自助努力と横取り
時:1929年(昭和四年)、12月
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス、オーバルオフィス
真冬のホワイトハウスは、クリスマスの浮ついたムードなど微塵もなかった。
フーヴァー大統領は朝食のコーヒーを喉に通すことさえできず、ただ目の前に広げられた報告書の束を睨みつけていた。
その報告書の表紙には、皮肉なことに真っ赤なインクでこう書かれていた。
『日本帝国海軍による全米一斉給食活動・実施状況および影響調査』
同席していた財務長官アンドリュー・メロンの顔色は、もはや土気色を通り越して灰白色だった。彼は震える手で、試算表を指さした。
「……大統領。これは異常です」
メロンの声はかすれきっていた。
「日本海軍が昨日一日で配った食事の数、推定500万食。一人当たりのコスト、約24セント。単純計算で一日120万ドル。……月間にならせば、輸送費や人件費を含めて5,000万ドルを超えます」
フーヴァーは呻いた。
「月間5,000万ドルだと?
それは、我が国がミシシッピ川の治水工事に充てる年間予算に匹敵する額だぞ! それを奴らは、たった一ヶ月で、ただのスープに変えてばら撒いていると言うのか!?」
「はい。しかも、その資金の出所は……」
メロンは言葉を詰まらせた。
「……言わなくても分かる」フーヴァーは、吐き捨てるように言った。
「我々の銀行から吸い上げたドルだ。我々の国民が、パニックになって奴らに預けた金だ。
奴らは我々の金で我々の国民を養い、そして『日本海軍のおかげだ』と恩を売っているのだ!」
国務長官スティムソンが、苦渋に満ちた声で報告を加えた。
「問題は金だけではありません。世論です。
昨夜のニューヨーク・タイムズの社説を見ましたか?
『ホワイトハウスのディナーには何が出たのか? キャビアか? シャンパンか? 一方で、タイムズスクエアの失業者が食べたのは、異国の軍人がくれた温かいシチューだった』と書かれています。
……国民は、政府が自分たちを見捨てたと感じています」
その時、同席していた海軍作戦部長ヒューズ大将が、堪り兼ねたように机を叩いた。
「大統領! このまま黙って見ているのですか!
これは軍事侵略よりもタチが悪い『精神的侵略』です! 米海軍のメンツは丸つぶれだ! 水兵たちまでが『日本の飯の方がうまいらしい』と噂している始末です!
我々もやりましょう! 対抗して、合衆国海軍の名で炊き出しを行うのです! 備蓄食料や燃料を放出してでも、国民の胃袋を取り戻さねばなりません!」
ヒューズの提案は、軍人としての誇りからの叫びだった。
だがその叫びに対し、メロン財務長官は氷のように冷たい視線を向けた。
「……ヒューズ提督。君は算数ができないのかね?」
「な、なんだと?」
「君のところの予算は、すでに底が見えているはずだ。給料の遅配すら覚悟せねばならん。
その状況で、どこに食料や燃料を買う金がある? 備蓄放出? それを放出したら、艦隊の航海はどうするのだ?」
「くっ……!」
ヒューズは絶句し、顔を真っ赤にして押し黙った。
フーヴァー大統領は、頭を抱えていた。
金の問題だけではない。彼を縛り付けているのは、彼自身が掲げてきた「理念」だった。
「……それに私が炊き出しを命じれば、私の政治生命は終わる」
フーヴァーは、独り言のように呟いた。
「私は選挙で『自助努力(Rugged Individualism)』を公約した。
連邦政府が個人に施しをすれば、アメリカ人の独立心が失われると説いてきたのだ。
もし今、政府がスープを配れば……私は自分の信念を曲げたことになる。
『アメリカの資本主義は失敗し、社会主義的な配給に頼らざるを得なくなった』と、自ら認めることになるのだ……!」
八方塞がりだった。
何もしなければ、日本に心を奪われる。
何かをしようとすれば、金がなく、質で負け、さらに自らの理念を裏切ることになる。
スティムソンが、重苦しい沈黙を破った。
「……大統領。一つだけ、方法があります」
「何だ?」
「……金がない、メンツは守りたい。だがパンを配らなければ革命が起きる」
スティムソンが、濁った瞳に奇妙な光を宿した。
「ならば閣下。『横取り』しかありませんな」
「……何だと?」
スティムソンが提案したのは、合衆国の法律という武器を最大限に歪めた、あまりにも惨めで、かつ狡猾な「合法的横取り」作戦であった。
「救済事業認可料」の徴収:
「外国軍が公然と炊き出しを行うのは衛生・治安上のリスクである」と強弁。これを許可する見返りに、日本海軍から「公衆衛生維持管理費」という名目で、多額の現金を『徴収』する。
SIDA(戦略的産業防衛法)の超解釈:
日本海軍が保有するGEやUSスチールなどのドル建て株式配当金を、「非常事態」を理由に政府が管理(実質的な没収)する。その金を政府の「救済基金」に流用する。
「連邦緊急救済労働税」の制定:
日本海軍に時給5ドルで雇われているアメリカ人(元失業者)に対し、50%の「緊急所得税」を課す。彼らが日本海軍から得た「ドル(給料)」の半分を政府がむしり取り、それを原資に政府自らパンを焼く。
