庫でも、空母の格納庫でも、同じように燃えます。鉄を溶かし、人を焼き尽くす悪魔です」
彼は胸ポケットから万年筆を取り出し、分厚い受領証にさらさらとサインをした。
【購入代金:2,000万ドル(日本海軍制度債決済)】
円換算で約4000万円。当時の主力戦艦一隻分に近い、目もくらむような巨費だ。
本来なら「無駄遣いだ!」と大蔵省や艦隊派から怒号が飛ぶはずの金額。だが今の海軍には、ワシントンの東郷一成が送ってくる潤沢な資金があった。
戦艦の装甲を厚くする前に、もっと重要な守りがある。火に焼かれないこと。
この贅沢こそが、東郷が描いた合計1億円近くの「見えない防御壁」だった。
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時:数週間後
場所:横須賀海軍工廠・特設消火実験場
海からの風が冷たい実験場の中央には、ドラム缶百本分のガソリンがなみなみと満たされた巨大なコンクリート製プールが設置されていた。
周りを囲むのは、耐火服に身を包んだ実験員たちと、その様子を見守る連合艦隊の各艦艦長、そして軍令部の高官たちだ。
「点火!」
号令と共に、火のついた松明がプールに投げ込まれた。
ドォン! という重低音と共に、紅蓮の炎が爆発的に膨れ上がった。黒煙が空を黒く染め、猛烈な熱波が数十メートル離れた観客席にまで押し寄せる。顔が熱い。目が痛い。
「……こいつは酷い」
観客の一人が呻いた。
これまでの日本の消火技術――海水をただぶっかけるだけの「棒状放水」では、この火は消せなかった。ガソリンは水よりも軽い。水をかければかけるほど、燃える油は水面に浮いて広がり、火災を拡大させてしまうのだ。
「消火実験開始! 放水ッ!」
号令と共に、海軍の誇る精鋭の水兵が進み出た。
彼らが握っているのは、アメリカ製をコピーし、日本の海軍工廠がさらに精度を高めて試作した「海軍式高圧噴霧ノズル(Navy Fog Nozzle)」だ。
「熱を奪え! 煙を抑えろ!」
隊員たちがレバーを引くと、ノズルの先端から水が飛び出した。だがそれは、いつもの水の柱ではない。
微細な霧だ。
高圧で微粒化された無数の水滴が、炎のカーテンとなって火源を包み込む。水滴は瞬時に蒸発し、その気化熱で周囲の熱を恐ろしい勢いで奪っていく。
視界を塞いでいた熱気が引き、黒煙が薄れる。
炎の勢いが、目に見えて衰えた。
「今だ! 第二班突入!」
続いて、別の太いホースを抱えた部隊が前進する。
そのホースの先から噴き出したのは、雪のような真っ白い泡だった。
ドイツ・トータル社から2千万円でライセンスを得て国内生産を開始した「機械泡」だ。
これまでの化学泡(2種類の薬剤を混ぜて反応させる)は、準備に時間がかかり、泡の質も不安定だった。だが機械泡は違う。専用の混合器で、泡原液と空気と水を機械的に混ぜ合わせ、瞬時に、そして無尽蔵に高品質な泡を作り出す。
異様な噴射音と共に、白い泡がガソリンの表面を生き物のように這っていく。
泡は油膜を完全に覆い尽くし、空気(酸素)を遮断した。窒息効果だ。
わずか30秒。
空を焦がさんばかりに猛り狂っていた炎の魔物は、白い泡の分厚い絨毯の下で、完全に沈黙した。
残ったのは、漂う白い湯気と、唖然として立ち尽くす観客たちだけだった。
「……消えた」
誰かが、信じられないという声で呟いた。
本来なら鎮火に数時間はかかるはずの大火災が、コーヒーを飲み終えるより早く鎮圧されたのだ。
「これならいけるぞ」
観覧席の最前列で、当時空母「赤城」の艦長を務めていた山本五十六大佐が、思わず自身の膝を叩いた。
「これだ。これがあれば、格納庫で爆弾が誘爆しても、燃料タンクが破裂しても、艦を救える。艦が生きていれば、兵士も生き残る。……兵士が生きていれば、また戦える」
山本は振り返り、隣にいた藤本造船大佐に食ってかかった。
「……藤本君。この装置を、今後の改装で全空母、全巡洋艦に搭載するよう計画しろ。いや、戦艦にもだ!」
「予算はかかりますが……?」
「予算だと?」山本は鼻で笑った。
「東郷のポケットには、腐るほどドルが入ってるんだ。ここが使いどころだ!
