取り付け騒ぎ
時:1929年(昭和四年)、12月
場所:パリ、フランス銀行(Banque de France)総裁室
パリの冬は、石畳から染み出すような底冷えに支配されていた。
フランス銀行総裁エミール・モローは、執務室の窓から雨に煙るオペラ座を眺めていたが、その心は遥か大西洋の彼方、ニューヨークにあった。
彼の手元には、ワシントン駐在の大使館から送られてきた、一枚の極秘レポートがあった。
『……米国市場ニテ、日本海軍ガ金ノ引キ出シ(イヤーマーキング)ヲ突如停止。ナショナル・シティ・バンク(NCB)ガ大量ノ金ヲFRBニ預託シ、米国ノ正貨準備率ハ急回復セリ……』
一見すれば、それはドル危機が去ったことを告げる朗報に見えた。
だが、モローは欧州随一の「黄金の守護者」と呼ばれる男だ。彼の嗅覚はそのニュースの裏にある、腐臭のような事実を嗅ぎ取っていた。
「……ありえん」
モローは、葉巻の煙を吐き出しながら呟いた。
「あの日本海軍が、ただの善意で手を引くはずがない。東郷という男は、今や世界最強のリアリストだ。彼が手を引いたということは、裏で『相応の対価』を受け取ったということだ」
モローは、部下に命じて集めさせた別の情報を並べた。
ブラジル、チリ、ペルーにおける、日本人の動き。鉱山の買収、鉄道の敷設、そして日系移民による現地管理の開始。
「……なるほど。そういうことか」
モローは、戦慄と共に理解した。
「アメリカはドルの延命と引き換えに、自らの裏庭(南米)を日本に売り渡したのだ。……それほどまでに、アメリカの金庫は切羽詰まっていたのか」
ここで、冷徹なゲーム理論が発動した。
もしアメリカの金庫が盤石なら、日本はもっと長く搾り取れたはずだ。しかし日本は「手打ち」をして抜けた。
それはつまり、「これ以上吸い上げれば、アメリカという宿主が死ぬ(金が枯渇する)」と判断したからではないか?
「……紳士諸君」
モローは、緊急招集した理事たちに告げた。その声は、沈没船から逃げ出す鼠のように素早かった。
「一番の大口(日本)が、満腹になって席を立った。……ということは、テーブルの上にはもう、パン屑しか残っていないということだ」
理事の一人が青ざめた。
「総裁、まさか……」
「そうだ。アメリカの金庫は、もう空っぽに近い。
今すぐ引き出さなければ、我々のフランを守るための金は、永遠に失われるぞ」
囚人のジレンマ。
皆が協力してドルを支えれば、世界経済は安定する。だが、誰か一人が抜け駆けして金を引き出せば、残った者はババを引く。
そして今、最大のプレーヤーである日本が「勝ち逃げ」をした。
「……ニューヨーク連銀に打電せよ」
モローは、冷酷に命じた。
「フランス政府保有のドル資産、すべてを即時、金塊に交換する。
イヤーマーキングではない。……『現物輸送』だ。
ル・アーヴル港から、海軍の巡洋艦を出せ。積めるだけ積んで来い」
⸻
時:翌日
場所:ロンドン、イングランド銀行
「フランスが動いた?」
イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンは、受話器を握り潰さんばかりの力で叫んだ。
『はい。パリからの情報です。フランス銀行は、なりふり構わずニューヨーク連銀から金を引き揚げています』
「あの裏切り者のカエル食いめ! 協調介入の約束はどうした!」
ノーマンは罵ったが、彼の頭脳はすでに冷徹な計算を始めていた。
フランスが抜けた。日本も抜けた。
このままポンドとドルの協調関係を維持して、ロンドンだけがドルを持ち続ければどうなる?