「つまり……」フーヴァーがゴクリと唾を呑み込んだ。
「日本海軍の財布から抜いたカネを、星条旗を印刷した袋に入れて、我々の功績として配り直すというわけか?」
「左様です」スティムソンは誇らしげに胸を張った。「これならば、わが国の財政は潤い、メンツも保たれ、国民は再びホワイトハウスに感謝するでしょう。……泥棒を救世主に書き換える、最高のエクササイズです」
⸻
時:同日 夕刻
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官室
東郷一成の机の上には、国務省の役人が届けに来たばかりの『特別徴収命令書』が置かれていた。
その内容――炊き出し費用の3割没収、企業配当の強制差し押さえ、日本人を頼る労働者への50%課税。
読み上げる副官・伊藤整一の声は、怒りで今にも爆発しそうだった。
「……大佐。これは……これほど恥知らずな要求は見たことがありません! まさしく白昼堂々の身代金要求です。我々がアメリカ人を助けている端から、その救済資金を半分横取りして自分たちの手柄にしようなどと! 断固抗議すべきです」
「いいや、伊藤君」
東郷は静かに緑茶を啜った。その表情には雪のように冷ややかで、同時に奇妙な満足感が漂っていた。
「……これぞ、私の待っていた『最高の敗北宣言』だよ」
「え?」
「いいかね、伊藤君。一国の政府が、自国民を守るためのパンを一欠片も用意できず、隣人のポケットをまさぐらなければ体裁を保てなくなった。……これは政治的な破産宣告だ。我々は抗議などしない。むしろ、喜んで彼らの望む通りのカネを払ってあげよう」
東郷は書類の末尾に、さらさらと流麗な英語で一文を書き加えた。
「ただし、伊藤君。一つだけ条件を……。いや、日本海軍からの『要請』だ。これだけの巨額の寄付を行うのだから、公正な出資者として『使途の透明性』を求めなければならない」
⸻
時:数日後
場所:ワシントンD.C. フーヴァー救済キャンプ第1号店
アメリカ政府自慢の救済施設が、歓喜のニュースと共にオープンした。国民は「さすがはアメリカ、ようやく我々を守ってくれた!」と叫び、政府が配る「アメリカのパン」を奪い合った。
だが、市民がパンを口にしようとしたその瞬間。袋の裏側に印刷された、「法令により記載を義務付けられた」という名目の注釈文を見て、全員の顔が凍りついた。
『本給食品の原材料費、および施設の運営費は、日本帝国海軍から徴収された「救済認可料」および「配当一時管理金」より支出されています』
さらに日本海軍から雇い止めにならないよう、50%もの重税を政府に納めている作業員たちの手渡しされる日給の給料袋には、ご丁寧にもくっきりとこう記されていた。
『給与支給総額:6ドル』
『内、米国政府緊急控除:3ドル』
『差引支給額:3ドル』
『摘要:本控除分は、政府による救済パンの材料代として徴収されました』
――東郷のカウンターは、極めてシンプルで致命的なものだった。
アメリカ政府にカネを払う。その代わりに、「そのカネがどこから来たか」を1セント単位で全て国民に見せびらかしたのだ。
「……お母さん、見て。政府がくれたパン、日本の提督から取り上げたものなんだね。……で、僕らがお仕事したお給料の半分、政府に盗られちゃったんだね」
救済キャンプの前に座る子供の、純粋無垢な一言。
その横では、昨日までフーヴァーに感謝していた労働者たちが、星条旗を地面に叩きつけて叫んでいた。
「ふざけるな! 俺たちを飢えさせた上に、救済に来た日本人のカネをカツアゲして自分たちの手柄にしてやがったのか! その上前をはねたパンを、どんなツラをして俺たちに渡してやがるんだ!」
この「情報の透明化」こそが、東郷がアメリカという民主国家に打ち込んだ、猛毒の釘であった。
政府が嘘を吐く能力。国民が政府を信頼する能力。そして、国家としての誇り。それら全てが、政府自身の作成した「正直な収支明細」によって、原子レベルまで粉々に砕け散ろうとしていた。
東郷は大使館の窓から、燃え盛るような民衆の怒りの炎を眺めていた。
「……カネはくれてやったが」
東郷は隣に立つ小百合に向かって囁いた。
「どうやら彼らは、もっと高価なものを自ら失ったようだな」
伊藤は、感服したように頷いた。
「アメリカが対抗して炊き出しを始めるかと思いましたが……それすら封じられていたとは」
「彼らが対抗策を出せない理由はもう一つある」
東郷は、一枚の鉄道貨物運行表を指さした。
「物流だ。
我々はNCPC債の信用力を使って、シカゴから東海岸への鉄道貨物の優先利用権を、向こう数ヶ月分、すでに抑えてある。
もしアメリカ政府が今から食料を手配しようとしても、それを運ぶ貨車がないのだよ」
「……兵站の勝利、でありますか」
「そうだ。戦争とは、戦場だけで起きるものではない」
東郷は、空になったカップを置いた。
「アメリカ政府は今、自国の首都で、自国民に対する補給線を、外国軍に断たれている状態だ。
……これ以上の『敗北』があるかね?」
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