ダイヤの鬼
時:1929年(昭和四年)、11月
場所:東京・丸の内、鉄道省・大臣官房
鉄道省の廊下は、どこか煤けた石炭の匂いがした。
その廊下を、商工省の若きエース・岸信介は、まるで自らの庭のように大股で歩いていた。彼の足音には、迷いというものが一切なかった。
彼が目指すのは、大臣室ではない。
九州の門司鉄道管理局から、本省への報告のために急遽呼び出されていた一人の男の元だった。
「……よう、栄作。元気にやっていたか」
会議室の扉を開けた岸の声に、書類を整理していた男が顔を上げた。
佐藤栄作。当時28歳。
兄の信介と比べると線は太く、瞳には温厚な光を宿しているが、その実務能力の高さと、ダイヤグラムを読み解く眼力は省内でも知らぬ者はいなかった。
「兄貴……いや、工務課長。いきなり呼び出して何の用だ。僕は明日の夜行で門司へ帰らなきゃならんのだが」
「帰る必要はない」
岸は、鞄から一枚の辞令書(案)をテーブルに放り投げた。
「門司の石炭運びは終わりだ。……お前には、もっとデカい荷物を運んでもらう」
佐藤は辞令案に目を落とし、絶句した。
『対米 大陸資源輸送基盤調査団・鉄道班長』
「……アメリカ? 調査団だと? 鉄道省にそんな予算はないぞ」
「金ならある。海軍が出す」
岸はニヤリと笑った。
「長兄(佐藤市郎)からの推薦だ。『東郷がアメリカの鉄道の優先権を買い占めたのはいいが、広すぎて捌ききれん。現地の鉄道会社も混乱している。……誰か、ダイヤが読めて、喧嘩ができて、アメリカの鉄道マンを顎で使える“現場のプロ”はいないか』とな」
岸は、アメリカの鉄道地図を広げた。
シカゴ、セントルイス、ニューヨーク。網の目のように走る鉄路。
「栄作。お前の仕事は、この大陸全土に散らばる500箇所の給食所へ、毎日遅滞なく肉と野菜を届けることだ。
そして帰りの便で、買い叩いた工作機械や技術者を、西海岸の港へピストン輸送する。
……ペンシルベニア鉄道もユニオン・パシフィックも、今や日本の『下請け』だ。お前が指揮棒を振れ」
そして岸は、決定的な一言を放った。
「満鉄(南満州鉄道)へ行くはずだった若手技師たちも、半分こっちへ回すことにした」
「なっ……!?」
佐藤は目を見開いた。満鉄といえば、鉄道官僚にとってのエリートコース、約束された出世街道だ。
「満州はもういい。あそこは既得権益の掃き溜めだ」
岸は冷酷に切り捨てた。
「これからは、太平洋だ。アメリカ大陸の鉄道網を、日本人が診断し、修理し、管理する。
……栄作、想像してみろ。お前が指揮する列車が、アメリカの物量を満載して港へ走り、それが日本の船に乗って、俺たちが整備した工場へ届く。
世界を回す『大動脈』を、俺たち兄弟で作るんだ」
佐藤栄作は、兄の顔をじっと見つめた。
狂気じみた構想だ。だが、不思議と血が騒ぐのを抑えられなかった。
門司の石炭輸送で培った「現場の論理」が、世界という舞台で試される。
佐藤栄作の目が、みるみるうちに少年のように輝いた。
鉄道官僚にとって、アメリカの巨大鉄道網を自由に動かせるなど、夢のような話だ。
門司の石炭車とはわけが違う。大陸横断鉄道だ。
「……兄貴。これ、本当に好きにやっていいのか?」
「ああ。東郷大佐の言葉だ。『効率のためなら、ドルは幾ら使っても構わん。渋滞させるな』とな」
「……行くよ」
栄作は、辞令を握りしめた。
「行ってやるさ。ヤンキーの駅長どもに、日本の鉄道屋の“整列乗車”の精神を叩き込んでやる」
⸻
時:1929年(昭和四年)、12月
場所:シカゴ、ユニオン駅・運行管理室
シカゴの冬は凍てついていたが、ユニオン駅の運行管理室は怒号と蒸気で沸騰していた。
ペンシルベニア鉄道、ニューヨーク・セントラル鉄道、ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道……。アメリカを代表する鉄道会社の運行部長たちが、一つの巨大なダイヤグラムを囲んで言い争っていた。
「無理だ! 西からの貨物が多すぎる! 操車場がパンクするぞ!」
