ハリボテのライオン
時:1930年(昭和五年)、年明け
場所:ロンドン、ダウニング街10番地
ロンドンの霧は深く、テムズ川から立ち上る湿気が、首相官邸の窓ガラスを曇らせていた。
暖炉の前で、ラムゼイ・マクドナルド首相と、イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンは、ワシントンから届いた諜報報告書を肴に、苦い紅茶を飲んでいた。
「……滑稽だと思わんかね、総裁」
マクドナルドは、報告書を指先で弾いた。そこには、米海軍の強硬派が「対日七割阻止」を叫び、議会で涙ながらに訴えている様子が記されていた。
「彼らは叫んでいる。『日本に七割を許せば、アメリカの安全保障は崩壊する!』と。
……だが、数字を見たまえ。仮に日本が七割を持ったとしても、アメリカは依然として十割、つまり日本の一・四倍の艦隊を維持できるのだぞ?」
ノーマンは、冷ややかな笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。かつての日本が『六割では国が滅ぶ』と叫んだのとは訳が違います。
あの時の日本は『持たざる国』の悲鳴でしたが、今のアメリカは『持てる国』のただの癇癪です。
『俺より弱い奴が、少し強くなるのが許せない』という、子供のいじめっ子の理屈ですよ」
二人の脳裏には、数週間前の屈辱が蘇っていた。
スティムソン国務長官に「戦債を即時返せ」と脅され、NY連銀からの金塊引き出しを止められたあの日。
アメリカは「金を持っている(はずの)強者」の論理で、イギリスの喉元を踏みつけた。
だが今、そのアメリカが「金がない」という理由で、日本に対して怯えている。
「彼らが恐れているのは、条約の比率ではありません」
ノーマンは、紅茶のカップをソーサーに置いた。カチャリ、と硬質な音が響く。
「彼らは知っているのです。
条約で『アメリカは10、日本は7』と決まったところで……
アメリカにはその『10』を動かす燃料代も整備費もなく、錆びつくに任せるしかないということを。
対して日本は、豊富な資金(制度債)と南米の資源を使ってその『7』をフル稼働させ、最新鋭の装備で磨き上げることができるということを」
マクドナルドは、意地悪く笑った。
「つまりこういうことか。
アメリカは“10隻持っている”。
日本は“7隻を動かしている”。
我々は……“海軍史を持っている”、と?」
マクドナルドは立ち上がり、窓の外の霧を見つめた。
「……いい気味だ、と言ってはバチが当たるかな。
彼らは我々の金塊を人質に取り、我々の手足を縛った。
だが、その結果どうなった?
彼らは日本の海軍に、もっとキツい『資本の首輪』をつけられ、今や庭先でキャンキャンと吠えることしかできない……」
ノーマンは紅茶を一口含み、静かに言った。
「アメリカは“日本の脅威”を叫んでいますが……
我々が恐れているのは、日本が何もしないことです」
マクドナルドが眉を上げた。
「何もしない、とは?」
「買わない。
投資しない。
助けない」
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。
⸻
時:同日
場所:ロンドン、ホワイトホール・海軍本部
ロンドンの空は、いつものように灰色だった。
だがその日、第一海軍卿チャールズ・マッデンの執務室に漂っていたのは霧ではなく、安葉巻の煙と、濃密な皮肉の空気だった。
海軍大臣 A.V. アレグサンダーは、一枚の極秘報告書をテーブルに放り投げた。
表題は『極東における防衛能力と、同盟国の動向について』。
「……提督。笑い話を聞きたいかね?」
アレグサンダー大臣は、乾いた声で言った。
「オーストラリアとオランダが、悲鳴を上げている。
『経済が死にそうだ。羊毛と石油を買ってくれ』と。
そして『日本が不気味だ。シンガポール基地は本当に我々を守れるのか?』とな」
マッデン提督は、苦い顔で答えた。
「守れるわけがありません。
……現地の司令官からの報告では、今のシンガポールにあるのは、半分乾いたコンクリートの塊と、マラリア蚊の大群、そしてやる気のない現地労働者だけです。
主力艦が入れるドックもなければ、空を守る飛行機もいない。あそこにあるのは『大英帝国の威光』という名の看板だけです」
