白い雪、赤い血
時:1929年(昭和四年)、11月
場所:ワシントンD.C.
その夜、合衆国の首都は、シベリアのような猛吹雪に見舞われていた。
視界は白一色に閉ざされ、街灯の光さえも凍りついたように滲んでいる。ポトマック川から吹き付ける風はナイフのように鋭く、外套の隙間から容赦なく体温を奪っていく。
駐米武官・東郷一成は、極秘の会合を終え、公用車へ向かっていた。
護衛につく男装した橘小百合は、その白い闇を見つめながら、全身の毛穴が収縮するのを感じていた。
(……似ています)
寒さではない。空気の匂いだ。
1920年、尼港。すべてが凍りつき、すべてが燃え、そして雪が赤く染まったあの地獄の夜。
あの日も、こんな風が吹いていた。
小百合は無意識に、懐のブローニング拳銃に手を添えた。
彼女の「本能」が、この白い闇の向こう側に、言葉にできない殺意の波動を感じ取っていたのだ。
「……大佐。急いでください」
「ああ」
東郷が車のドアに手をかけようとした、その瞬間だった。
「Jap! Go to Hell!! (ジャップ! 地獄へ落ちろ!)」
闇の裂け目から、影が飛び出した。
男だ。ボロボロのオーバーコート。目は血走り、手には錆びついた安物のリボルバーが握られている。
距離、わずか3メートル。
だが、東郷は動かなかった。動く必要がなかった。
それより速く「硝子の狼」が反応したからだ。
小百合は音もなく雪を蹴り、東郷の前に滑り込むと同時に、低い姿勢から男の懷へ飛び込んだ。
左手で男の銃口を上へ弾く。
バンッ!
乾いた銃声が夜気を切り裂き、弾丸は虚しく夜空を焦がした。
「ぐあっ!?」
男が狼狽した隙を逃さず、小百合の右肘が男の顎を打ち抜く。
さらに、崩れ落ちようとする男の手首を掴み、全体重をかけて捻り上げた。
ボキリ。
鈍く、しかし生々しい骨の折れる音が響く。男は悲鳴も上げられず、泥雪の中に顔面から突っ伏した。
勝負あった。制圧完了。
小百合は冷ややかに男を見下ろし、止めを刺すべきか一瞬迷った。だが、その手が止まる。男があまりにも軽く、あまりにも弱々しかったからだ。
だが、話はそこで終わらなかった。
銃声を聞きつけ、警戒中のワシントン市警のパトロール隊が駆けつけてきたのだ。
「Freeze! Police!」
警官たちは、地面に転がる男が懐に手を入れた(おそらく、痛みに耐えて胸を押さえただけだった)のを見て、躊躇なく引き金を引いた。
三発の銃弾が、男の背中を貫いた。
白い雪が、一瞬にして赤黒く染まっていく。
警官たちは倒れている男と、東郷たちを見比べた。
そして浮浪者風の男だと確認すると、蔑むように言った。
「……また排日主義者の過激派か。最近多いんだ。……旦那方、怪我は?」
「ない。私の部下が制圧した」
東郷が答えるや否や、警官の一人が、まだうめき声を上げている男の頭に向けて、無造作に発砲した。
乾いた銃声。赤い血が、新雪の上に広がる。
「……手間が省けましたな、大使館の方。裁判にかける金も勿体無い」
警官は平然と言い放った。これが、今のこの国の「正義」だった。
東郷は、物言わぬ死体を見下ろした。
FRBが金利を上げ、政府が救済を拒否した結果生まれた、悲しき末路。
この男も、数ヶ月前までは真面目な善き市民だったかもしれない。だが国に見捨てられ、最後にすがったのが、誤った憎悪と暴力だった。
「……行くぞ、小百合君。ご苦労だったな」
「……はい」
小百合は拳銃から手を離した。指先が微かに震えているのを、東郷は見逃さなかった。
⸻
時:一時間後
場所:現場近くの警察署・遺体安置所
東郷一成は、白い布を掛けられた遺体の前に立っていた。
隣には、駆けつけた大使館の顧問弁護士がいる。
「……身元は?」
「ジョン・ドゥ(名無しの権兵衛)……ではありませんが、身分証らしきものはこれだけです」
警察署長が差し出したのは、一枚の擦り切れた工員証だった。
『ボルチモア製鉄所・工員』。日付は、一ヶ月前の解雇印が押されている。
そして、所持品リスト。
錆びたリボルバー。弾丸二発。
ポケットの中には、財布すらない。あるのは、一枚のくしゃくしゃになったビラだけ。
『排日連盟・決起集会のお知らせ』――「ジャップが俺たちの職を奪い、俺たちの金を盗んだ。奴らを叩き出せ!」
小銭の一枚も、パンの欠片もなかった。
この男は空腹と絶望、そして煽動された憎悪だけで、この厳寒のワシントンを彷徨い、そして死んだのだ。
東郷は、かつて春に小さなジャズクラブでハリー・ホプキンスに聞いたこの国の経済事情を思い出していた。
『私は、このアメリカという巨大な軍艦の、機関室の本当の温度を知りたいのです。甲板の上で士官たちが踊っている華やかなダンスではなく、その足元でボイラーがどれほどの圧力に耐えているのかを。