「ニューヨーク行きの冷蔵車が足りない! どこかから融通しろ!」
「金がないんだよ! 整備員をクビにしたせいで、機関車が動かないんだ!」
現場は大混乱だった。日本海軍の資金で物流は動いていたが、それを受け止めるアメリカ側の「現場力」が崩壊していたのだ。
そこへ、一人の日本人が入ってきた。
佐藤栄作である。彼はまだ20代の若造だったが、その背後には「日本海軍の資金」という絶対的な権威があった。
「……Gentlemen(紳士諸君)」
栄作は、英語で静かに声をかけた。
「喧嘩をしている暇があるなら、ポイントを切り替えたまえ」
巨漢の運行部長が睨みつける。
「なんだお前は! ここはガキの来る場所じゃねえ!」
「私は、この貨物の『荷主』の代理人だ」
栄作は東郷一成の署名が入った委任状と、NCPC債の束をデスクに叩きつけた。
「君たちが『金がない』と言うから、整備費と残業代を持ってきてやった。今すぐ人員を呼び戻せ。操車場のポイントマンを倍にしろ」
現金の束を見て、アメリカ人たちの目の色が変わった。
栄作は懐からチョークを取り出し、壁のダイヤグラムに修正線を書き入れ始めた。その手つきは魔法のように素早く、正確だった。
「14番線の出発を15分遅らせろ。そうすれば、デトロイト発の急行を通過待ちさせずに通せる。
セントルイスの積込は夜間に回せ。その分の深夜手当は我々が出す。
冷蔵車は空で戻すな。ピッツバーグで我々が買い付けた鉄鋼を積んで西へ戻せ」
運行部長たちは、ポカンと口を開けた。
この若き東洋人は、複雑怪奇なシカゴの路線網を、頭の中だけで完全に把握していた。
門司の鉄道局で秒刻みの石炭輸送を捌いてきた「現場の鬼」にとって、アメリカのルーズな運行管理など、子供の遊びに見えたのだ。
数時間後。
シカゴ・ユニオン駅の混乱は嘘のように収束し、貨物列車が正確な間隔で東へ、西へと走り出した。
「いいか、よく聞け!
この荷物は、腹を空かせたあんたの同胞の口に入るんだ! 1分の遅れが、スープの冷め具合に関わる!
そしてこっちの機械は、あんたの従兄弟が日本で働くための道具だ!
……プロなら意地を見せろ! 俺が責任を持つ!」
その気迫。そして何より、彼が再編したダイヤ通りに列車がスムーズに動き出したのを見て、アメリカの荒くれ鉄道マンたちは帽子を脱いだ。
「……イエス・サー! あんたがボスだ!」
指令室に、活気が戻る。
栄作は額の汗を拭い、満足げに笑った。
楽しい。死ぬほど楽しい。
世界最大の鉄道網が、自分の指先一つで生き物のように脈打ち、血液(物資)を循環させていく。
(……兄貴、東郷大佐。アメリカは凄い国だが、動かし方を知らんようだ。
俺たちがハンドルを握れば、この国はもっと効率よく回るぞ)
窓の外、雪の中を「錨と桜」のマークをつけた貨物列車が、長い汽笛を鳴らして出発していく。
その背中を見送りながら、後の内閣総理大臣は、充実感に満ちた顔で冷めたコーヒーを啜った。
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時:1929年(昭和四年)、12月
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス、イエロールーム
その部屋は、普段は大統領が賓客をもてなす華やかな場所だった。だが今そこに漂っているのは、通夜のような静けさと、焦げ付いたコーヒーの匂いだけだった。
ハーバート・フーヴァー大統領の対面には、アメリカの「鉄の動脈」を支配する男、ペンシルベニア鉄道社長のウィリアム・アタベリーが座っていた。
彼は不機嫌そうに葉巻をいじりながら、大統領の懇願を聞き流していた。
「……ですから、アタベリーさん。国家の緊急事態なのです。
シカゴから東海岸へ、政府備蓄の小麦と缶詰を運びたい。貨車を回してくれませんか。政府が保証します」
フーヴァーの言葉に、アタベリーは鼻で笑った。
「大統領。失礼ですが、『保証』とは何ですか?
