老兵は死なず、ただスープを啜る
時:1929年(昭和四年)、年末
場所:ワシントンD.C. アナコスティア・フラッツ(貧民街)
その男は、凍てつくポトマック川のほとりに立ち、双眼鏡を握りしめていた。
ダグラス・マッカーサー。合衆国陸軍参謀総長。
本来なら、この国の防衛の頂点に立つ男だ。だが今、彼の背中は怒りと無力感で小さく震えていた。
彼の視線の先にあるのは、日本海軍が設置した巨大な給食テントだ。
そこには数千人の男たちが列をなしている。その多くが、古い軍服の切れ端を身に着けていた。
欧州大戦の復員兵たち――「ボーナス・アーミー」の予備軍だ。
「……閣下」
副官のアイゼンハワー少佐が、痛ましげに声をかけた。
「彼らは……我々の戦友です。彼らが、敵国であるはずの日本の施しを受けています」
「見れば分かる!」
マッカーサーは吐き捨てた。
彼が見ていたのは、単なる食事風景ではなかった。
「兵站の敗北」を見ていたのだ。
日本のテントからは、蒸気機関車のような勢いで白い湯気が上がっている。
巨大な圧力釜。ベルトコンベア式の配膳。清潔なステンレスの食器。
それは軍事基地の厨房そのものだった。彼らは「数千人を、1時間で、温かいまま満腹にする」というミッションを、軍事的な精密さで遂行している。
対して、アメリカ陸軍はどうだ?
傍らに立つアイゼンハワーが、憤懣やるかたない表情で進言した。
「将軍! なぜ我々には許可が下りないのですか! 倉庫にはまだ、大戦時の備蓄糧食(コンビーフと豆の缶詰)があります。野戦炊事車(M1917)を出せば、少なくとも温かいスープくらいは配れるはずです!」
マッカーサーは、哀れな部下を見る目で副官を見た。
「アイク。君はあの『M1917』で、何人食わせられると思っている?」
「はっ。1台で中隊(150人)規模かと……」
「そうだ。そして現在、このワシントンD.C.だけで何人の失業者が列を作っている?」
「……約10万人、です」
「計算してみろ。10万人を食わせるには、あのポンコツ炊事車が何台要る? 600台以上だ。そんな数は全米かき集めても存在せん。それに……」
マッカーサーは、窓枠を叩いた。
「あれは『薪ストーブ』だぞ、アイク。お湯を沸かすのに2時間はかかる代物だ。
対して日本はどうだ? GE製の業務用高圧ボイラーを、鉄道で持ち込んで設置している。一回で5000人分を作る工業プラントだ。
……薪を燃やすカウボーイと、工場長が喧嘩をして勝てるわけがないだろう!」
圧倒的な兵站能力の差。
日本海軍は「人道支援」という名目で、戦時さながらの、あるいはそれ以上の高効率な兵站を展開してみせた。
対する米軍は、平時の予算削減と孤立主義のおかげで、19世紀レベルの装備しか持っていない。
「……惨めだ」
マッカーサーは呻いた。
「我々には、彼らを食わせる法的な権限もなければ、予算もなく、機材すらない。
我々ができるのは、暴動が起きた時に、彼らに銃剣を向けることだけだ」
その時列の中にいた一人の老兵が、マッカーサーに気づいた。老兵は日本海軍のマークが入ったカップを掲げ、マッカーサーに向かって皮肉な敬礼をした。
「将軍! 日本のシチューは最高だぞ! あんたも並んだらどうだ?