アメリカが金兌換を停止した瞬間、イングランド銀行が持つドルはただの紙切れになる。大英帝国の富が蒸発する。
ノーマンは知っていた。
アメリカの地方銀行が、160億ドルもの不良債権を抱えて連鎖倒産していることを。
実体経済はボロボロだ。ドルの信用など、すでに地に落ちている。
そこにあるのは、「グレシャムの法則」の変種だ。
『悪貨(信用不安のある通貨)』と『良貨(金)』がある時、人は必ず通貨、つまりドルを捨てて金を欲しがる。
「……遅れるな! フランスに全部持っていかれるぞ!」
ノーマンは絶叫した。
「ニューヨークにある我が行のドルを、すべて金塊にして船に乗せろ!アメリカが『金本位制停止』を宣言して扉を閉ざす前に、隙間から腕を突っ込んででも奪い取れ!」
日本が止まったことで生じた「空白」。それは平和をもたらすどころか、欧州勢による「我先に」というパニック心理を煽る導火線となってしまった。
彼らは密約の中身(三年の凍結)など知らない。
ただ、「日本が逃げた。次は俺たちの番だ」という恐怖だけが伝染していた。
こうして、大西洋を挟んだ「取り付け騒ぎ(バンク・ラン)」が始まった。
日本との密約で止血したはずの傷口が、今度はヨーロッパという巨大な爪によって、さらに深く、無残に引き裂かれたのだ。
⸻
時:1929年12月
場所:ニューヨーク、リバティ・ストリート33番地、NY連銀・地下金庫
その日、ニューヨーク連銀総裁ジョージ・ハリソンは、執務室の窓から外を見る気力さえ失っていた。
彼のデスクには、ロンドンとパリから届いた電信が、死刑執行令状のように積み重なっていた。
『イングランド銀行、金兌換の一時停止を示唆』
『フランス銀行、NY連銀預託の金塊の即時返還(現物輸送)を要求』
日本海軍は、まだ慈悲深かった。彼らは「イヤーマーキング(耳標)」という形で、金をNY連銀の地下に置いたままにしてくれている。
だが、ヨーロッパの「異教徒」たちは違った。
彼の目の前で、再び金塊が運び出されていく。
今度の行き先は、日本ではない。フランスの巡洋艦と、イギリスの商船だ。
「……なぜだ」
ハリソンは、虚ろな目で金塊を見送った。
「日本とは手打ちをしたはずだ。金利も下げた。市場にドルを供給した。……なのになぜ、金が出て行くんだ?」
答えは、窓の外にあった。
ウォール街では、今日も中小銀行が取り付け騒ぎで閉鎖されている。
失業者は溢れ、工場は止まっている。そんな国の通貨を、誰が欲しがるというのか。FRBが金利を下げて供給したドルは、アメリカ経済を潤すことなく、右から左へと欧州勢の手に渡り、そして「金引換券」としてカウンターに叩きつけられているのだ。
またFRBが金利を下げた(金融緩和した)こともマイナスに働いた。
金利が下がれば、ドルの魅力は薄れる。
リスクに敏感な欧州の投資家たちは、「低金利で、しかも日本に資産を食い荒らされている国の通貨」など持っていたくはない。
彼らはFRBが供給した溢れるドルを使って、FRBの金庫に残ったなけなしの金を買い漁ったのだ。
「……総裁。本日の流出額、1億5,000万ドル」
職員の報告が、死刑宣告のように響く。
「……正貨準備率、このままでは再び40%を割り込みます」
悪夢の再来。
いや、今度はもっと悪い。
日本との密約で得た「NCB経由の金」すら、右から左へと欧州へ流れて消えようとしているのだ。手元に残ったのは、南米を失ったという事実と、空っぽの金庫だけ。
窓の外では冷たい雨が降っていた。その雨は、ウォール街のアスファルトを濡らすだけでなく、アメリカ経済の体温そのものを奪っていくようだった。
ハリソンは、うわ言のように繰り返した。
「分かっている……。金利を、上げろ。公定歩合を6.5%、いや、市場の実勢に合わせて7%に誘導するんだ」
『し、しかし総裁! 先月4.5%に下げたばかりです! 市場は「緩和だ」と喜んで、借金を増やしたばかりなんですよ!? 今ここで梯子を外せば、中小企業は全滅します!』
「やるしかないんだ!!」
ハリソンは絶叫した。
「ゴールドが逃げているんだぞ! フランスもイギリスも、日本の動きを見てパニックになっている。『アメリカの金庫は空になるかもしれない』と疑い始めているんだ! ドルを守るためには、国内経済を犠牲にしてでも金利を上げて、金を繋ぎ止めるしかないんだ!」
受話器を叩きつけるように置いたハリソンは、頭を抱えて崩れ落ちた。
彼は知っていた。自分が今下した決断が、アメリカ中の工場を閉鎖させ、数百万人の労働者を路頭に迷わせることを。
だが、法律(連邦準備法)と金本位制という「黄金の足枷」が、彼にそれ以外の選択肢を許さなかった。
FRBは緩和からわずか数週間で、再び金融引き締めへと舵を切らざるを得なくなった。FRBは自らの手でアメリカ経済の首を絞めたのだ。
そして呼吸ができなくなった銀行や企業たちが、空気を求めてどこへ向かったか。
ハリソンは、その答えを知りたくなかった。
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