大西洋の断絶
時:1929年(昭和四年)、12月
場所:ワシントンD.C. 国務省長官室
ワシントンの空は、鉛のように低く垂れ込めていた。雪交じりの雨が国務省の窓ガラスを叩き、室内の重苦しい空気をさらに冷やしている。
ヘンリー・スティムソン国務長官は、執務机の前に立ち尽くしていた。彼の背後には、暖炉の火が燃えているが、その熱は彼の凍りついた心までは届かない。
彼の目の前には、二人の紳士が座っている。
駐米イギリス大使サー・エズメ・ハワードと、駐米フランス大使ポール・クローデル。
かつての大戦を共に戦った「盟友」たちである。
だが、今のスティムソンの目に映るのは、盟友の姿ではない。
自国の金庫から、生き血(金ゴールド)を吸い取ろうとする吸血鬼の姿だった。
「……お呼び立てして申し訳ない、大使諸君」
スティムソンの声は、外交辞令の丁寧さを装いながらも、剃刀のような鋭さを秘めていた。
彼は机の上の書類を指先で弾いた。それはFRBから届いたばかりの、今週の金流出レポートだった。
「単刀直入に言わせていただく。……貴国らによる、ニューヨーク連銀からの金塊の引き出しについてだ」
フランス大使クローデルが、詩人としても知られる知的な眉をひそめた。
「長官。それは正当な権利の行使です。ドルの価値が不安定な今、我々が自国の資産を保全するために金を本国へ戻すのは、主権国家として当然の……」
「当然、かね?」
スティムソンは、クローデルの言葉を遮った。
「貴国らは忘れているようだが、我が国は今、非常事態にある。市場は崩壊し、失業者は溢れ、銀行は連鎖倒産の危機に瀕している。
その最中に、貴国らは救助の手を差し伸べるどころか、我々の金庫の底をさらい、我々の息の根を止めようとしている」
イギリス大使ハワードが、宥めるように口を開いた。
「ヘンリー、言葉が過ぎる。我々も苦しいのだ。ドイツからの賠償金が止まり、ロンドンのシティも……」
「ドイツの賠償金か」
スティムソンは、冷笑を浮かべた。
「そうだな。世界は『資金の三角形』で回っていた。
我々アメリカがドイツに貸し、ドイツが貴国らに賠償金を払い、貴国らが我々に戦債を返す。
……だが、そのサイクルは壊れた。我々の市場が死んだからだ」
スティムソンは、机の引き出しから、新しい書類の束を取り出した。
それは、財務省が作成したばかりの、まだインクの匂いがする文書だった。
『対欧州戦債・即時償還要求書(督促状)』
彼はそれを、二人の大使の前に無造作に放り投げた。バサリ、という乾いた音が、部屋の空気を凍らせた。
「……これは?」ハワードの声が震えた。
「督促状だよ、サー・エズメ」
スティムソンは、椅子に深く腰掛け、両手を組んだ。
「貴国らは『金がない』と言いながら、ニューヨークからは何億ドルもの金塊を運び出しているではないか。
金があるなら、返してもらおうか。……あの大戦で、我々が貸し付けた莫大な戦費を」
クローデルが色めき立ち、立ち上がった。
「なっ! 暴論です! 戦債の支払いは、ドイツからの賠償金が入ってからという、モラトリアム(猶予)の約束があるはずです!」
「その約束は、貴国らが我々の経済を殺さないという前提の上での紳士協定だ!」
スティムソンが吼えた。もはや外交官の仮面はかなぐり捨てられていた。
「貴国らが我々の金を奪い、ドルを紙くずにするつもりなら、我々も紳士ではいられない。
これ以上、金塊を一オンスでも持ち出すと言うなら……我々はこの督促状を執行する。
戦債の『即時・全額償還』だ。
さあ、どうする? 国が破産するのが先か、大人しく金流出を止めるのが先か!」
それは、同盟国に対する言葉ではなかった。
借金取りが、首の回らなくなった多重債務者に突きつける、最後通牒だった。
ハワード大使の顔から、血の気が引いていく。
イギリスには、金がない。本当にないのだ。
もし今、アメリカに戦債の即時返還を迫られれば、ポンドは暴落し、大英帝国は破産する。
クローデル大使は、怒りに震えていた。
フランスには金がある。だが、それは国民の血税であり、国家の誇りだ。それを、アメリカの失政の尻拭いのために、脅し取られるなど……。
「……これは、脅迫だ」クローデルが呻いた。
「生存競争だ」スティムソンは冷たく言い放った。
「日本とは話がついた。彼らは南米の債権と引き換えに、金の引き出しを止めた。
次は、君たちの番だ。
……大西洋の友情か、それとも共倒れか。選ぶのは君たちだ」
重苦しい沈黙が、部屋を支配した。
窓の外の雨音だけが、絶望的なリズムを刻んでいた。
その日、大西洋同盟は死んだ。
書類上の同盟関係は残ったが、その魂である「信頼」は、金塊と借金の重みによって圧殺されたのだ。
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時:同日 深夜
場所:パリ、フランス銀行総裁室
エミール・モロー総裁は、ワシントンからの暗号電文を握りしめ、暖炉の前で震えていた。寒さのせいではない。煮えたぎるような屈辱と怒りのせいだった。
「……アメリカめ。ヤンキーめ!」
彼は、ペルシャ絨毯の上を獣のように歩き回った。
「我々を、借金のカタに脅迫するとは!
