円スワップ
時:1930年(昭和五年)、年明け
場所:東京・日本橋、三井銀行・本店・特別応接室
その部屋には、日本経済の「心臓」が置かれていた。
天井の高い重厚なルネサンス様式の建築。磨き上げられた寄木細工の床、ペルシャ絨毯、そして紫煙をくゆらす最高級の葉巻。
しかしその優雅な空間を支配していたのは、富める者たちの余裕ではなく、窒息しそうなほどの閉塞感だった。
集まっていたのは、三井、三菱、住友、安田、そして第一銀行――日本経済を牛耳る「五人の王」たちである。
三井合名理事長、團琢磨は、象牙のパイプを灰皿に叩きつけるように置いた。
「……カネだ。国内に、カネが溢れておる」
團の嘆きは、一見すれば贅沢な悩みに聞こえるかもしれない。だがこの異常事態こそが、現在の日本経済がいびつな形に変質している証拠だった。
不況の風が吹き荒れる中、海軍に関連する造船、製鉄、化学、そして物流産業だけが、狂ったような好景気に沸いている。「東郷ブーム」だ。
彼らの元には、代金として海軍から大量の「制度債(国内流通分)」が支払われる。企業はそれを原材料の仕入れには使える。だが配当や巨額の内部留保として金庫に積み上げるには、やはり法定通貨である「円」でなければならない。
その結果、海軍の活動が生み出した膨大な「信用」が「円」への転換圧力を生み、銀行の金庫には、行き場を失った現金(円)が山のように――推定で10億円(21世紀の数兆円規模)――積み上がっていたのである。
「貸出先がない」
三菱の幹部が苦々しげに言った。
「海軍関連以外の企業は、不況で息も絶え絶えだ。貸したくとも貸せば焦げ付く。かといって、ただ金庫に眠らせておけば、利息を食うだけの穀潰しだ」
金は、回さなければ死ぬ。滞留した血液は、いずれ血栓となって本体を殺すのだ。
「ドルを買うべきでしょう」
若い役員が進言した。
「金解禁も(事実上不可能となったが)話題になった。円安を見込んでドルを買い、資産を保全する。これが銀行家の定石です」
「馬鹿を言え!」
住友の総理事が、激高して机を叩いた。
「アメリカを見ろ! あのウォール街の有様を! 銀行がドミノ倒しのように潰れ、取り付け騒ぎが起きているんだぞ! かのナショナル・シティ・バンク(NCB)だって、海軍さんの救済がなければ昨年末に蒸発していたはずだ。そんな火の車の中に、大事な虎の子を放り込めるか!」
そこには、逃げ場のないジレンマがあった。
円で持っていては、海軍主導のインフレ(あるいは東郷デフレの波及)が怖い。
かといってドルに変えようにも、そのドルを預ける先のアメリカの銀行自体が信用できない。
日本中の富を吸い上げた怪物たちが、その富の重さに押しつぶされそうになっていた。
その時、重厚な扉が無遠慮に開かれた。
事前の取次もそこそこに、二人の男が足を踏み入れた。
一人は、布袋様のような笑顔を浮かべた巨漢。大蔵大臣・高橋是清。
もう一人は、冷徹な能面のような美丈夫。海軍軍務局長・堀悌吉。
室内の空気が、一瞬で変わった。財界の王たちが、思わず居住まいを正す。今の日本において、この二人の背後にいる「海軍省の金庫」こそが、唯一の神だからだ。
「……お困りのようですな、皆さん」
是清は、ダルマのような巨体を揺らして、空いていた上座の椅子にドカリと腰を下ろした。
「金が余って夜も眠れない。実に結構なご身分だ。市井では明日の米に困る者もいるというのにな」
皮肉めいた言葉だが、是清の声には不思議な愛嬌がある。だが、その目は笑っていなかった。
「……高橋大臣、堀局長。何のご用向きで」
團が慎重に問いかける。
「助け舟を出しに来たのさ」
是清はニヤリとした。
「君たちが抱え込んだその重荷、国――いや、海軍が預かってやろうかと思ってな」
「預かる……とは?」
堀悌吉が、持参した革鞄から、一枚のペラ紙を取り出した。書類をテーブルの中央に滑らせる。
タイトルは、『対米ドル債権担保・特別円借款契約書』。
「単純な話です」
堀の声は、理路整然としていて、感情の揺らぎがない。
「貴行が金庫で腐らせている余剰の円、その全てを海軍省に貸し付けなさい。
金利は年2%。公定歩合を考えれば破格の低金利ですが、眠らせておくよりはマシでしょう」
「海軍に……金を貸せと? しかし、担保はどうされるおつもりで?」
三菱の幹部が眉をひそめる。国の機関への貸付とはいえ、無担保で億単位の金は動かせない。
堀は、薄い唇の端を吊り上げた。
「担保なら、ありますよ。……アメリカに」
「は?」
「我々がワシントンに保有している、『ドル資産』に対する優先請求権を担保に差し出しましょう」
堀は事も無げに言った。
銀行家たちがざわめいた。顔を見合わせ、計算を始める。
「……ド、ドル担保ですか!?」
「左様。東郷一成が、向こうの市場でしこたま稼ぎ出した米ドル、米優良株、そしてNY連銀に眠らせている金。これらは正真正銘、ドル資産だ。
ご覧ください。担保として差し入れるのは、総額7億5000万ドル相当の資産バスケットです」
團琢磨が、眼鏡の位置を直してその内訳を覗き込む。
・NY連銀預託・日本海軍イヤーマーキング金地金:3億ドル相当
・チェース・ナショナル銀行ほか預金証書:3億ドル相当
・米国主要株(USスチール、GE等):時価評価額1億5000万ドル相当
「……貸出希望額は日本円で10億円、レートで約5億ドル。
