アンクル・サムへのスープ
前話の続きです。今年一年ありがとうございました。
時:1929年12月
場所:ニューヨーク州オールバニ、知事公邸・裏口
雪が舞っていた。
ハドソン川から吹き付ける風は、恐慌と寒波に震えるニューヨーク州の住民にとって、文字通りの死神の息吹だった。
その吹雪の中、州知事公邸の裏口に一台の黒塗りの車が滑り込んだ。降り立ったのは、日本海軍駐米武官、東郷一成。
迎えたのは、州知事の腹心であり、後にニューディール政策の実行部隊長となる男、ハリー・ホプキンスだった。
通された暖炉の部屋で、東郷は濡れたコートを預けると早々に、分厚い契約書と見積書をテーブルに置いた。
「……ミスター・ホプキンス。ビジネスの話に来ました」
東郷の声は、暖炉の火よりも熱を持たず、しかし外の雪よりは温かかった。
ホプキンスは書類を手に取り、その最初のページに躍る数字を見て、思わず息を呑んだ。
『北米大陸における緊急人道支援及び治安維持に関する委託業務契約』
月額予算:5,000万ドル(約1億円)
対象:全米500箇所
期間:即時より4ヶ月間
委託元:日本帝国海軍駐米武官府
受託者:ハリー・ホプキンス財団(仮称)
「……大佐。これは、正気ですか」
ホプキンスの声が震えた。
「5,000万ドル……。今のレートなら、この国の小さな州の年間予算に匹敵します。これを、毎月? しかも、たった4ヶ月で使い切れと?」
「ええ」東郷は淡々と頷いた。
「使い切ってもらわなければ、困ります」
東郷はワシントンの大使館に先日届いたFRB(連邦準備制度理事会)の報告書を、生ゴミのようにテーブルの端に弾いた。
『公定歩合、6.5%へ引き上げ』
「貴国の金融の番人たちは、金庫の中の金を守るために、国民を凍死させることを選んだようです。金利が上がれば企業は倒産し、失業者は路頭に迷う。……クリスマスを前に、ニューヨークの街角に死体が転がるのを見たいのですか?」
「……見たくはない。だが、なぜ日本がここまで?」
ホプキンスの問いに、東郷は微笑みながらも冷徹な「投資家」の顔を見せた。
「勘違いしないでいただきたい。これは慈善事業ではありません。資産保全です」
東郷は指を折って説明を始めた。
「第一に、我々は今やGE、USスチールといった貴国の基幹産業の筆頭株主です。しかし不況で製品が売れず、工場の稼働率は落ち、倉庫は在庫の山だ。このままでは株価が下がり、我々の資産価値が毀損する」
東郷は見積書の明細欄を指さした。
「だから、我々(株主)がその在庫を買い上げるのです。GEからは最新の大型電熱調理器を。USスチールからはプレハブ建材と食器を。
……これらは全てドルや『制度債(NCPC)』を使って、正規の卸値で買い取ります。これで企業の売上は立ち、雇用は維持される。我々日本海軍からは貴国から輸入した艦隊用の重油を、暖房用として供給します」
それは、見事なまでの循環構造だった。
日本海軍が企業の在庫を一掃することで、企業の業績を支え、自らが保有する株価の下落を防ぐ。
「第二に、治安維持です。失業者が暴徒化し、我々が投資した工場やインフラを焼き討ちにしたらどうなります? 元も子もありません。
だから彼らの腹を満たし、体と心を温める必要がある。……腹一杯の暴徒など、歴史上存在しませんから」
ホプキンスは、東郷の論理に戦慄した。
この男は「人助け」すらも、冷徹な計算式の一部に組み込んでいる。
「……大佐。あなたが提示しているのは、本来ならアメリカ政府がやるべきことです。それを仮想敵国の軍隊の財布でやれと言うのですか。
ルーズベルト知事(FDR)がこれを知れば、顔を真っ赤にして怒るか、あるいは泣いて感謝するでしょう」
東郷は、窓の外の雪を見つめた。
「感謝など不要です。ただ、アメリカ国民が温かいスープを啜る時、そのカップの底に『日本海軍』の錨のマークが刻まれている。
……それだけで、我々の任務は完了するのです。政府に金がないのなら、金のある者がやるしかない。……違いますか?」
東郷は立ち上がり、ホプキンスの手を握った。
「あなたには実行力がある。貧民街とアメリカ経済を知り尽くした、専門家としてのあなたのネットワークが必要です。……やってくれますね?」
ホプキンスはその熱い掌の感触に、敗北と希望の入り混じった複雑な感情を抱きながら、深く頷いた。
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時:1929年12月25日
場所:ニューヨーク、タイムズスクエア特設会場
1929年のクリスマスは、アメリカ史上最も暗く、冷たい祝日になるはずだった。
FRBの利上げは市場を凍りつかせ、解雇通知と督促状だけが、サンタクロースからの贈り物だった。
だが、マンハッタンのど真ん中に突如として出現した巨大なプレハブの建物が、その絶望を切り裂いた。
USスチールの頑丈な鋼材で組まれ、GEの最新式照明によって真昼のように輝くその場所。煙突からは、信じられないほど食欲をそそる匂いが立ち上っている。
入り口には、星条旗と旭日旗、そしてあの見慣れた『錨と桜』のマークが掲げられていた。
『Merry Christmas from Imperial Japanese Navy
日本海軍・特別救済給食所:No.10』
雪の中、何千人もの行列ができていた。失業者、浮浪者、そして昨日までは中産階級だった父親たちが、凍える子供の手を引いて並んでいる。
「……次の方、どうぞ」
