三重苦
時:1929年(昭和四年) 、12月
場所:デトロイト、フォード・モーター正規ディーラー店舗
かつて「アメリカの繁栄のショーウィンドウ」と呼ばれたその場所は、今や巨大な墓標のようだった。
磨き上げられたショーウィンドウの向こうには、最新型の「モデルA」が並んでいる。だが、そのドアを開ける客は一人もいない。
オーナーのジムは、事務所のデスクで受話器を握りしめ、震えていた。電話の相手は、長年の付き合いがある地元銀行の融資担当者だ。
「……待ってくれ、ビル。話が違うじゃないか」
ジムの声は裏返っていた。
「先々週、FRBが金利を下げた(4.5%)だろう? だから、俺は『最悪期は脱した』と思って、在庫を仕入れるための運転資金を借りたんだ。あんただって『今がチャンスだ』と言ったじゃないか!」
『……すまない、ジム』
受話器の向こうの声は、死人のように冷たかった。
『状況が変わったんだ。FRBが昨日、公定歩合を6.5%に引き上げた。……それだけじゃない。金の流出を恐れて、本店が“貸し剥がし”を命じてきたんだ』
「貸し剥がしだと!? まだ返済期限前だぞ!」
『契約書の小さき文字を読んでくれ。“経済情勢の急激な変動に際しては、即時返済を求めることができる”……。
ジム、今すぐ全額返してくれ。さもなくば、在庫の車をすべて差し押さえる』
電話が切れた。
ジムは受話器を落とした。
これが、FRBの迷走が招いた「拷問」の正体だった。
一度「緩和」を見せて、企業に借金をさせ、設備投資や仕入れを行わせる。
そしてその直後に「引き締め(ムチ)」を入れ、ハシゴを外す。
ジムの店には、借金をして仕入れたばかりの、ピカピカの新車が山積みになっている。
だが、市場にはもう、それを買う客(ドルを持った人間)はいない。
翌日、店には「閉店」の札が下がった。
ジムは破産した。車は売れない。借金は返せない。
彼は、自らの店の前で立ち尽くす従業員たちに、最後の給料を払うことさえできなかった。
そのポケットには、なけなしのドル紙幣が入っていたが、彼はそれを従業員には渡さなかった。
彼はその足で、闇ブローカーの元へと走った。
ドルを、「日本海軍の長期債」に換えるために。
⸻
時:同日
場所:中西部、アイオワ州の農村
乾いた風が、枯れた畑を吹き抜けていく。
農夫のトムは、ポーチの揺り椅子で、保安官と銀行の差押執行官が自分の土地に杭を打つのを、虚ろな目で見ていた。
「トム、悪く思わんでくれ」
保安官が帽子を取った。
「銀行も必死なんだ。取り付け騒ぎで現金がない。お前の土地を競売にかけて、少しでもドルを回収しないと、銀行ごと潰れちまうんだ」
「……俺は、真面目に働いてきた」
トムは呟いた。
「教会にも行った。国債も買った。……なのに、国は俺からすべてを奪うのか」
土地は奪われた。家も奪われた。
トム一家は、着の身着のままで放り出された。
だが、絶望の中でトムが見たのは、さらに残酷な、そして倒錯した光景だった。
隣の農場のジョージだ。
ジョージは、差し押さえに遭っていなかった。それどころか、彼は悠々と新しいトラクターの手入れをしている。
なぜだ? 彼は俺より借金が多かったはずだ。
トムは、フェンス越しにジョージに詰め寄った。
「……ジョージ、どうしてだ! お前、銀行にどうやって金を返したんだ!?」
ジョージは、周りをはばかるように声を潜めて言った。
「……トム。俺はな、春に野菜を売った金を、あの『カイグン債』に換えておいたんだよ」
「日本の紙切れにか?」
「ああ。銀行が『担保割れだ! 金を返せ!』と怒鳴り込んできた時、俺はその証券を叩きつけてやった。『これでどうだ』ってな」
ジョージはニヤリと笑った。
「銀行の支店長、腰を抜かしていたぜ。『これがあれば、ドル以上の価値がある! 頼む、借金のカタにこれを預からせてくれ!』って、土下座せんばかりだったよ」
トムは愕然とした。
支店長は知っていたのだ。
そもそも土地を競売にかけても、誰も買う金を持っていない。二束三文だ。
だが「日本の長期債」なら、ワシントンD.C.の日本大使館あるいは提携銀行に持っていけば、いつでも額面通りの価値が保証されている。
今のアメリカにおいて、最も確実な担保は「アメリカの土地」ではなく「日本の借用書」だったのだ。
「……俺たちの国は、俺たちを見捨てた。だが、日本は……」
その日トムの心の中で、星条旗への忠誠心が音を立てて崩れ落ちた。
彼は家族を連れて西へ向かうことを決めた。
カリフォルニアへ。あの豊かな西海岸へ。そこなら、日本人の犬になってでも、飯が食えるかもしれない。
⸻
時:同日
場所:デトロイト近郊、中堅自動車部品工場