それに対して7億5000万ドル、つまり1.5倍の担保をご用意しました。しかもその4割は、1932年には引き出せる純金です。
万が一、海軍が円で返済できなくなった場合は、この担保権を即座に執行し、NYの金庫から貴行の名義に書き換えていただいて構いません。契約書にはそう明記してあります」
是清が、キセルを取り出しながら補足した。
「つまりだ、君たち。
この契約に乗れば、君たちは『居ながらにしてドルを買った』のと同じ経済効果を得られるわけだ。将来円安になれば、担保価値が上がるのだから、実質的な為替差益も確保できる」
是清は煙を吐き出し、部屋中の緊張を見透かすように言った。
「しかも、ここが重要だ。
君たちのドルの預け先は、いつ潰れるか分からんウォール街の銀行ではない。
……天下の、帝国海軍の金庫だ」
水を打ったような静寂が流れた。
團琢磨の頭脳が、猛烈な速度でその意味を咀嚼する。
これは究極のヘッジ取引だ。
「ドルが欲しい」という財閥のニーズと、「円が欲しい」という海軍のニーズを、市場を通さずに相対取引で解決する。
通常、10億円もの円売りドル買いを市場で行えば、劇的な円安と金利高騰を招き、日本経済は混乱するだろう。「円売りドル買い事件」として批判されるかもしれない。
しかしこの方法なら、市場に影響を与えずに、帳簿上の操作だけで完了する。
リスクは? ほぼゼロだ。日本海軍が保有する対米資産が巨額であることは、もはや世界の公然の事実だ。アメリカのどの銀行よりも信用力が高い。しかも1.5倍の担保、それもゴールドが含まれている。こんな良質な貸出案件は、世界中どこを探してもない。
リターンは? 確実だ。年2%の利息に加え、事実上の外貨保有効果。
何より……。
(……これは、踏み絵だ)
團は、是清と堀の目を見て確信した。
この提案は、「お前たちの味方になってやる」という救済ではない。「俺たちの船に乗れ」という強制徴用だ。
今、海軍の機嫌を損ねればどうなるか。
南米からの資源輸入ルートから外されるかもしれない。アメリカから略奪してきた最新技術の供与が、他の財閥に回されるかもしれない。
「国賊」として睨まれれば、この新しい経済圏の中で、三井は干上がることになる。
是清が、好々爺の顔の裏に隠した刃をちらりと見せた気がした。
「どうだね、團さん。
これなら夜もぐっすり眠れるだろう? 為替手数料もかからん。取り付け騒ぎもない。
お前さんの金は、日本という国の金庫の中で、ドルの輝きを帯びて安全に眠るのだ。……悪い話じゃあるまい?」
團は、深く息を吐き出した。
降参だ。いや、幸福な降伏というべきか。
「……分かりました」
團は立ち上がり、恭しく頭を下げた。
「そのお話、喜んで乗らせていただきましょう。当行の余剰資金、ならびに三井合名の待機資金、合わせて2億円……全て、海軍省に融通いたします」
その一言が、堰を切った。
「三菱もだ。造船の支払いで得た金、すべてお返し……いや、お貸ししましょう」
「住友も乗る。これは国家のためだ」
「安田も異存はない」
その瞬間、歴史的な資金移動が決定した。
史実では「ドル買い」として海外へ流出するはずだった10億円規模の日本円が、全て「海軍への貸付」として国内に封じ込められたのだ。
⸻
帰り際、省用車の後部座席で、堀は是清に耳打ちした。
「……うまくいきましたな、閣下」
「うむ。財界の連中、安堵の顔をしておったわ。これで奴らと海軍は、一蓮托生だ」
是清は、窓の外を流れる帝都の景色を眺めた。不況の影は濃いが、それでも死んではいない。
「……して、堀君。
これで手元に、自由に使える『円の現ナマ』が10億円できたわけだが。
東郷のやつ、ドルだけじゃなく円まで独占して、一体何をする気だ?」
10億円。国家予算の半分以上に匹敵する巨額だ。制度債(非課税の商品券)ではなく、現金の円であることに意味がある。
「公共事業を予定しております、閣下」
堀は、事もなげに言った。
「国内の港湾整備、道路建設、電力網の拡充、それから、新たな工業・住宅地帯の造成。
これらは制度債だけでは柔軟性がありません。現場の作業員の日当、飯代、飲み代……やっぱり末端では『円』でないと回らない」
堀の目に、冷徹な国家改造の設計図が浮かんでいた。
「アメリカで買い付けた機械が届いても、それを動かすインフラがなければ鉄屑です。
財閥から吸い上げた金を、今度は中小企業や建設業者、つまり財閥の下請けに発注という形でばら撒いてやる。
……金は天下の回りもの。財閥の金庫で腐っていた金を、我々がポンプとなって、強制的に世の中に回してやるのです」
是清は、膝を打って笑った。
「なるほど! いわゆるケインズとかいう学者が言っていたようなことを、軍人が先導してやるとはな!
『金持ちから金を借りて、貧乏人に仕事を配る』
本来なら私の仕事(財政出動)だが……議会を通さずにやれるなら、それに越したことはない」
「ええ。それに、これは『海軍への貸付』ですから、財閥にとっても海軍の繁栄は自らの利益になります。彼らは必死で、我々の公共事業に協力するでしょう」
車は、霞が関の坂を登っていく。
昭和恐慌の火種となるはずだった「キャピタル・フライト」は、東郷一成と堀悌吉という二人の天才によって、逆に国内経済を温める燃料へと変換されたのだった。
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