ベティ 後編
本日午前の外伝風前編の続きとなります。
時:1929年12月24日、午後4時
場所:シカゴ・サウスサイド 叔母のアパートの屋根裏
シカゴの風は、人の心を折るために吹いている。
ミシガン湖から吹き付ける湿った冷気は、薄いレンガの壁を通り抜け、新聞紙を詰めただけの隙間風防止をあざ笑うように侵入してくる。
ベティは曇った鏡の前で、自分の唇にルージュを引こうとして、手が震えて止まった。
ルージュはもう残り数ミリしかない。これを使い切ったら、二度と買えない。
鏡の中の自分を見る。
半年前に学校の廊下を支配していた「クイーン・ベティ」は、もうそこにはいなかった。
頬はこけ、自慢だったブロンドの髪は艶を失い、瞳には老人のような諦めが宿っている。
「……バカみたい」
ベティはルージュを置いた。
クリスマスイブ。去年の今頃は、パパが七面鳥を切り分け、隣の家のRCAのラジオからは、ビング・クロスビーの歌が流れていた。
あたしは新しいレーヨンのドレスを着て、ボーイフレンドからの電話を待っていた。
今はどうだ。
パパは部屋の隅で毛布にくるまり、何時間も動かない。
製鉄所をクビになった日、彼は「すぐに景気は戻る」と言った。
ラジオを持っていかれた日、彼は「あんなもの、また買えばいい」と言った。
アパートを追い出された日、彼は何も言わなくなった。
ママは……ママは今、叔母さんの家の台所で、豆を煮ている。
ただの豆だ。塩味だけの。肉なんて、もう一ヶ月も見ていない。
お腹が鳴った。
下品な音。でも、それが今のあたしの現実だ。
プライド? そんなものでお腹は膨れない。
「ベティ」
弟のトミーが、青白い顔で寄ってきた。7歳になる彼は、この冬でめっきり小さくなってしまった気がする。
「……お腹すいたよ」
「我慢なさい」
ベティは反射的にきつい口調で言ったが、すぐに弟の冷たい手を握りしめた。
「……ごめんね。ママが豆スープを作ってくれるから」
「豆はいやだ! お肉が食べたい! ハンバーグがいい!」
トミーが泣き出した。その声が、静まり返った屋根裏に響く。
パパが、毛布の中で小さく呻いた。
その背中は、かつてあたしを高い高いしてくれた強い父親のものではなかった。
国に、会社に、銀行に、全てを奪われた抜け殻だった。
ベティは立ち上がった。
もう限界だ。
このままじゃ、トミーもパパも、この冬を越せない。
「……出かけてくるわ」
「どこへ?」ママが驚いて振り返る。
「どこでもいい。……何か、食べ物を探してくる」
ベティは、底の磨り減ったハイヒールを履いた。
かつてダンスホールでステップを踏んだ硝子の靴は今、凍った泥道を歩くための足枷でしかなかった。
外は地獄だった。
ホワイト・クリスマスの雪は、ロマンチックな飾りじゃない。貧乏人を殺すための白い死神だ。
通りにはあたしと同じような「元・中流階級」の人々が、亡霊のように彷徨っていた。
教会の配給所はすでに長蛇の列で、「本日は終了」の看板が無情に揺れている。
寒さで足の感覚がなくなってきた頃、風に乗って奇妙な匂いが漂ってきた。
それは記憶の奥底にある、幸せな時代の匂い。
焼いた肉の脂。煮込んだ野菜の甘み。そして、香ばしいコーヒー。
(幻覚かしら……)
ベティは匂いに引かれるように、角を曲がった。
そこには、異様な光景があった。
広場に、巨大なプレハブの建物が建っていた。
ボロボロのテントじゃない。ピカピカの鋼鉄でできた、要塞のような建物だ。
窓からは、真昼のように明るい光が漏れている。
そして、入り口には見たこともない旗が掲げられていた。
赤い太陽から、光が放射状に伸びる旗。
その下には、英語でこう書かれている。
『Imperial Japanese Navy Relief Kitchen No.105 (Chicago)』
(大日本帝国海軍・第105救済給食所・シカゴ)
「……ジャップ?」
ベティは足を止めた。
パパが酔っ払ってよく言っていた。「黄色い猿どもが、俺たちの仕事を奪ったんだ」と。
新聞でも読んだ。日本は敵だ。アメリカの経済を乗っ取ろうとしている悪魔だ。
でも、その「悪魔」の城からは、天国のような匂いがしている。
入り口には、長い行列ができていた。
でも、いつもの配給所の行列とは違う。
みんな、静かだ。そして建物から出てくる人たちは、手になにか温かそうなものを持って、泣きながら、あるいは呆然としながら歩いている。
「お姉ちゃん……いい匂いがする」
いつの間にかついてきたトミーが、あたしのコートの裾を掴んでいた。
ベティは葛藤した。
