ベティ 前編
新年あけましておめでとうございます。本日は外伝短編的2話を投稿します。
当時の平均的なアメリカ人の視点です。
1929年8月、シカゴ近郊。
あたしの名前はベティ。17歳。
この界隈の公立高校じゃ、あたしの機嫌を損ねたらランチタイムに席がなくなるって、みんな知ってる。
別に意地悪をしてるわけじゃないの。ただ、あたしは「何がイケてるか」を知ってるだけ。スカートの丈は膝下何センチが粋か、ボブヘアのウェーブはどう作るか、そういうこと。
あたしのパパは製鉄所の工員だ。
「下流」? まあ、お偉い学者先生ならそう呼ぶかもね。でも1929年の夏、あたしたちは自分たちが貧しいなんて、これっぽっちも思ってなかった。
だって、世界はピカピカに輝いていたから。
「ベティ、見てみろ!」
その日の夕方、パパが誇らしげにリビングに運び込んできたのは、巨大なマホガニー色の箱だった。
RCAビクターのラジオ。家具調の、とびきりゴージャスなやつ。
「パパ! これ、すごく高いんじゃない?」
ママが目を丸くして、濡れた手をエプロンで拭った。ママは近所の洗濯物を引き受ける内職をしてるから、いつも石鹸の匂いがする。
「へへっ、心配すんなメアリー。今は残業、残業で稼ぎがいいんだ。週給は30ドルを超えてるんだぞ」
パパは胸を張っていた。
統計的に言えば、製造業の平均年収は1500ドルちょっと。週給にならせば29ドルくらい。でもこの「狂ったような好景気」のおかげで、パパみたいな現場の工員でも、週に35ドル近く持ち帰る週があった。
それがこの国の魔法だった。
「それに、これ全部払ったわけじゃない。頭金はたったの5ドルだ。あとは毎月少しずつ払えばいい。『信用』ってやつさ」
パパは真空管が温まるのを待って、ダイヤルを回した。
ノイズの向こうから、ジャズの旋律が溢れ出した。
あたしの狭いアパートのリビングが、一瞬でダンスホールに変わった。
「最高!」
あたしは弟の手を取って踊った。
このラジオがあれば、あたしは学校でみんなの話題の中心になれる。最新の曲、最新のニュース、大統領の声。
クラスの半分くらいの子はまだラジオを持ってない。農場から通ってる子なんて、電気も来てない家に住んでるんだから。
あたしは「持ってる側」の人間だ。
シボレーの新車は無理でも、ラジオはある。月賦で買ったレーヨンのドレスもある。
パパの工場は煙を吐き続け、アメリカは永遠にパーティーを続けるはずだった。
そう、あたしたちは「中流階級」の仲間入りをしたと信じ込んでいた。
本当は、借金という薄い氷の上に立っていただけなのに。
1929年10月、ある木曜日。
学校の廊下で、銀行家の娘であるサラが泣いていた。
彼女は本当のお金持ちだ。でも、その日はまるで幽霊みたいに青ざめていた。
「どうしたの、サラ?」
あたしが声をかけると、彼女は震える声で言った。
「パパが……パパが電話で叫んでたの。『全部紙くずだ』って」
ウォール街で何かが起きたらしい。株が大暴落したとか。
でも正直、あたしにはピンとこなかった。
だって、あたしのパパは株なんて持ってない。近所のおじさんたちもそうだ。
あれは、雲の上に住むお金持ちたちのゲームの話。
「大変ね」
あたしは努めて同情的な顔を作ったけれど、心の中では(明日のデートに着ていく服はどうしよう)と考えていた。
工場の煙突はまだ煙を吐いていたし、ラジオからは陽気な音楽が流れていたから。
1929年11月、凍てつく冬。
異変は、音もなく忍び寄ってきた。
最初は「残業」がなくなった。
パパが夕方5時に帰ってくるようになった。
「在庫が余ってるんだとさ。少し休めってよ」
パパはビールを飲みながら笑っていた。「骨休みが出来ていいさ」
でも次の週、勤務日が週6日から週4日に減らされた。
週給の封筒が薄くなった。35ドルが、20ドルになった。