議会の承認もない口約束ですか? それとも、いまにもデフォルトしそうな国債ですか?」
「……財務省証券(T-Bill)で支払います」
「結構」
アタベリーは冷たく切り捨てた。
「ですが、物理的に無理です。貨車がありません」
同席していたスティムソン国務長官が色めき立った。
「そんなはずはない! 不況で貨物輸送量は激減しているはずだ! 車両基地には遊んでいる貨車が山ほどあるだろう!」
「ええ、ありますよ。錆びついた無蓋車ならね」
アタベリーは、鞄から一枚の運行ダイヤグラムを取り出し、テーブルに広げた。
「ですが、あなた方が運びたいのは食料でしょう?
今の季節、北東部へ食料を運ぶには『冷蔵車(Reefer)』と、定温管理された『有蓋車』が必要です。
……見てください。この赤いラインを」
ダイヤグラムの上には、シカゴ、セントルイス、デトロイトから、ニューヨーク、ワシントン、ボストンへ向かう主要幹線の全てに、太い赤線が引かれていた。
「この赤線は、全て『予約済み』です。向こう三ヶ月間、冷蔵車と高速貨物列車のスロットは、100%埋まっています」
「誰が……誰がそんなに予約したんだ!」
アタベリーは、一枚の契約書の写しを提示した。
そこには、見慣れた錨と桜のマーク。そして、支払条件の欄にはこう記されていた。
『代金全額、NCPC債(非課税・即時決済)にて前払い済み』
「……日本海軍です」
アタベリーは淡々と言った。
「彼らはすでに、主要路線の冷蔵車を全てチャーターしました。
しかも、燃料(石炭・重油)も彼らが現物支給してくれています。
……大統領、正直に言いましょう。今、ウチの会社が倒産せずに走っていられるのは、日本海軍のおかげなんです」
フーヴァーは絶句した。
アメリカの鉄道会社が、アメリカ政府の依頼を断り、日本海軍の荷物を運んでいる。
なぜなら政府は貧乏神だが、日本海軍は神様(現金払い)だからだ。
「……命令だ」
スティムソンが、震える声で言った。
「大統領令を出す。国家非常事態だ。鉄道を徴用する!」
その瞬間、アタベリーの目が氷のように冷たくなった。
「やってご覧なさい」
彼は葉巻をテーブルに叩きつけた。
「今、鉄道会社はどこも瀕死です。日本との契約を破棄させられれば、違約金と逸失利益で我々は即座に連鎖倒産します。
鉄道が止まれば、食料だけでなく、石炭も、郵便も、全て止まる。
東海岸は一週間で凍え死にますよ。
……日本の炊き出しを邪魔するために、自国のインフラを自爆させるおつもりですか?」
スティムソンは口をパクパクとさせ、やがて力なく椅子に崩れ落ちた。
できない。
戦時でもないのに私企業の資産を接収する法的根拠(1917年鉄道管理法は失効している)がない。
何より鉄道会社を敵に回せば、物流が死んで国民が死ぬ。
「……それに」
アタベリーは、帰り支度をしながら言った。
「私の部下が現場で見てきた話をしましょうか。
日本の輸送部隊……彼らのロジスティクスは、芸術的ですよ。
貨車の積み下ろし、倉庫の手配、末端への配給。全てが分単位で管理されている。
誰だか知りませんが、プロ中のプロが指揮している。
……仮に我々が貨車を空けたとして、今の政府に、あれだけの物流を捌ける人間がいますか?
役人が書類を作っている間に、ジャガイモは腐りますよ」
ドアが閉まる音が、重く響いた。
ホワイトハウスに残されたのは、世界最強の権力者であるはずの男たちと、どうしようもない無力感だけだった。
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