表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

138/162

白い雪、赤い血

 時:1929年(昭和四年)、11月

場所:ワシントンD.C.


 その夜、合衆国の首都は、シベリアのような猛吹雪に見舞われていた。

 視界は白一色に閉ざされ、街灯の光さえも凍りついたように滲んでいる。ポトマック川から吹き付ける風はナイフのように鋭く、外套の隙間から容赦なく体温を奪っていく。


 駐米武官・東郷一成は、極秘の会合を終え、公用車へ向かっていた。

 護衛につく男装した橘小百合は、その白い闇を見つめながら、全身の毛穴が収縮するのを感じていた。


(……似ています)

 寒さではない。空気の匂いだ。

 1920年、尼港ニコライエフスク。すべてが凍りつき、すべてが燃え、そして雪が赤く染まったあの地獄の夜。

 あの日も、こんな風が吹いていた。


 小百合は無意識に、懐のブローニング拳銃に手を添えた。

 彼女の「本能」が、この白い闇の向こう側に、言葉にできない殺意の波動を感じ取っていたのだ。


「……大佐。急いでください」

「ああ」

 東郷が車のドアに手をかけようとした、その瞬間だった。


「Jap! Go to Hell!! (ジャップ! 地獄へ落ちろ!)」

 闇の裂け目から、影が飛び出した。


 男だ。ボロボロのオーバーコート。目は血走り、手には錆びついた安物のリボルバーが握られている。

 距離、わずか3メートル。


 だが、東郷は動かなかった。動く必要がなかった。

 それより速く「硝子の狼」が反応したからだ。

 小百合は音もなく雪を蹴り、東郷の前に滑り込むと同時に、低い姿勢から男の懷へ飛び込んだ。


 左手で男の銃口を上へ弾く。

 バンッ!

 乾いた銃声が夜気を切り裂き、弾丸は虚しく夜空を焦がした。


「ぐあっ!?」

 男が狼狽した隙を逃さず、小百合の右肘が男の顎を打ち抜く。

 さらに、崩れ落ちようとする男の手首を掴み、全体重をかけて捻り上げた。


 ボキリ。

 鈍く、しかし生々しい骨の折れる音が響く。男は悲鳴も上げられず、泥雪の中に顔面から突っ伏した。


 勝負あった。制圧完了。

小百合は冷ややかに男を見下ろし、止めを刺すべきか一瞬迷った。だが、その手が止まる。男があまりにも軽く、あまりにも弱々しかったからだ。


 だが、話はそこで終わらなかった。

 銃声を聞きつけ、警戒中のワシントン市警のパトロール隊が駆けつけてきたのだ。


「Freeze! Police!」

 警官たちは、地面に転がる男が懐に手を入れた(おそらく、痛みに耐えて胸を押さえただけだった)のを見て、躊躇なく引き金を引いた。


 三発の銃弾が、男の背中を貫いた。

 白い雪が、一瞬にして赤黒く染まっていく。


 警官たちは倒れている男と、東郷たちを見比べた。

そして浮浪者風の男だと確認すると、蔑むように言った。

「……また排日主義者の過激派か。最近多いんだ。……旦那方、怪我は?」


「ない。私の部下が制圧した」

 東郷が答えるや否や、警官の一人が、まだうめき声を上げている男の頭に向けて、無造作に発砲した。

 乾いた銃声。赤い血が、新雪の上に広がる。


「……手間が省けましたな、大使館の方。裁判にかける金も勿体無い」

 警官は平然と言い放った。これが、今のこの国の「正義」だった。


 東郷は、物言わぬ死体を見下ろした。

 FRBが金利を上げ、政府が救済を拒否した結果生まれた、悲しき末路。

 この男も、数ヶ月前までは真面目な善き市民だったかもしれない。だが国に見捨てられ、最後にすがったのが、誤った憎悪と暴力だった。


「……行くぞ、小百合君。ご苦労だったな」

「……はい」

 小百合は拳銃から手を離した。指先が微かに震えているのを、東郷は見逃さなかった。



 時:一時間後

場所:現場近くの警察署・遺体安置所


 東郷一成は、白い布を掛けられた遺体の前に立っていた。

 隣には、駆けつけた大使館の顧問弁護士がいる。


「……身元は?」

「ジョン・ドゥ(名無しの権兵衛)……ではありませんが、身分証らしきものはこれだけです」


 警察署長が差し出したのは、一枚の擦り切れた工員証だった。

 『ボルチモア製鉄所・工員』。日付は、一ヶ月前の解雇印が押されている。


 そして、所持品リスト。

 錆びたリボルバー。弾丸二発。

 ポケットの中には、財布すらない。あるのは、一枚のくしゃくしゃになったビラだけ。


 『排日連盟・決起集会のお知らせ』――「ジャップが俺たちの職を奪い、俺たちの金を盗んだ。奴らを叩き出せ!」


 小銭の一枚も、パンの欠片もなかった。

 この男は空腹と絶望、そして煽動された憎悪だけで、この厳寒のワシントンを彷徨い、そして死んだのだ。


 東郷は、かつて春に小さなジャズクラブでハリー・ホプキンスに聞いたこの国の経済事情を思い出していた。


『私は、このアメリカという巨大な軍艦の、機関室の本当の温度を知りたいのです。甲板の上で士官たちが踊っている華やかなダンスではなく、その足元でボイラーがどれほどの圧力に耐えているのかを。