ドイツに金を貸して太らせ、その金で我々に賠償を払わせ、それをまた巻き上げる。
そんなふざけた錬金術が破綻したからといって、そのツケを我々に回す気か!」
モローは知っていた。アメリカが日本に対して行った譲歩(南米権益の黙認)を。
アメリカは、有色人種の帝国には頭を下げて妥協し、同じ白人の、歴史ある同盟国であるフランスには、銃を突きつけてきたのだ。
「……許さん。断じて許さんぞ」
モローは、執務机に戻り、ペンを執った。
金の引き出しは、表向き止めざるを得ないだろう。戦債の即時償還など食らえば、フランス財政もただでは済まない。
だが、ただで屈服するフランスではない。
「……ブロック経済だ」
モローは、手帳に書き殴った。
「金本位制など、もはやアメリカの人質になるだけだ。
我々は『フラン・ブロック』を作る。フランスと、その植民地、そして東欧の友好国だけで回る経済圏を。
そこからアメリカの商品を締め出し、ドルを排除するのだ」
そして彼は、東の空――アジアの方角を睨んだ。
「そして日本だ。……東郷とかいう男。
奴はアメリカの弱点を知り尽くしている。
敵の敵は味方だ。……インドシナを経由した『雲南銅開発』。あれを加速させろ。
アメリカが我々を切り捨てるなら、我々はアジアの新しい覇者と手を組むまでだ!」
パリの夜に、復讐の誓いが立てられた。
それは、世界経済がバラバラのブロックに分断される決定的な亀裂の始まりだった。
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時:同日 深夜
場所:ロンドン、ダウニング街10番地
ロンドンの霧は、いつになく濃かった。
首相官邸の一室で、ラムゼイ・マクドナルド首相と、イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンは、まるで葬式帰りのような顔で向かい合っていた。
「……もはや、選択肢はないということか」
マクドナルド首相が、力なく言った。
「はい、首相」ノーマンの声は、枯れ木が折れるような音に似ていた。
「金はありません。戦債の即時償還を求められれば、ポンドは紙くずになります。
……シティ(ロンドン金融街)の誇りも、大英帝国の威信も、今は腹の足しになりません」
「……アメリカに従うしかないのか」
「従うしかありません。……金の引き出しを止め、アメリカの言う通りの金融政策を採る。
事実上、ポンドはドルの属国となります」
屈辱。
かつて世界の海を制し、世界の金融を支配した大英帝国が、かつての植民地であったアメリカに、財布の紐を握られ、膝を屈する。
「……ロンドン会議はどうなる?」首相が問うた。
「海軍軍縮会議だ。アメリカは、我々に日本への圧力を期待しているが」
ノーマンは、自嘲気味に笑った。
「圧力など、かけられるわけがありません。
我々はアメリカに借金で首を絞められ、日本には『制度債』で市場を侵食されている。
……今のイギリスは、二人の借金取りに挟まれた、哀れな貧乏貴族ですよ」
「……日本は、金を持っている」
首相が、ふと漏らした。
「アメリカが我々を見捨て、脅迫するなら……我々が生き残る道は、金を持っている方の機嫌を損ねないことではないか?」
その言葉に、ノーマンはハッとして顔を上げた。
そうだ。日本だ。
彼らは今、世界で唯一、潤沢なドルと金を自由に動かせるプレイヤーだ。
「……首相。ロンドン会議で、アメリカ(スティムソン)は日本(東郷)と対決するでしょう。
その時、もし我々がアメリカの味方をせず……中立、あるいは日本に有利な『仲介』をしたら?」
「……アメリカは激怒するだろうな」
「ええ。ですが、日本は感謝するでしょう。そしてその感謝は、おそらく『金銭』や『経済協力』という形で示されるはずです。東郷という男は、そういう取引をする男です」
二人の老人の間に、暗黙の了解が生まれた。
プライドの高いイギリスは、決して「寝返った」とは言わないだろう。
だが「バランス・オブ・パワー(勢力均衡)」という名目の下で、沈みゆくアメリカという泥船から、片足だけをそっと抜く準備を始めたのだ。
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