貧乏神と死神
時:1929年(昭和四年)、12月
場所:ワシントンD.C. 内国歳入庁(IRS)長官室
その部屋は、アメリカ合衆国の「集金マシーン」の心臓部であるはずだった。
だが今そこに漂っているのは、葬儀場のような静けさと、そして理解不能な事態に直面した人間特有の、乾いた笑いだけだった。
IRS長官のロバート・ルーカスは、目の前に積まれた分厚い税務申告書の束――ウォール街の主要銀行と大企業からの「確定申告見込み」――を指先で弾いた。
「……ゼロだ」
ルーカスは、呻くように言った。
「ゼロ、ゼロ、ゼロ……。どこをめくっても、納税額の欄が『$0.00』だ。おい、私の目は節穴になったのか? それともインクが切れたのか?」
部下の主任監査官が、まるで幽霊でも見るような顔で答えた。
「いいえ、長官。計算は合っています。……法律上は、完璧に」
監査官は一枚のチャートを広げた。そこには、今年の下半期にウォール街で発生した、巨額の利益と損失のカラクリが描かれていた。
「まず、利益の方です。
スタンダード・オイル、USスチール、それに無数の個人投資家たち。彼らは『NCPC債(制度債)』のアービトラージ取引で、推定30億ドル以上の利益を上げました」
「結構なことだ」ルーカスは唸った。「ならばその2割、6億ドルは我々のものだ。税金としてな」
「それが……取れないのです」
監査官は、苦渋に満ちた顔で首を横に振った。
「最高裁の判決と、議会の不作為のせいです。
彼らの弁護団はこう主張しています。『NCPC債は通貨ではなく、日本海軍の任務遂行記録である。したがって、その交換差益は“所得”ではなく“条約で保護された外国軍による軍任務における資産贈与の調整”に該当する』と」
「……はあ?」
ルーカスは口をあんぐりと開けた。
「なんだその呪文は。つまり、『日本軍が頑張った記録を交換したらお金が増えたけど、それは収入じゃなくて軍務だから税金は払いません』と言ってるのか?」
「その通りです。そして現在の法体系には、この『謎の利益』に課税する根拠条文が存在しません。
ウォール街の連中は、儲けたドルで新しい車を買い、別荘を建てていますが、税務署的には彼らの所得はゼロなのです」
ルーカスは頭を抱えた。
目の前で宴会が開かれているのに、会費を徴収しようとすると「これは食事ではなく宗教儀式だ」と言われて追い返されるようなものだ。
「……いいだろう。百歩譲って、NCPC債は諦めよう。
だが銀行はどうだ? JPモルガンやナショナル・シティ・バンク(NCB)だ。
奴らは日本との取引で手数料を稼ぎ、さらに金塊の仲介でも儲けたはずだ。奴らからは毟り取れるだろう?」
監査官は、さらに絶望的な顔をした。
「それが……彼らは『史上空前の赤字』を計上しました」
「赤字? 馬鹿な、奴らは救済されたはずだぞ」
「はい。ですが、会計上のマジックです」
監査官は、NCBのバランスシートを指さした。
「彼らは、額面50億ドルの南米債権を、日本海軍に15億ドルで売却しました。
つまり、帳簿上は『35億ドルの売却損』が確定したのです」
ルーカスの顔色が、赤から青、そして白へと変わっていく。
「……35億ドルの、損失……?」
「はい。米国の税法では、この損失は他の全ての黒字と相殺(損益通算)できます。
さらに、使いきれなかった損失は、翌年以降に繰り越せます(繰越欠損金)。
計算しましたところ……JPモルガンやNCBといったメガバンクは、向こう5年間、法人税を1セントたりとも払う必要がありません」
ルーカスは、椅子から転げ落ちそうになった。
日本海軍は、銀行を救ったのではない。
銀行に「巨額の損失」という名の「最強の節税チケット」をプレゼントしたのだ。
銀行家たちは今頃、日本の方角に向かって万歳三唱しているに違いない。「ありがとう東郷大佐! おかげで税金がタダになった!」と。
「……つまり」
ルーカスは、乾いた唇を舐めた。
