蟹を買う軍隊
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:東京・上野、精養軒
その日、野党第一党・民政党の幹部会は、まるでお通夜のような陰鬱な空気に包まれていた。
党首の「ライオン宰相」こと浜口雄幸は、渋い顔で湯飲みを見つめ、財政の要である井上準之助は、神経質に眼鏡を拭き続けている。
彼らのテーブルの上には、支持者や地方の有権者から殺到した電報の山が築かれていた。その内容は、罵詈雑言に近い悲鳴だった。
『海軍ハ、米国ノ失業者ニハ牛肉ヲ振ル舞フ』
『然ルニ、我ガ東北ノ農村デハ娘ガ売ラレテオル』
『民政党ハ、何ヲシテオルカ! 日本人ハ米国人ヨリ劣ルトイフノカ!』
井上準之助が、苦渋に満ちた声で呻いた。
「……こんな馬鹿な話がありますか。緊縮財政で身を切り、耐え忍んでこそ国力が回復する。それが我々の信条だったはずだ。それなのに……」
井上は、新聞記事を握りつぶした。
『米国にて、日本海軍の炊き出しに感謝の列』
『GE製調理器と、ブラジル産コーヒーの温もり』
「海軍の連中、やってくれおったわ。外国の国民には豪華なシチューを食わせ、それを『国防任務』だと言い張る。……ならば、自国の飢えた民を救うのは任務ではないのか? そう問われれば、我々は反論できん!」
浜口雄幸が、重い口を開いた。
「……井上君。理屈はどうあれ、国民の感情は限界だ。
『なぜ外国のアメリカ人が助かって、俺たちが死ななきゃならんのだ』という怒りは、政府(田中内閣)だけでなく、緊縮を唱える我々野党にも向いている」
本来なら、民政党は海軍のバラマキを「財政規律の崩壊」「軍部の政治介入」として攻撃する立場だ。
だが、今それをやればどうなるか?
「民政党は、国民が飢えて死ぬのを放置しろと言うのか!」「アメリカ人の方が大事なのか!」というレッテルを貼られ、次の選挙で壊滅する。
浜口は、決断を下した。
それは彼らの政治生命をかけた、屈辱的な方針転換だった。
「……国会で、動議を出すぞ」
「総裁!? まさか……」
「そうだ。『海軍が保有する潤沢なドル資金と制度債を活用し、即刻、国内の救済を実施せよ』とな」
井上は天を仰いだ。
野党が、政府(海軍)に対して「もっと金を使え」「もっと介入しろ」と要求する。
それは東郷一成が敷いたレールの上を、自ら進んで走らされることに他ならなかった。
⸻
時:数日後
場所:東京・永田町、衆議院予算委員会室
その日の議場は、怒号で揺れていた。
だがその怒りの矛先は、いつものような「軍備拡張反対」や「財政規律」ではなかった。あまりにも倒錯した、嫉妬と愛国心がない交ぜになった叫びだった。
「総理! 海軍大臣! これはいかなる了見か!」
演壇に立ち、顔を紅潮させて机を叩いているのは、野党・民政党の論客だった。彼は一枚の新聞記事――ニューヨーク・タイムズの転載――を振りかざした。
「『日本海軍、全米で500万人の失業者に温かいビーフシチューを振る舞う』だと!?
ふざけるのもいい加減にしたまえ! 帝都の貧民街では、今日の米にも事欠く者たちが溢れているのだぞ!