「ねえ、パパ。新しい靴が欲しいんだけど」
あたしがねだると、パパは初めて怒鳴った。
「古いのが履けるだろう! 無駄遣いをするな!」
家の中の空気が張り詰め始めた。
ママの作るシチューから、肉の塊が消えた。ジャガイモと豆ばかりになった。
でも、家賃は変わらない。
大家のジョンソンさんは冷酷だ。
「不景気? 知ったことか。家賃は月30ドルだ。払えないなら出ていけ」
30ドル。
パパの給料が良かった頃は、週給の1回分で払えた。
でも今は、2週間分の給料が家賃に消える。
残りのわずかな金で、家族4人が食べていかなきゃならない。
そして、あの「魔法の箱」の支払いが残っていた。
月々5ドル。たった5ドル。
でもその5ドルが、今のあたしたちには巨石のように重かった。
「払わなきゃ。信用にかかわるわ」
ママは必死に内職を増やそうとしたけど、近所の人たちもみんな貧乏になって、洗濯物を頼む人なんていなくなっていた。
1929年12月、崩壊。
パパが工場から帰ってきた。まだ昼の2時だった。
顔色が、灰のように土気色だった。
「……クビだ」
パパの声は震えていた。
「俺だけじゃない。ラインごと閉鎖だ。在庫の山で、もう置く場所がないんだと」
バブルが高かった分、落ちる速度は猛烈だった。
工場は「減産」じゃなく「停止」した。
パパの年収見込みは1500ドルから、突然「ゼロ」になった。
その翌週、男たちがやってきた。
黒い帽子を被った、無愛想な二人組。
「支払いが滞っていますね」
彼らは土足でリビングに上がり込むと、あのマホガニー色のラジオを持ち上げた。
「やめて! お願い!」
ママが泣いてすがった。パパは拳を握りしめて、台所の隅で背中を向けていた。男としてのプライドが、粉々に砕かれていたから。
「規則ですので」
男たちは淡々と、あたしたちの「中流階級の証」を運び出した。
コードが引き抜かれ、音楽が止まった。
リビングには、四角い埃の跡だけが残された。
あたしは唇を噛んで見ていた。
悔しかった。悲しかった。
でも、それ以上に怖かった。
ラジオだけじゃない。ソファも、あたしのドレスも、全部「月賦」だった。
全部、借り物だったんだ。
翌日学校へ行くと、あたしのグループの子たちがヒソヒソ話をしていた。
「ベティの家、ラジオを持ってかれたんだって」
「パパが失業したらしいよ」
あたしは顎を上げて、カツカツと廊下を歩いた。
背筋を伸ばして。
でも、彼女たちの視線が痛いほど突き刺さる。
あたしはもう「クイーン」じゃない。ただの「貧乏人の娘」だ。
昨日まであたしが命令していた子たちが、今日は憐れみの目で見ている。あるいは、ざまあみろという目で。
あたしたちはアパートを追い出された。
今は、叔母さんの家の屋根裏部屋に、家族4人で転がり込んでいる。
パパは毎日、職業紹介所の前に並んでいるけれど、仕事なんてありはしない。日雇いの道路工事があればいい方だ。時給30セントにも満たない仕事に、何百人が群がっている。
ラジオがなくなった夜、あたしは知った。
この国には「二つの世界」があったんじゃない。
「持っている人」と「持っているフリをしていた人」、そして「最初から何も持っていなかった人」。
あたしたちは、真ん中の、一番愚かなグループだったんだ。
屋根裏部屋の窓から、外を見る。
通りの向こうで、誰かが捨てられた新聞紙を身体に巻いて寝ている。
「ベティ、手伝っておくれ」
ママが呼んでいる。叔母さんの家の掃除をしなきゃいけない。居候の身分だから。
「はい、ママ」
あたしは鏡を見た。
そこにはもう、学校の女王様はいなかった。
少し痩せて、目つきが鋭くなった、ただの労働者の娘がいた。
本日午後、後編を投稿します。
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