幻の金解禁
時:1929年(昭和四年)、12月
場所:東京・日本橋、日本銀行総裁室
窓の外は冷たい木枯らしが吹いていたが、総裁室の中はもっと冷え切っていた。
第11代日本銀行総裁・井上準之助は、象牙のパイプを握りしめたまま、目の前の男を睨みつけていた。
大蔵大臣・高橋是清である。
「……高橋さん。あんた、正気ですか」
井上の声は震えていた。潔癖で知られる彼の理性は、是清が持参した一枚の報告書によって崩壊寸前だった。
「金解禁の無期延期、だと? この期に及んで何を言う!
為替は乱れ、財界は『早く金本位制に戻せ』と悲鳴を上げている。国際信用を取り戻すには、今すぐ解禁して、身を削ってでも緊縮財政をやり抜くしかないんだ!」
井上の主張は、当時の経済学の正統派だった。
一度下がった円の価値を、痛みを伴うデフレ政策で無理やり引き上げ、旧平価(1ドル=約2円)で金解禁を行う。そうすれば海外からの投資が増え、日本経済は筋肉質になる――それが彼の信念だった。
だが是清はダルマのような巨体を揺すって、愉快そうに笑った。
是清は煙を吐き出しながら、憐れむような目で井上を見た。
「……井上君。君は、アメリカのニュースを見ていないのかね?」
「見ております。株価は大暴落し、FRBは迷走している。だからこそ、日本は金解禁を行い、身を律して嵐に備えるべきだと……」
「逆だよ」
是清は、机の上の書類を放り投げた。
それはワシントンD.C.から届いた、FRBの金利操作に関する報告書だった。
「見ろ。アメリカは金本位制という『ルール』を守るために、自国の経済を殺したのだ。
ゴールドが逃げるのを防ぐために金利を上げ、その結果、企業は倒産し、失業者が溢れている。
……井上君、君は日本を、あのアメリカのような死に体にしたいのかね?」
「それは……一時的な痛みです! 膿を出せば、経済は再生します!」
「膿を出す?」
是清は笑った。腹の底からの嘲笑だった。
「アメリカのメロン財務長官もそう言っていたよ。『清算主義』とな。
だがその結果どうなった?
弱ったアメリカ企業は、我が国海軍の『制度債』に買い叩かれ、南米の資源は二束三文で奪われた。
……膿を出した結果、残ったのは骸骨だけだった、というわけだ」
是清は優しく、しかし残酷に告げた。
「井上君。君の言うことは経済学の教科書通りだ。立派だ。……だがな、物理的に無理なもんは無理なんだよ」
是清は、ワシントンから届いた極秘電文の写しを机に叩きつけた。
「読め。東郷の小僧が、アメリカのスティムソン国務長官と交わした密約だ」
井上は書類をひったくった。そして、その一文に目が釘付けになった。
『……日本側は、今後三年間、米国に保有するゴールド資産の、日本本土への移送(現物引き出し)およびイヤーマーキングによるFRBからの金引き出しを凍結する……』
「……な、なんだこれは……」
「読んだ通りだよ」是清はニヤリとした。
「我々は今、アメリカから巻き上げた莫大な金とドルを持っている。額にして55億ドル、日本の国家予算の七年分近くだ。南米や米企業の買収額を除いて、だ。
だがな、その金は『アメリカの金庫』に入ったまま、鍵をかけられちまったんだよ」
是清は、パイプの煙を吐き出した。
「いいか、井上君。金解禁とは何か?
『誰かが円を銀行に持ってきたら、即座に金と交換してやる』と約束することだ。
もし明日、君が金解禁を宣言したとしよう。投機筋は一斉に円を売り、金を要求してくるだろう。
その時、君はどうやって金を渡す?
日銀の地下金庫は空っぽだ。
頼みの綱の東郷の金は、ワシントンにあって動かせない。
……君は、窓口で『金はあるけどアメリカにあるから渡せません』と言い訳するつもりか?