東北では冷害で娘が身売りされているというのに、海軍は世界一豊かな国、アメリカの市民には肉を食わせ、自国の民には指をくわえて見ていろと言うのか!?」
議場から「そうだ!」「非国民め!」という野次が飛ぶ。
マスコミ席の記者たちも、ペンを走らせながら同意の眼差しを向けている。
彼らはここぞとばかりに、「軍の暴走」と「政府の無策」を叩く構えだった。
普段は軍縮と緊縮財政を叫ぶ民政党が、今は「もっと自国民に金を使え」と政府を突き上げている。皮肉な光景だった。
答弁席に立った海軍大臣・岡田啓介は、困り果てたような顔を作りながら(その実、腹の底で笑いながら)、答えた。
「我々とて、同胞の苦しみを見るに忍びない。今すぐにでも、手持ちのドルと、北洋・南洋で確保した食料を使い、国内での大規模な炊き出しを行いたいと考えております。……準備は、全て整っております」
「ならばなぜやらん! さっさとやらんか!」
野党席から怒号が飛ぶ。
そこで堀悌吉がスッと手を挙げ、発言を求めた。
「……恐れながら、委員各位に申し上げます。
我々が国内での救済活動を躊躇しておりますのは、他ならぬ、憲政の常道を守るためであります」
堀は、過去の議事録を取り出した。
「去る臨時議会において、貴党・民政党はこう主張されました。
『軍部が独自の財源で国内のインフラ整備や農村支援を行うことは、政治への不当な介入であり、統帥権の乱用である。厳に慎むべし』と」
議場が、一瞬にして静まり返った。
「我々は、議会のご意思を尊重いたしました。
軍が国内で目立った施しを行えば、それは『人気取り』であり『政治介入』であると批判される。
ゆえに、我々は余った資金と食料を、政治的懸念のない海外――アメリカでの人道支援と資産保全に回したのです」
堀は、議員たちを見回した。その目は笑っていなかった。
「さて、お尋ねします。
我々が今、国内で数百万人規模の炊き出しを行えば、それは再び『軍の政治介入』として糾弾されるのでしょうか?
それとも……『国民の命を守るための必要な措置』として、議会の承認をいただけるのでしょうか?」
「今はそんなことを言っている場合かッ!!」
議員は絶叫した。完全に、東郷と堀が仕掛けた罠にはまっていた。
逃げ場はない。東郷がアメリカで撒いた「パン」は、回り回って日本の野党の喉元に突きつけられたナイフとなっていたのだ。
「……や、やむを得まい」
古参議員が、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「……非常時である。国民の飢餓を救うことは、最優先事項だ。
……本委員会は、海軍に対し、国内における即時の救済活動の実施を……よう、要請する」
「……要請、でありますか?」
堀は、念を押すように確認した。
「要請だ! 文句があるか!」
「いえ。帝国海軍は全力で遂行いたします」
堀と岡田は、深々と一礼した。
その瞬間、日本国内における海軍の「統帥権の経済的行使」は、議会の承認を得た「国策」へと昇華した。
堀は、手元の分厚いファイルを開いた。
そこには、軍令部が以前から準備していた「国内救済」のための兵站計画が、完璧な数字として記されていた。
「では、直ちに発動します。
ターゲットは二つ。『米』と『魚』です」
作戦目標一:暴落した米の買い支え
この年、日本は皮肉にも「豊作貧乏」に見舞われていた。米が獲れすぎて価格が暴落し、農家が肥料代さえ払えない状況だ。
「海軍が、市場価格の二割増しで買い上げます。原資は、先日財閥から借り上げた円。
農家には現金が入り、海軍には大量の兵糧(米)が手に入る」
作戦目標二:輸出崩壊した水産物の救済
「そして、これです」
堀は、北洋と南洋の地図を指さした。
「北洋の蟹工船、鮭缶詰。南洋の捕鯨。……これらは本来、英米などへの輸出品でもありましたが、向こうの大暴落でキャンセルが相次ぎ、在庫の山で倒産寸前です」
当時のプロレタリア文学『蟹工船』で描かれたような地獄。
過酷な労働の末に作った缶詰が売れず、経営者が労働者を搾取する構造。
それを、海軍が断ち切る。
「在庫を一括で、制度債も使い買い取ります。缶詰、塩蔵品、全てです。
支払い条件は『即金』。ただし、労働者への未払い賃金の精算を最優先とさせます」
是清は、そろばんを弾く真似をした。
「……おいおい、堀君。
アメリカでの炊き出しは月5,000万ドルだったな。
日本で500万人を食わせるのに、いくらかかるんだ?」