工場主のスタンプは、信じられないという顔で、銀行からの電話を切った。
彼の工場は、フォード向けの部品製造でフル稼働していた。注文はある。利益も出ている。ただ、材料を仕入れるための運転資金の手形決済が、来週に迫っていただけだ。
「……貸せない、だと?」
スタンプは受話器に向かって絶叫した。
「ふざけるな! うちは黒字だぞ! 担保だってある!」
『申し訳ありません、社長』
銀行の担当者の声は、疲れ切っていた。
『FRBの利上げで、当行の調達金利が跳ね上がりました。それに、お宅の担保に入っている株と不動産……今朝の暴落で、評価額が半値以下になりました。
……貸すどころか、今すぐ貸付金の元本を返済してください。さもなくば、工場を差し押さえます』
電話が切れた。
スタンプは、工場のフロアを見下ろした。油にまみれて働く工員たち。唸りを上げる機械。そこには確かな「価値」があるはずだった。
だが銀行という心臓が止まった瞬間、その全てが死んだ。
「……黒字倒産か」
その日、デトロイトだけで数十の工場が閉鎖された。
彼らは「仕事がない」から潰れたのではない。「カネが回らない」から潰れたのだ。
FRBが守ろうとしたドルは、実体経済の喉元を食い破り、その血を啜っていた。
⸻
時:同日
場所:シカゴ、とある中堅銀行「イリノイ・マーチャント・バンク」
シカゴの冬は、ミシガン湖から吹き付ける風が全てを凍らせる。
だが銀行頭取のロバートにとって、本当の寒さは懐の中にあった。
彼は、窓口に詰めかける群衆をブラインドの隙間から見下ろしていた。
取り付け騒ぎだ。だが今までのそれとは質が違っていた。
彼らは「金を返せ!」と叫んでいるのではない。
「俺の口座の残高を、日本海軍への送金小切手にしてくれ!」と叫んでいるのだ。
「……頭取。もう、限界です」
融資部長が、死人のような顔で頭取室に入ってきた。彼の背広は皺だらけで、数日家に帰っていないことを物語っていた。
「現金が底をつきました。シカゴ連銀に緊急融資(窓口貸出)を頼みましたが、断られました。『貴行が担保として差し出した中小企業の債権は、もはや紙くずだ』と」
「……馬鹿な!」
ロバートは、マホガニーの机を拳で叩いた。その音は虚しく響いた。
「11月にFRBが金利を下げた時、我々は政府の言う通りにしたぞ! 『最悪期は脱した』という言葉を信じて、地元の中小企業に運転資金を貸し込んだ! アメリカ経済を回すために!」
そう、それが「罠」だった。
11月中旬、日本との密約で金流出が止まった一瞬の隙に、FRBは金利を下げた。
溺れかけていた企業や商店は、その蜘蛛の糸にすがった。「今なら借りられる!」「設備投資をして、起死回生だ!」と。
銀行もまた、金余りの日本海軍(長期債)に対抗するため、リスクを取って貸し出しを行った。
だがその直後に欧州勢による金流出が始まり、FRBは舌の根も乾かぬうちに金利を急騰させた。
「……梯子を外されたんだ」
融資部長が呻いた。
「我々が貸し込んだ企業は、金利の急騰で利払いができなくなりました。変動金利で借りさせたのが仇になった。彼らは次々と倒産し、我々の貸付金は不良債権と化した」
さらに悪いことに、彼らの顧客である製造業者は、作った製品を売る場所を失っていた。
「南米向けの輸出が激減、ほぼゼロです。あちらが『ドル払い不能』になったせいで、シカゴの倉庫は在庫の山です」
・FRBの「緩和詐欺」で借金を背負わされ、
・直後の「利上げ」で首を絞められ、
・「東郷デフレ」で輸出先を失った。
この三重苦が、わずか二ヶ月の間に凝縮して襲いかかったのだ。
企業の体力はじわじわと削られたのではない。トラックに轢かれた直後に崖から突き落とされたような「即死」だった。
「……銀行間市場はどうだ? ニューヨークのNCBやチェースは?」
ロバートは最後の望みを口にした。
「全滅です。彼らも自分の身を守るのに必死です。むしろ、彼らこそが地方銀行から資金を引き揚げています。『流動性確保』の名目で」
「……終わりだ」
ロバートは、金庫の鍵をデスクに置いた。
その金属音が、彼の銀行家としての人生の終了を告げるベルのように聞こえた。
「ドアを開けろ。そして客に伝えろ。
『当行にはもうドルはない。あるのは焦げ付いた手形と、政府への恨み言だけだ』と」
「……頭取。暴動が起きます」
「起きないさ」
ロバートは、自嘲気味に笑った。
「彼らは暴れない。ただ、絶望して去っていくだけだ。……そして彼らの足が向かう先は、もう我々のところではない」
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