……専門家の視点で見解をお聞きしたい。この国のアベレージ・ワーカー(平均的労働者)の懐事情はどうだったのですか』


 記憶の中のハリー・ホプキンスは眼鏡を外し、重い口調で語り始めた。

『……大佐。実は、『ローリング・トウエンティーズ(狂騒の20年代)』という言葉は、巨大な詐欺でした』


 東郷の脳内で彼は淡々と、残酷な数字を並べた。

『統計によれば、1929年の暴落前夜においても、アメリカの全世帯の60%以上は、年収2,000ドル以下の『貧困ライン』で生活していました。彼らに貯蓄はありません。


 フォードやGMの車も、ラジオも、洗濯機も、すべては『分割払い(借金)』で買ったものです。彼らは、その日暮らしの自転車操業だったのです』


 そこへ不況が直撃した。失業。即座に支払いが滞り、家財道具は差し押さえられる。

 貯蓄がないため、食いつなぐことさえできない。


『つまり今のこの国には、明日食べるパンすらない男たちが、いざ不況の時には数百万人単位で溢れるということです。

 そして彼らは、自分たちが飢えている理由を理解できていません。だから、誰か分かりやすい『敵』を探すことになる』


 東郷は、遺体の手元にある排日ビラを拾い上げた。

「東洋から来た、金持ちの軍人。……彼らにとって格好の『標的』なのだな。ユダヤ人も、我々有色人も、彼らの絶望のはけ口にされる。

 この男は暗殺者ではない。……飢えた野良犬だ」


 東郷は、遺体の痩せこけた頬を見た。

 窪んだ目。浮き出たあばら骨。

 殺意の正体は「思想」ではなかった。「飢餓」だった。


「……そうか」

 東郷は、隣で震えている小百合の肩に、そっと自分のコートを掛けた。

 彼女は、寒さで震えているのではなかった。

 襲ってきた男のあまりの弱々しさと、その惨めな死に様に、かつての自分を重ねていたのだ。


 憎悪の根源にあるのは、生存本能だ。

 飢えは人を獣にする。獣に、理屈は通じない。金融政策も、外交交渉も意味を持たない。

 ただ、噛みつくのみ。


 東郷は、遺体に向かって静かに合掌した。

 そして、警察署長に札束を渡した。

「……埋葬してやってくれ。身寄りが分かれば、少しばかりの香典も」



 時:数日後

場所:東京・霞が関、海軍省


 地球の裏側、東京でまた一つの「決裁」が下されようとしていた。

 軍務局長の堀悌吉は、ワシントンから届いた分厚い稟議書を前に、珍しく声を上げて笑っていた。


「くくっ……ははは! 東郷の奴、やってくれるわ。今度は『アメリカ国民への餌付け作戦』だとさ」


 偶然同席していた山本五十六が、呆れたように葉巻を吹かす。

「おいおい堀。餌付けとは人聞きが悪いぞ。名目は『戦略的治安維持任務』だろう?」


「中身は同じだよ、五十六」

 堀は、真新しい決済印を手に取った。

「アメリカ国内で500万人規模の炊き出しを4か月間、つまり凍死の出なくなる春まで行う。その費用は、我々が『長期債』で吸い上げた、腐るほどあるドルだけで十分お釣りがくる。


 しかも、使うのは我々が筆頭株主になった企業(GEやUSスチールなど)の売れ残り商品だ。金は外部にはほぼ漏れず、グルグル回ってまた戻ってくる」


 山本五十六は、天井を仰いだ。

「……しかしな。外国の民草を食わせるために軍事費を使うなど、前代未聞だぞ。枢密院の爺さんたちが監査で納得するのか?」


「そこがミソなのだよ」

 堀はニヤリとした。


「この活動は、れっきとした『帝国海軍の任務』として申請されている。

 つまり、アメリカでパンを配れば配るほど、それは『国家安全保障に資する任務遂行実績』としてカウントされ、日本国内での新たな『制度債(信用)』の発行枠が増えるのだ。


 『アメリカで暴動が起き、GEやUSスチールの工場が破壊されれば、我々が手に入れた株券は紙くずになる。したがって、失業者に飯を食わせて暴動を未然に防ぐことは、海軍の資産、ひいては国家の権益を守るための“防衛任務”である』……とな。


 言ってみれば、アメリカ人の胃袋を満たすことが、日本国内の景気を良くするエネルギーになる。……一種の『人間火力発電所』だな」


「……屁理屈の天才だな」山本は感心したように唸った。


「合理的と言いたまえ。アメリカの社会不安を、日本の信用の源泉に変換している。……承認せざるを得んだろう。これほど“儲かる”治安維持任務は他にない」

 堀は、決裁書類にドンと印を押した。朱肉の跡が鮮やかに残る。


「大臣には、私が"ご説明"しよう。

 さあ、アメリカ中に日本の飯をばら撒いてこい。

 腹を空かせたライオンほど怖いものはないが、腹一杯になったライオンほど御しやすいものはないからな」



いつもお読みいただきありがとうございます。

次話に続きます。


もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
海軍が仮想敵国の首都で炊き出しとは、帝国海軍以外は政府もキリストもアメリカ国民を助ける気はなさそうですね。これにはホワイトハウスの皆さんはもちろん、ローマ法王も真っ青でしょう。
日米の暴漢制圧の差(取り押さえに留めるか即時射殺か)が中々。小百合さん強い。 海軍士官の制服は素人目には各国の区別が付きづらいので、若干小柄で黒髪直毛の米海軍士官が誤って襲われたりしていないことを祈…
 そして時を経て、今現在のアメリカ経済は、K字経済の進展で富める1%の(多めに含めて上位10%)旺盛な消費活動によって、「アメリカ経済は堅調だ!」と株式市場で喧伝されたいます。  その実態は、残り9割…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