……名目は『都市防災技術の実証試験』だ。
東京の消防署にも新型ポンプ車を何台か寄付してやれ。そうすれば文句はあるまい。……軍人が、国民の火事の心配をして、最新鋭の機械を与える。良い美談じゃないか」
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時:1930年(昭和五年)、冬
場所:佐世保海軍工廠・艤装岸壁 空母「加賀」
近代化改装中の巨大空母「加賀」の広大な格納庫では、血管のような複雑な配管工事が急ピッチで進められていた。
天井には無数の真新しいスプリンクラーヘッドが、威圧的に並んでいる。
だが、そこから出るのはただの水ではない。
「……これが、アメリカのCO2システムか」
機関長が、機関室の入り口に設置された、深紅に塗られたボンベ群を愛おしげに撫でた。
アメリカのキドニー社の技術による「高圧炭酸ガス消火設備」。
艦の心臓部であるボイラー室、発電機室、そして無線室。これらに水をかければ、火は消えても機械はショートし、使い物にならなくなる。
だがこのガスなら、センサーが熱を感知した瞬間、区画を無酸素状態にして火だけを殺す。機械は濡れず、換気さえすれば即座に再起動できる。
「しかもこれだ」
機関長は、格納庫の柱ごとに備え付けられた、見慣れぬ機械を指さした。
『可搬式ポンプ(通称:ハンディ・ビリー)』
小型のガソリンエンジンがついたポンプだ。大人の男二人なら持ち運べる重さ。
艦が被弾し、主電源が停止しても、消火用の水圧が失われても。兵員がこれを海面に投げ込めば、どこでも海水を汲み上げて消火ができる。
それは「絶対に諦めない」ための最後の命綱だった。
さらに、全ての区画にはワンタッチ式のホース継手(ドイツ式ストルツ金具の改良版)が採用され、誰でも数秒でホースを繋げるようになっていた。耐火服、防毒マスクも完備されている。
「……以前の加賀は、爆弾一発で火だるまになる『マッチ箱』だった」
加賀艦長の河村大佐は、改修の進む格納庫を見渡して呟いた。
その視線には、安堵と自信が宿っていた。
「だが今の加賀は、炎すらも窒息させる『鉄の肺』を持った。
……これなら、被弾しても戦える。たとえ甲板が割れても、火災で沈むことはない。
沈まなければ、負けではない」
造船所の外では、同じ技術で作られた新型の消防車が、サイレンを鳴らして佐世保の街を守りに行くのが見えた。
その真っ赤なボディの背中には、海軍の「錨のマーク」と、消防署の「桜の紋章」が並んで輝いていた。
市民を守る盾と、艦隊を守る盾。
その両方が、一つの「制度」と「金」によって繋がっている。
町工場のオヤジたちは、海軍の発注でフォグノズルを削りながら、「これが俺たちの家を守るんだ」と胸を張った。
水兵たちは、「何かあっても、この装備があれば生き残れる」と信じて訓練に励んだ。
「水と泡の革命」は、単なる技術革新ではなかった。
それは「命を粗末にする」という日本軍の悪しき伝統を、「金で命を買えるなら安いものだ」という合理的思想へと書き換える、静かなる精神の革命でもあった。
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