そんなことをすれば、取り付け騒ぎが起きて日本経済は一日で破綻するぞ」
井上は、椅子に崩れ落ちた。
顔面蒼白だった。
彼の「金解禁論」は、「日本が保有する正貨(金)を自由に動かせる」という大前提の上に成り立っていた。
だが東郷一成は、アメリカの南米権益(50億ドル相当)を奪い取るための交換条件として、その「金の移動」を自ら封じてしまったのだ。
「……なんてことを……」井上は呻いた。
「東郷大佐は、日本の通貨政策を、アメリカへの人質に差し出したというのか……!」
「人質? 違うな」
是清は、楽しげに首を横に振った。
「これは『防波堤』だよ。
君のような大真面目な秀才が、『国民に痛みを強いてでも立派な国になろう』なんていう、デフレ地獄への行進を始めるのを止めるためのな」
是清は立ち上がり、窓の外の日本橋を見下ろした。
制度債による「納税代行」のおかげで、年末だというのに街には活気がある。失業者は減り、農村からの身売りも同じく減少傾向だ。
「見ろ、井上君。
金解禁なんてしなくても、国は回っている。いや、しないからこそ回っている。
東郷の作った『制度債』が、事実上の『第二の通貨』として機能しているからだ。
金の裏付けなんぞなくても、海軍の信用と、アメリカから吸い上げたドルの含み益だけで、円は十分に強い」
是清は、井上の肩に手を置いた。
「諦めろ。井上君。君が拝んでいる『金本位制』という神様は、もう死んだんだよ。
アメリカが金利を弄くり回して自爆した瞬間にな。
これからの日本は、金本位制という古い教義ではなく、『管理通貨制度』と『積極財政』で生きていくんだ。
……金解禁は、永久に延期だ」
その日、日銀総裁室で一つの経済思想が死んだ。
史実において日本を昭和恐慌のどん底に叩き落とした「井上財政」は、発動されることすらなく葬り去られた。
井上準之助は震える手で辞表を書こうとしたが、是清に止められた。
「早まるな。君にはまだ仕事がある。
海軍がアメリカで稼いだ巨額のドル……この化け物みたいな外貨は基本的に、円高を防ぐため海外で運用される。だがその運用益を、どうやって国内に還流させてインフレを防ぐか。
その計算をしてくれ。……嬉しい悲鳴だろう?」
⸻
時:同日 夜
場所:東京・赤坂、料亭
田中義一首相は、是清からの報告を聞いて、久しぶりに心からの美酒に酔っていた。
「……そうか。井上君も、ついに観念したか」
政敵である民政党(浜口雄幸・井上準之助ライン)の最大の政治的武器は、「金解禁による経済正常化」だった。
だがその武器は、東郷の密約によって「物理的に不可能」となり、完全に無力化された。
「これで、わしの内閣も安泰だな」
田中は、盃を干した。
「野党は攻め手を失った。陸軍は予算をもらって大人しい。財界は海軍の特需で潤っている。
……東郷さまさまだ。あやつは、ワシントンに居ながらにして、永田町の政局まで盤石にしてしまった」
同席していた海軍大臣・岡田啓介が、静かに釘を刺した。
「総理。油断は禁物です。
東郷大佐は、15億ドルで買った額面50億ドル分の南米債権に加え、アメリカで『サムライ・プットで買い集めた15億ドル分の米国株』という時限爆弾を抱えています。また今の金利の乱高下を考えると、さらに在米資産は増えるかもしれません。
……万一アメリカが、なりふり構わず『資産凍結』や『徳政令』などを出せば、この富は一瞬で消えます」
「……分かっておる」
田中は表情を引き締めた。
「だからこそ、だ。
来月からのロンドン会議。……ここで、アメリカの手足を完全に縛らねばならん。
若槻(禮次郎)全権には、こう伝えてくれ。
『軍縮など二の次だ。日本の債権(長期債と南米権益)を、国際条約で不可侵の聖域として認めさせろ』とな」
日本の政治は、東郷の作り出した「富」によって、史実とは全く異なる安定期を迎えていた。
浜口雄幸内閣は成立せず、井上デフレも起きない。
金解禁論争は「金はあるが持ってこれない」という奇妙な理由で消滅したのである。
⸻
時:同日 夜
場所:東京・麹町、東郷邸
東郷幸は、遊びに来ていた会田まさ江と共に、静かに雪見酒の支度をしていた。
祖父・平八郎は上機嫌で枢密院から帰宅し、日銀での「井上の降伏」を語って聞かせた。
「……お父様は、遠いワシントンに居ながら、東京の政治家たちの命まで救ってしまったのですね」
幸は、熱燗を注ぎながら呟いた。
「救った、か。……まあ、そうとも言えるな」
平八郎は盃を干した。
「だがな、幸。あやつらは死ぬよりも辛いかもしれんぞ。
自分の信じてきた『正義』が、カネと暴力の前に無力だと悟らされたのだからな。
……高橋公曰く、井上のあの死んだような目は、戦場で全てを失った敗残兵のそれじゃった」
幸は、窓の外の雪を見た。
父の作った「制度」は、アメリカを経済的に支配し、南米を取り込み、そして日本の政治家たちの命運さえも変えてしまった。
(……お父様。あなたの『方舟』は、もう誰も降りられないくらい、大きくなりすぎてしまいました。
これに乗っている私たちは、どこへ向かうのでしょうか)
彼女の脳裏に、アメリカで見たノーマ・ジーンの笑顔と、失業者たちの虚ろな目が交差する。
そして、日本の政治家たちの挫折。
誰も死なない。誰も飢えない。
一見すれば、それは理想郷だ。
だがその世界は、東郷一成というたった一人の男が回す「計算機」によって管理された、巨大で静かな「管理社会」のようにも思えた。
(……それでも)
幸は、心の中で呟いた。
(血が流れるよりは、いい。……絶対に、いい)
彼女はまさ江と顔を見合わせ、小さく微笑んだ。
幸は知っていた。
この平和が、薄氷の上に築かれたガラスの城であることを。
そしてそのガラスを割ろうとする者が、まだ世界のどこかに潜んでいることを。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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