ホワイトハウスの冷たい説教より、よっぽど腹にたまる!」
周囲の男たちがどっと笑った。
その笑い声は、アメリカ陸軍の威信を粉々に砕く音だった。
マッカーサーは、拳を固く握りしめた。
彼は知っていた。
兵士の忠誠心は、思想ではなく、胃袋にあることを。
今アメリカの退役軍人たちの忠誠心は、星条旗から旭日旗へと、スープの湯気と共に移ろいつつある。
「……アイク(アイゼンハワー)」
マッカーサーは、絞り出すように言った。
「この屈辱を忘れるな。
日本は、大砲を使わずに我々を制圧した。
彼らは『補給』という武器で、我々の兵士を奪い取ったのだ」
彼は背を向けた。
これ以上、その光景を見ていられなかった。
アメリカ陸軍は、自国の首都において、兵站戦で完敗したのである。
⸻
時:同日
場所:ノーフォーク海軍基地、下士官食堂
その日の夕食のメニューは、いつもの通りだった。
塩漬け肉と豆の煮込み。色は灰色で、味は塩と鉄の味しかしない。パンは昨日焼いたもので、少し硬くなっている。
これを兵士たちは愛情と侮蔑を込めて「シングル(こけら板)の上の泥」と呼んでいた。
食堂の隅で、上等兵曹のマイクがスプーンを置いて溜息をついた。
「……おい、聞いたか。昨日の『日本テント』のメニュー」
向かいに座る若い水兵が、周囲をはばかるように声を潜めて答える。
「ええ。非番の奴が行ってきたそうです。……ビーフシチューだったとか」
「ただのシチューじゃねえぞ。肉だ。角切りの、新鮮な牛肉が、一人前5オンス(約150g)も入ってたらしい」
食堂に重苦しい沈黙が落ちた。
5オンスの牛肉。それは彼ら合衆国海軍の兵士ですら、感謝祭の時くらいしかお目にかかれない代物だ。
それを日本の海軍は、失業者や浮浪者に毎日配っているという。
「……デザートは?」マイクが聞いた。
「カリフォルニア産のドライプルーン。それに、ブラジル産の挽きたてコーヒー」
彼らは知る由もなかったが、それらは日系人の農園から優先的に購入されたものだった。
「……畜生」
マイクは、自分のカップに入っている薄いコーヒー(と呼ぶのもおこがましい黒いお湯)を睨みつけた。
予算削減のあおりで、基地のコーヒー豆は質の悪いロブスタ種に切り替えられ、さらに量を減らすためにチコリが混ぜられていた。
「なあ、おい」マイクが呻くように言った。
「俺たちが守ってるこの国の政府は、俺たちにこんな泥水を飲ませてる。
だが、俺たちが『仮想敵』と教わってきた日本の海軍は、俺たちの家族に極上のコーヒーと肉を食わせてる。
……これ、どっちが『正義の味方』なんだ?」
誰も答えられなかった。
ただスプーンが皿に当たるカチカチという乾いた音だけが、食堂に響いていた。
⸻
時:同日 夜
場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部将校クラブ
ここでもまた、別の種類の沈黙が支配していた。
高級なブランデーグラスを傾ける将校たちの話題は、もっぱら一人の男のことだった。
「……トーゴー。東郷一成か」
中年の大佐が、氷を揺らしながら言った。
「アナポリスの08年組だそうだ。ターナーやミッチャーと同期、スプルーアンスの少し下だな」
「あそこで、彼は何を学んだんだ?」別の少佐が首をかしげた。
「我々の兵站学の教科書に、『敵国の首都で炊き出しをして、敵の兵士の戦意をくじけ』なんて書いてあったか?」
「書いてないさ」大佐は自嘲気味に笑った。
「だが、マハン提督は言ったはずだ。『海軍力とは、通商と補給の支配である』と。
……奴はそれを、文字通り実行しているだけだ。
奴は大砲の弾を一発も使わずに、このワシントンという都市の『補給』を支配してしまった」
大佐は窓の外を見た。遠くに、日本大使館の方向が見える。
「……悔しいが、認めざるを得ん。
奴は我々が教えたことを、我々以上に理解し、そして我々に対して使っている。
……アナポリスは、とんでもない怪物を育ててしまったようだな」
ラジオからは、フーヴァー大統領の演説が流れている。
『国民諸君、忍耐を持て。繁栄はすぐそこにある……』
誰かが、無言でラジオのスイッチを切った。
⸻
時:1929年(昭和四年)、年末
場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部長室
その部屋の暖房は切られたままだが、海軍作戦部長チャールズ・ヒューズ大将の怒りの炎だけで、室温が数度は上がっているように感じられた。
彼の目の前には、補給局長と法務総監(JAG)が、まるで処刑台に立つ囚人のように青ざめて立っている。
「できない、だと?」
ヒューズの低く唸るような声が響く。
「タイムズスクエアでは、日本海軍が肉入りのシチューを配り、市民が『神様、トーゴー様』と拝んでいる。一方我ら合衆国海軍は、財務省から予算が下りないから指をくわえて見ているだけか?