「この国で一番金を持っている連中からは一銭も取れず、不況で死にかけている中小企業や労働者からしか税金が取れない、ということか?」
「いえ、長官。その中小企業も労働者も、失業と倒産で納税能力を失っています。
……結論を申し上げますと、来年度の歳入は、事実上『蒸発』しました」
IRS長官室に、重苦しい沈黙が流れた。
それは、国家財政というエンジンの燃料タンクに、一滴のガソリンも残っていないことを確認した瞬間の静寂だった。
⸻
時:同日
場所:ワシントンD.C. 連邦準備制度理事会(FRB)議長室
一方金融の総本山であるFRBでは、もっとフィジカルで、もっと滑稽な悲劇が進行していた。
IRSが「貧乏神」に取り憑かれている頃、FRBの会議室では「死神」がダンスを踊っていた。
ロイ・ヤング議長は、執務室の中を熊のように歩き回っていた。彼の目は血走り、髪は振り乱されている。
「……どうなっているんだ! 一体どうすればいいんだ!」
彼の目の前には、ジェットコースターのような金利チャートが貼られている。
【11月】 公定歩合 6.0% → 4.5% (利下げ)
理由:日本が金の引き出しをやめた! 金庫に金が戻ってきた! 市場にドルを流せ! 緩和だ!
【12月】 公定歩合 4.5% → 6.5% (再利上げ)
理由:フランスとイギリスが金を奪いに来た! 金庫が空になる! ドルを回収しろ! 引き締めだ!
たった一ヶ月の間に、金融政策が180度転換したのだ。
実体経済にとっては、これは拷問以外の何物でもなかった。
部下の理事が、悲痛な報告を読み上げる。
「……議長。シカゴ連銀からの報告です。
今月初めの『利下げ』を見て、多くの中小企業が『底を打った』と判断し、設備投資のための借り入れを行いました。
商店主たちは、クリスマス商戦に向けて在庫を仕入れるために、銀行から融資を受けました。
……彼らは皆『金利は下がる』と信じて、変動金利で契約したのです」
ヤングは、耳を塞ぎたくなった。
「そして今、我々が『再利上げ』をしたことで……彼らの金利負担は跳ね上がりました。
借りたばかりの金の利息が払えず、在庫の山を抱えたまま、次々と倒産しています。
……彼らは口々にこう叫んでいます。『FRBに騙された!』と」
「騙したわけじゃない!」ヤングは絶叫した。
「私はドルを守ろうとしただけだ! ヨーロッパのハイエナどもが物理的に金を奪いに来るなんて、予想できるか!」
「ですが市場はそうは見ません」
理事は冷ややかに言った。
「市場のコンセンサスはこうです。
『FRBのハンドルは壊れている。運転手(議長)は酔っ払っている。このバスに乗っていたら崖から落ちる』と」
信用崩壊。
中央銀行にとって、これほど恐ろしい言葉はない。
FRBが「右だ」と言えば、市場は「左に違いない」と疑う。政策が全く効かなくなるのだ。
「……それに、議長。もう一つ悪いニュースが」
「まだあるのか!」
「はい。市中の銀行たちが、極度の『貸し渋り(クレジット・クランチ)』を始めました。
彼らは言っています。
『FRBの金利がまたいつ上がるか分からない。怖くて金なんか貸せるか。
手元のドルは全部、日本海軍の長期債に変えて金庫にしまっておくのが一番安全だ』と」
ヤングは、その場に崩れ落ちた。
なんという皮肉か。
FRBがドルの価値を守ろうとして金利を上げ下げすればするほど、アメリカの銀行家たちはドルを嫌い、仮想敵国である日本の国債(に準ずるもの)へと逃避していく。
FRBがアクセルを踏んでも、ブレーキを踏んでも、車(アメリカ経済)は動かない。
なぜならガソリン(資金)は全て、隣の車(日本)のタンクに吸い取られてしまったからだ。
「……私は」ヤングは呻いた。「私は、アメリカ経済の守護者だったはずだ。
それがいつの間にか、日本海軍の集金係に成り下がってしまった……」
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