ここに入れば、パパを裏切ることになる。アメリカを裏切ることになる。
あたしは誇り高いクイーン・ベティだ。敵の施しなんて……。
グゥゥ……。
トミーのお腹が、悲鳴を上げた。
ベティは歯を食いしばった。誇り? そんなものはあの家に置いてきた。
「……並ぶわよ、トミー」
建物の中は、別世界だった。
暖かい。信じられないほど暖かい。
天井には最新式の電気ヒーター(GE製)が何台も吊るされ、オレンジ色の光と熱を降り注いでいる。
この不況で電気代が払えず、真っ暗な家ばかりのシカゴで、ここだけが電力を湯水のように使っている。
列が進む。
配膳係をしているのは、日本人の将校……ではなく、恰幅のいい白人のおじさん・おばさんたちだった。
彼女たちもまた、日本に雇われた地元の人々なのだろう。清潔なエプロンを着て、キビキビと動いている。
「はい、メリークリスマス。おチビちゃん、たくさんお食べ」
トミーの手に、大きなボウルが渡された。
そしてあたしにも。
手渡された瞬間、その重みと熱さに、涙が出そうになった。
あたしたちは、長テーブルの隅に座った。
ボウルの中身を見る。
茶色く濁った薄いスープじゃない。
ゴロリとした牛肉の塊。人参。ジャガイモ。それが、濃厚なブラウンソースの中で輝いている。
パンは、黒くて硬いライ麦パンじゃない。白くてふわふわの、焼きたてのロールパンだ。
「……お肉だ!」
トミーがスプーンを突っ込み、夢中で口に運ぶ。
「熱い! でもおいしい! お姉ちゃん、これ本物のお肉だよ!」
ベティもスプーンを口に運んだ。
舌の上で、肉が解ける。脂の甘みが、乾ききった体に染み渡る。
「……おいしい」
言葉が出なかった。
悔しいけれど、おいしい。
パパが稼いでいた頃に食べた、どのレストランのシチューよりも、深くて豊かな味がする。
ふと、隣の席の老人たちが話しているのが聞こえた。
「聞いたか? この肉、日本の商社が買い叩いたシカゴ市場の在庫品らしいぞ」
「この建物もそうだ。USスチールの売れ残りだ。……皮肉なもんだな。俺たちが作って、売れなくてクビになった製品に、こうして助けられるとは」
ベティは、飲み物はコーヒーだと思ってカップに口をつけた。
違った。
甘い。温かい。
ホット・チョコレートだ。それも、粉っぽいやつじゃない。ミルクと砂糖がたっぷり入った、贅沢な味。
カップを置くと、その底に青いマークが見えた。そこには青いインクで、錨と桜のマークと、英語のメッセージが刻まれていた。
『With Honor and Duty(名誉と任務と共に)
Imperial Japanese Navy』
『錨と桜』。
パパが「悪魔の刻印」と呼んだマーク。
ベティはそのマークを見つめながら、不思議な感覚に襲われた。
フーヴァー大統領は、「我慢しろ」と言った。
パパの会社の社長は、「すまない」と言って首を切った。
銀行は、「金がないなら出て行け」と言った。
でもこの「敵」は、何も言わずに温かい食事と場所をくれた。
視線を上げると、配膳所の奥に一人だけ日本人の姿があった。
海軍の士官服を着た、背筋の伸びた男。
彼は腕を組み、貧しいアメリカ人たちが貪るように食事をする光景を、無表情に見下ろしていた。
ベティは知らなかった。このスープ一杯のコストが、巡り巡ってアメリカの軍事予算を削り取り、日本海軍の懐を温めていることを。
だが、そんなことはどうでもよかった。
今この瞬間、彼女と家族を救ってくれたのは、星条旗ではなく、旭日旗だった。
その事実だけが、あたしらの心に焼き付いていた。
外に出ると、雪はまだ降り続いていた。
でもお腹の中の温かさが、寒さを和らげてくれていた。
「お姉ちゃん、また来ようね!」
トミーが元気な声で言う。その頬には、久しぶりに赤みが差していた。
「ええ、そうね」
あたしは、振り返ってその建物を見た。
暗闇の中で輝く、鋼鉄のオアシス。
屋根の上で、旭日旗が風にはためいている。
家に帰ったら、パパになんて言おう。
「ジャップの餌なんて食うな」と怒鳴るだろうか。
それとも、黙って涙を流すだろうか。
どちらでもいい。
あたしは、これをパパに食べさせる。生きてさえいれば、いつかまた笑える日が来るかもしれないから。
『錨と桜』。
それはあたしにとって、もう敵のマークではなかった。
この冷酷な世界で、唯一あたしたちを守ってくれる、新しい王様の紋章だった。
「……神様」
ベティは、日本の方角の空に向かって祈った。
「日本のカイグンさんを、お守りください」
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