……専門家の視点で見解をお聞きしたい。この国のアベレージ・ワーカー(平均的労働者)の懐事情はどうだったのですか』
記憶の中のハリー・ホプキンスは眼鏡を外し、重い口調で語り始めた。
『……大佐。実は、『ローリング・トウエンティーズ(狂騒の20年代)』という言葉は、巨大な詐欺でした』
東郷の脳内で彼は淡々と、残酷な数字を並べた。
『統計によれば、1929年の暴落前夜においても、アメリカの全世帯の60%以上は、年収2,000ドル以下の『貧困ライン』で生活していました。彼らに貯蓄はありません。
フォードやGMの車も、ラジオも、洗濯機も、すべては『分割払い(借金)』で買ったものです。彼らは、その日暮らしの自転車操業だったのです』
そこへ不況が直撃した。失業。即座に支払いが滞り、家財道具は差し押さえられる。
貯蓄がないため、食いつなぐことさえできない。
『つまり今のこの国には、明日食べるパンすらない男たちが、いざ不況の時には数百万人単位で溢れるということです。
そして彼らは、自分たちが飢えている理由を理解できていません。だから、誰か分かりやすい『敵』を探すことになる』
東郷は、遺体の手元にある排日ビラを拾い上げた。
「東洋から来た、金持ちの軍人。……彼らにとって格好の『標的』なのだな。ユダヤ人も、我々有色人も、彼らの絶望のはけ口にされる。
この男は暗殺者ではない。……飢えた野良犬だ」
東郷は、遺体の痩せこけた頬を見た。
窪んだ目。浮き出たあばら骨。
殺意の正体は「思想」ではなかった。「飢餓」だった。
「……そうか」
東郷は、隣で震えている小百合の肩に、そっと自分のコートを掛けた。
彼女は、寒さで震えているのではなかった。
襲ってきた男のあまりの弱々しさと、その惨めな死に様に、かつての自分を重ねていたのだ。
憎悪の根源にあるのは、生存本能だ。
飢えは人を獣にする。獣に、理屈は通じない。金融政策も、外交交渉も意味を持たない。
ただ、噛みつくのみ。
東郷は、遺体に向かって静かに合掌した。
そして、警察署長に札束を渡した。
「……埋葬してやってくれ。身寄りが分かれば、少しばかりの香典も」
⸻
時:数日後
場所:東京・霞が関、海軍省
地球の裏側、東京でまた一つの「決裁」が下されようとしていた。
軍務局長の堀悌吉は、ワシントンから届いた分厚い稟議書を前に、珍しく声を上げて笑っていた。
「くくっ……ははは! 東郷の奴、やってくれるわ。今度は『アメリカ国民への餌付け作戦』だとさ」
偶然同席していた山本五十六が、呆れたように葉巻を吹かす。
「おいおい堀。餌付けとは人聞きが悪いぞ。名目は『戦略的治安維持任務』だろう?」
「中身は同じだよ、五十六」
堀は、真新しい決済印を手に取った。
「アメリカ国内で500万人規模の炊き出しを4か月間、つまり凍死の出なくなる春まで行う。その費用は、我々が『長期債』で吸い上げた、腐るほどあるドルだけで十分お釣りがくる。
しかも、使うのは我々が筆頭株主になった企業(GEやUSスチールなど)の売れ残り商品だ。金は外部にはほぼ漏れず、グルグル回ってまた戻ってくる」
山本五十六は、天井を仰いだ。
「……しかしな。外国の民草を食わせるために軍事費を使うなど、前代未聞だぞ。枢密院の爺さんたちが監査で納得するのか?」
「そこがミソなのだよ」
堀はニヤリとした。
「この活動は、れっきとした『帝国海軍の任務』として申請されている。
つまり、アメリカでパンを配れば配るほど、それは『国家安全保障に資する任務遂行実績』としてカウントされ、日本国内での新たな『制度債(信用)』の発行枠が増えるのだ。
『アメリカで暴動が起き、GEやUSスチールの工場が破壊されれば、我々が手に入れた株券は紙くずになる。したがって、失業者に飯を食わせて暴動を未然に防ぐことは、海軍の資産、ひいては国家の権益を守るための“防衛任務”である』……とな。
言ってみれば、アメリカ人の胃袋を満たすことが、日本国内の景気を良くするエネルギーになる。……一種の『人間火力発電所』だな」
「……屁理屈の天才だな」山本は感心したように唸った。
「合理的と言いたまえ。アメリカの社会不安を、日本の信用の源泉に変換している。……承認せざるを得んだろう。これほど“儲かる”治安維持任務は他にない」
堀は、決裁書類にドンと印を押した。朱肉の跡が鮮やかに残る。
「大臣には、私が"ご説明"しよう。
さあ、アメリカ中に日本の飯をばら撒いてこい。
腹を空かせたライオンほど怖いものはないが、腹一杯になったライオンほど御しやすいものはないからな」
いつもお読みいただきありがとうございます。
次話に続きます。
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