「……計算しました」
堀は、指を一本立てた。
「月額、約2,000万円(1,000万ドル)。……アメリカの費用の、五分の一です」
「安っ!」
是清は目を丸くした。
「アメリカでは高い人件費と肉を買いましたが、日本では自国の農水産物を買い支える形になりますから。いわば『産地直売』です。
しかも……我々は先ほど巨額の円を借りることに成功しましたからな」
堀は、不敵に微笑んだ。
「アメリカ人には悪いですがね。…… 彼らから巻き上げたアブク銭(ドル資産)を担保にした円の“端数”で、日本の貧困層は全員、腹一杯になれますよ」
⸻
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:北海道・函館港
吹雪く港に、錆びついた「蟹工船」が停泊していた。
甲板には薄汚れた綿入れを着た労働者たちが、絶望的な顔で座り込んでいる。
今年も漁は終わった。だが、会社は「アメリカの不景気でカニが売れない」と言って、給料を払おうとしない。暴動寸前の空気だった。
その時、黒塗りの海軍公用車が岸壁に止まった。
降りてきたのは、海軍の主計大尉と、函館の憲兵隊だ。
「……社長はおるか!」
大尉が一喝する。脂ぎった社長が慌てて出てくる。
「へ、へい! 何か御用で……?」
「貴様の倉庫にあるカニ缶詰、二万箱。
帝国海軍が、全量買い上げる」
「えっ……!?」
社長の目が、金貨のように光った。
「か、買い上げ!? ホントですか! いやあ、海軍様は神様だ!」
「喜ぶのは早い」
大尉は、革鞄から分厚い札束を取り出し、社長の顔の前に突きつけた。だが、渡さない。
「代金はここにある。だが、その前に……」
大尉は、甲板の労働者たちを指さした。
「彼らへの未払い賃金。……今ここで、我々の目の前で、全額支払え。
それが確認できた瞬間に、この代金を渡す。
……一銭でも誤魔化してみろ。貴様を即座に陸軍の憲兵隊へ引き渡す」
社長は震え上がり、慌てて金庫を開けさせた。
雪の降る甲板で、現金の支給が始まった。労働者たちが、信じられないものを見る目で、薄汚れた手の中の札束を見つめている。
「……か、金だ……本物の金だ……」
「海軍さんが、払わせてくれたんだ……!」
その光景を見届けた大尉は、買い上げた缶詰の山に『海軍御用』の焼印を押させた。
この最高級のカニ缶は、明日から東北の飢える農村へ、そして東京の失業者への「配給品」として無料で配られるのだ。
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時:同日
場所:東北、岩手県の山村
村の公民館は、湯気と匂いで満ちていた。
大釜で煮られているのは、かつては見たこともないような御馳走だ。
海軍が南洋から運んできた鯨肉の脂が浮いた味噌汁。
その中には、北洋から届いたばかりのサケのアラと、地元で買い上げられた大根や人参が、これでもかと入っている。
そして一人一つ、真っ赤なカニの缶詰が開けられていく。
「……食え、食え!」
元陸軍の軍曹だったという「制度債監査官」が、半分涙目で村人たちに茶碗を配っている。
「これは、アメリカの金持ちから巻き上げてきた金(を担保にした円)で買ったメシだ!
遠慮はいらねえ! 日本の海と土の味だ!」
子供たちが、鯨肉を頬張り、カニの身に歓声を上げる。
冷害で死にかけていた村に、命の熱が戻っていく。
その様子を見ていた村長が、監査官に手を合わせた。
「……ありがてえ。本当にありがてえ。
お国は、俺たちを見捨ててなかったんだな……」
その言葉は、やがて日本中を駆け巡る。
政党政治家たちが料亭で密談している間に、軍部(海軍)は現場で、もっとも直接的な形で「生存」を保証した。
この冬、日本国内で餓死者は激減した。
その代わり、国民の心の中に一つの確信が根付いた。
『頼れるのは、政治家(言葉)じゃない。軍隊(制度)だ』
ワシントンで東郷が4か月間のためにばら撒いた2億ドルはアメリカを縛る鎖となり、日本で堀が5か月間ばら撒いた5千万ドルは、国民を統合する鋼鉄の絆となった。
この炊き出し一回ごとに、「救済任務完了」の報告書が書かれる。
その報告書一枚一枚が、新たな「制度債」の発行根拠となり、海軍の金庫には、信用が積み上がっていく。
コストパフォーマンスで言えば、これほど効率的な「国家買収」はなかった。
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