「看板か。結構なことだ」
アレグサンダーは、自嘲気味に笑った。
「だが、その看板も今や泥まみれだ。
見ろ、あのアメリカ人が日本人の炊き出しに並んでいる写真を。
我々が『頼れる同盟国』と信じていたアンクル・サムが、日本海軍の出した『パンくず』をありがたがって食っているんだぞ」
大臣は立ち上がり、窓の外、雨に煙るロンドンを見下ろした。
「そして聞いたか? あのウィンストン(チャーチル)の奴、最近は議会で『海軍の弱体化が心配だ』などと吼えているらしいぞ」
アレクサンダー大臣が言うと、マッデン提督から低い笑い声が漏れた。
「傑作です。蔵相時代に『10年ルール』とやらで海軍の骨を抜き、金本位制復帰でポンドを窒息させた張本人が、よく言える」
「全くだ。ドイツ海軍が攻めてくる前に、我々は日本の『帳簿』に撃沈されたよ」
⸻
時:同日
場所:東京・日本橋、日本銀行本店・臨時「外貨資産運用局」
世界が恐慌と財政破綻に喘ぐ中、ここだけは異様なほどの活気――否、殺気立った熱気に包まれていた。
アメリカ市場で日本海軍が吸い上げた数十億ドルもの資産。
これをどこに投資するか、その決定権を握る大蔵省や海軍省たちに対し、各国の外交官が長蛇の列を作っていた。
オランダ公使とオーストラリア通商代表は、焦燥しきっていた。
「頼む! 是清閣下に会わせてくれ!」
オランダ公使が、歩哨に縋り付く。
「本国はドイツの道連れで死にかけている! 植民地(蘭印)の石油とゴムを買ってくれるのは日本だけなんだ!」
オーストラリア代表も必死だった。
「羊毛だ! 小麦だ! 何でも安くする! ドル払いでなくていい、NCPC債でいいから買ってくれ!
イギリスはもう助けてくれないんだ!」
しかし奥の間から出てきた高橋是清の指示は、非情なものだった。
彼は部下の官僚に、大声でわざと聞こえるように命じていた。
「……オランダ? オーストラリア?
後回しだ、後回し!」
是清は、手元の「南米投資計画書」をバシバシと叩いた。
「我々のドルは貴重なんだ。まずは南米だ。チリの銅、ペルーの油、ブラジルの鉄!
これらは我々がオーナーになった資産だ。優先的に救済し、育てなきゃならん。
よそ様の植民地の面倒を見ている暇などないわ!」
それは「焦らし」だった。
今まで日本は、彼らに「資源を売ってくれ」と頭を下げていた。だから足元を見られ、禁輸措置に怯えていた。
だが今は逆だ。日本は「買ってもいいけど、他に優先順位があるからなぁ」とそっぽを向いている。
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時:同日
場所:ロンドン海軍軍縮会議・仏代表団控え室
その頃、フランス代表団だけは、余裕の表情でシャンパンを開けていた。
フランス外相ブリアンは、青ざめる英米の代表を尻目に、随員に囁いた。
「見たまえ。アングロサクソンの没落を。
我々は賢かった。日本という『昇る太陽』からいち早く『駆逐艦』という名の供物を捧げられ、南米行きの切符を切ってやったのだからな」
フランスは、日本を「同盟国」とは呼ばない。だが、自分たちの権益を守るための「最強の傭兵」として利用する位置にいた。
NCPC債のエコシステムに組み込まれたフランス領インドシナやニューカレドニアは、不況の中で唯一、日本向けの銅やニッケルの貿易で潤っていたのだ。
「今回の会議、我々がどうするか……わかっているな?
アメリカが騒げば騒ぐほど、日本の金と技術は、親日的な我々フランスに流れてくるのだからな」
世界の一等国たちの「世界観」は、完全に崩壊していた。
「白人倶楽部」の連帯は消え失せ、残ったのは「日本の財布」を巡る、浅ましい椅子取りゲームだけだった。
⸻
英国式ジョーク(公式メモに書かれていた落書き)
アドミラルティ内部メモの余白:
“Rule Britannia still applies.
We rule the waves.
Japan rules the invoices.”
(ブリタニアよ統べよ、波の上を。
なお請求書は日本が統べる)
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