備蓄はあるだろう! 非常用レーション(缶詰)だ!
あれを倉庫から出し、広場で配るのに、何の手続きがいる! トラックを出せ! 釜を炊け!」
補給局長が、泣きそうな顔で口を開いた。
「提督。……トラックが、ありません」
「は?」
「我々の陸上輸送は、平時は民間委託が基本です。しかし契約していた運送会社が、昨今の恐慌で連鎖倒産しました。
生き残っているトラックも、ガソリン代の未払いで動きません。
海軍が保有している車両は港湾内での荷役用のみで、とても市街地への大量輸送は不可能です」
ヒューズは絶句した。
「……馬は? 騎兵隊はどうだ?」
「陸軍省に問い合わせましたが……彼らも同様です。
さらに、水がありません。我々に水タンク車はほとんどなく、冬の寒さで現地の水道が凍結した場合、我々はスープを作るための「水」すら確保できません。
一方、日本海軍はNCPC債で抑えた鉄道タンク車を使えます」
カネがない、モノがない、運ぶ手段がない。
世界最強の艦隊を持っているはずの国が、自国の首都でスープ一杯運べない。これが常備軍を敵視し、兵站を民間任せにしてきた「民主主義国」の末路だった。
「……法務総監! 貴様の出番だ!」
ヒューズは矛先を変えた。
「法的根拠なら何とでもなるだろう!『治安維持』だ! 暴動鎮圧の名目で軍を出動させ、ついでに飯を配ればいい!」
法務総監は、苦渋に満ちた顔で首を横に振った。
「それが最大の地雷です、提督」
彼は六法全書を開いた。
「1878年制定、ポッセ・コミタトゥス法(民警団法・Posse Comitatus Act)。
連邦軍が国内の法執行・治安維持に関与することを厳格に禁じています。例外は、州知事の要請による反乱鎮圧のみ」
「……だから、その反乱が起きそうだと言っているんだ!」
「ですが、まだ起きていません。
もし今、空腹の市民の前に武装した(帯剣した)海兵隊が現れ、整列を命じたらどうなるか。
市民は『飯を配りに来た』とは思いません。『弾圧しに来た』と思います。
新聞は書き立てるでしょう。『フーヴァー政権、ついに軍事独裁へ』と」
法務総監は、窓の外の日本大使館を指差した。
「……一方、彼ら日本海軍は違います。
彼らは軍隊ですが、ここでは『外国からの親切な客人』であり『民間ボランティア』という法的位置付けです。
ポッセ・コミタトゥス法は外国軍には適用されません。
彼らは軍服を着ていても、武器を持たず、ただ笑顔でスープを配る。だから市民は警戒しない。
皮肉なことに……『アメリカの法律』は、アメリカ軍を縛り、日本軍を自由にしているのです」
ヒューズは、力なく椅子に崩れ落ちた。
ロジスティクスで負け、法律で負けた。
窓の外、ポトマック川の向こうでは、今日も日本海軍の炊き出しの湯気が、勝鬨のように白く上がっていた。
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