配膳台に立つのは、白人の男たちだ。彼らもまたデトロイトやピッツバーグなどで職を失った労働者だったが、今は日本海軍の「臨時雇員」として、日給5ドル(破格の高給)で雇われていた。彼らの瞳には、久しぶりに「働く者の誇り」が戻っていた。
差し出されたのは、湯気を立てるボウルとなみなみと注がれたコーヒー。
中身は、アメリカ人の味覚に合わせて調整された「カイグン・シチュー」だ。肉厚の牛肉、大きめに切った野菜が、とろけるほど煮込まれている。パンは焼きたての白パンだ。
「……肉だ。本物の肉が入ってるぞ!」
スープを口にした少年が、驚きの声を上げる。
母親が、信じられないという顔でコーヒーを啜る。
「……これは、本物の豆のコーヒーだわ。泥水じゃない……」
ブラジル。東郷が買収したあの国から直送された、最高級のサントス豆。
アメリカ資本が撤退して買えなくなったそれを、日本海軍がわざわざ運び込んできたのだ。
隣のテーブルでは失業者だけでなく、意外な人々が座っていた。
仕立ての良いコートを着た、ウォール街の証券マンや、中小企業の社長たちだ。
彼らは空腹ではない。彼らが求めているのはスープではなく「確認」だった。
「……おい、食べたか?」
中年の社長が、ボウルを掲げて同僚に囁く。
「ああ。すごいぞ。肉がこんなに入っている。煮崩れしていない、いいジャガイモだ」
「計算してみろ。これだけのものを、全米500箇所で、毎日無料で配っているんだぞ。
一日あたり100万ドル単位のキャッシュが消えているはずだ」
社長の目が、欲望と確信でギラついた。
「……アメリカ政府は『予算がない』と言って何もしない。
だが日本海軍は、笑いながらこの莫大なカネをドブ(慈善事業)に捨てている。
これはどういうことだ?」
「つまり……彼らの資金力は『本物』だということだ。
底が知れない。NCPC債や長期債の裏付け資産は、我々が想像するより遥かに盤石なんだ」
社長は、スープを飲み干すと、ナプキンで口を拭った。
「決めたぞ。
会社に残っている内部留保、ドルで持っていても目減りするだけだ。
明日の朝一番で、大半は『長期債』に換える」
「俺もだ。このシチューの味は、どんな財務諸表よりも信用できる」
彼らにとって、この炊き出しは慈善事業ではなかった。
日本海軍の財務体質の健全さを証明する、最も説得力のある「ロードショー(投資家向け説明会)」だったのだ。
広場の片隅で、その光景を見つめる男がいた。
ベン・カーター記者である。
彼は取材ノートを手に、複雑な表情で佇んでいた。
「……ベツレヘムの星は、極東から来たのか」
隣にいた失業者が、スープを啜りながら呟いた。
「なあ、あんた。ワシントンの大統領様は『自助努力』だの『我慢』だの言うばかりで、スープ一杯恵んじゃくれねえ。FRBは俺たちの家を取り上げやがった。
……なのに、なんで敵であるはずの日本の海軍さんが、こんなに良くしてくれるんだ?」
ベンは、答えに窮した。
「……彼らにとっては、これも『任務』だからさ」
「任務か……。よく分からねえが、ありがてえ任務だ。
おい、坊主。よーく覚えておけよ」
男は息子に、空になったカップを見せた。底には、青いインクで錨のマークが焼き付けられている。
「このマークの人たちが、俺たちを救ってくれたんだ。
大きくなっても、忘れちゃいけねえぞ」
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時:同日 夜
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
給食所の視察から戻った大使館の執務室で、東郷は積み上がった会計報告書に目を通していた。
その金額は天文学的だったが、彼は眉一つ動かさなかった。
小百合が、淹れたてのコーヒーを置いた。
ふと東郷は彼女に目を留め、ふっと寂しげに微笑んだ。
「……馬鹿なことをしていると、思うかね?
今アメリカ人が血眼になって求めているドルを、1食24セントのために使うなど。
この金があれば、戦艦の一つや二つ、買えたかもしれないのに」
「いいえ」
小百合は即答した。その声には、自分でも驚くほどの熱がこもっていた。
「……いいえ、大佐。……これは世界で一番、美しいお金の使い方です」
東郷は少し驚いたように目を丸くし、それから静かに目を細めた。
彼は再び、数字の羅列へと視線を戻した。
その背中には、今や「救われなかった者たち」の悲しみが、全て背負われているように見えた。
(……ああ、私は)
小百合は、心の中が熱くなるのを感じた。
かつては陸軍の命令で、この男を監視していた。
幸様の願いで、この男を守ると決めた。
だが今は違う。
この人が描く「世界」を、守りたい。
金を持つ者だけが勝ち、持たざる者が野垂れ死ぬという、この腐りきった世界のルールを書き換えようとしている、この人の戦いを。
たとえこの先、貴方が「悪魔」と呼ばれようとも。
国家を焼き尽くす「放火魔」と罵られようとも。
貴方がその手で救い上げた「命」の重さを知っているのは、私だけでいい。
小百合は東郷の背中に向かって、音もなく最敬礼をした。
窓の外では、まだ雪が降り続いている。
だが大使館の前には、今日も温かいスープを求めて、長い長い行列ができていた。
その列の先には、希望の灯火のように、日本海軍の旭日旗が揺れていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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