表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

133/163

取り付け騒ぎ

時:1929年(昭和四年)、12月

場所:パリ、フランス銀行(Banque de France)総裁室


 パリの冬は、石畳から染み出すような底冷えに支配されていた。


 フランス銀行総裁エミール・モローは、執務室の窓から雨に煙るオペラ座を眺めていたが、その心は遥か大西洋の彼方、ニューヨークにあった。


 彼の手元には、ワシントン駐在の大使館から送られてきた、一枚の極秘レポートがあった。


『……米国市場ニテ、日本海軍ガ金ノ引キ出シ(イヤーマーキング)ヲ突如停止。ナショナル・シティ・バンク(NCB)ガ大量ノ金ヲFRBニ預託シ、米国ノ正貨準備率ハ急回復セリ……』


 一見すれば、それはドル危機が去ったことを告げる朗報に見えた。


 だが、モローは欧州随一の「黄金の守護者」と呼ばれる男だ。彼の嗅覚はそのニュースの裏にある、腐臭のような事実を嗅ぎ取っていた。


「……ありえん」

 モローは、葉巻の煙を吐き出しながら呟いた。


「あの日本海軍が、ただの善意で手を引くはずがない。東郷という男は、今や世界最強のリアリストだ。彼が手を引いたということは、裏で『相応の対価』を受け取ったということだ」


 モローは、部下に命じて集めさせた別の情報を並べた。

 ブラジル、チリ、ペルーにおける、日本人の動き。鉱山の買収、鉄道の敷設、そして日系移民による現地管理の開始。


「……なるほど。そういうことか」

 モローは、戦慄と共に理解した。


「アメリカはドルの延命と引き換えに、自らの裏庭(南米)を日本に売り渡したのだ。……それほどまでに、アメリカの金庫は切羽詰まっていたのか」


 ここで、冷徹なゲーム理論が発動した。


 もしアメリカの金庫が盤石なら、日本はもっと長く搾り取れたはずだ。しかし日本は「手打ち」をして抜けた。


 それはつまり、「これ以上吸い上げれば、アメリカという宿主が死ぬ(金が枯渇する)」と判断したからではないか?


「……紳士諸君」

 モローは、緊急招集した理事たちに告げた。その声は、沈没船から逃げ出す鼠のように素早かった。


「一番の大口(日本)が、満腹になって席を立った。……ということは、テーブルの上にはもう、パン屑しか残っていないということだ」


 理事の一人が青ざめた。

「総裁、まさか……」


「そうだ。アメリカの金庫は、もう空っぽに近い。

 今すぐ引き出さなければ、我々のフランを守るためのゴールドは、永遠に失われるぞ」


 囚人のジレンマ。

 皆が協力してドルを支えれば、世界経済は安定する。だが、誰か一人が抜け駆けして金を引き出せば、残った者はババを引く。


 そして今、最大のプレーヤーである日本が「勝ち逃げ」をした。


「……ニューヨーク連銀に打電せよ」

 モローは、冷酷に命じた。


「フランス政府保有のドル資産、すべてを即時、金塊に交換する。

 イヤーマーキングではない。……『現物輸送』だ。

 ル・アーヴル港から、海軍の巡洋艦を出せ。積めるだけ積んで来い」



時:翌日

場所:ロンドン、イングランド銀行


 「フランスが動いた?」

 イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンは、受話器を握り潰さんばかりの力で叫んだ。


『はい。パリからの情報です。フランス銀行は、なりふり構わずニューヨーク連銀から金を引き揚げています』


「あの裏切り者のカエル食いめ! 協調介入の約束はどうした!」


 ノーマンは罵ったが、彼の頭脳はすでに冷徹な計算を始めていた。


 フランスが抜けた。日本も抜けた。

このままポンドとドルの協調関係を維持して、ロンドンだけがドルを持ち続ければどうなる?


 アメリカが金兌換を停止した瞬間、イングランド銀行が持つドルはただの紙切れになる。大英帝国の富が蒸発する。


 ノーマンは知っていた。

アメリカの地方銀行が、160億ドルもの不良債権ブローカーズ・ローンを抱えて連鎖倒産していることを。  

実体経済はボロボロだ。ドルの信用など、すでに地に落ちている。  

そこにあるのは、「グレシャムの法則」の変種だ。  


『悪貨(信用不安のある通貨)』と『良貨(金)』がある時、人は必ず通貨、つまりドルを捨てて金を欲しがる。


「……遅れるな! フランスに全部持っていかれるぞ!」  

ノーマンは絶叫した。

「ニューヨークにある我が行のドルを、すべて金塊にして船に乗せろ!アメリカが『金本位制停止』を宣言して扉を閉ざす前に、隙間から腕を突っ込んででも奪い取れ!」


 日本が止まったことで生じた「空白」。それは平和をもたらすどころか、欧州勢による「我先に」というパニック心理を煽る導火線となってしまった。


彼らは密約の中身(三年の凍結)など知らない。  

ただ、「日本が逃げた。次は俺たちの番だ」という恐怖だけが伝染していた。


 こうして、大西洋を挟んだ「取り付け騒ぎ(バンク・ラン)」が始まった。


 日本との密約で止血したはずの傷口が、今度はヨーロッパという巨大な爪によって、さらに深く、無残に引き裂かれたのだ。



時:1929年12月

場所:ニューヨーク、リバティ・ストリート33番地、NY連銀・地下金庫


 その日、ニューヨーク連銀総裁ジョージ・ハリソンは、執務室の窓から外を見る気力さえ失っていた。


 彼のデスクには、ロンドンとパリから届いた電信が、死刑執行令状のように積み重なっていた。


『イングランド銀行、金兌換の一時停止を示唆』

『フランス銀行、NY連銀預託の金塊の即時返還(現物輸送)を要求』


 日本海軍は、まだ慈悲深かった。彼らは「イヤーマーキング(耳標)」という形で、金をNY連銀の地下に置いたままにしてくれている。

 だが、ヨーロッパの「異教徒」たちは違った。


 彼の目の前で、再び金塊が運び出されていく。

 今度の行き先は、日本ではない。フランスの巡洋艦と、イギリスの商船だ。


「……なぜだ」

 ハリソンは、虚ろな目で金塊を見送った。


「日本とは手打ちをしたはずだ。金利も下げた。市場にドルを供給した。……なのになぜ、金が出て行くんだ?」


 答えは、窓の外にあった。  

 ウォール街では、今日も中小銀行が取り付け騒ぎで閉鎖されている。  


 失業者は溢れ、工場は止まっている。そんな国の通貨ドルを、誰が欲しがるというのか。FRBが金利を下げて供給したドルは、アメリカ経済を潤すことなく、右から左へと欧州勢の手に渡り、そして「金引換券」としてカウンターに叩きつけられているのだ。


 またFRBが金利を下げた(金融緩和した)こともマイナスに働いた。

 金利が下がれば、ドルの魅力は薄れる。


 リスクに敏感な欧州の投資家たちは、「低金利で、しかも日本に資産を食い荒らされている国の通貨」など持っていたくはない。

 彼らはFRBが供給した溢れるドルを使って、FRBの金庫に残ったなけなしの金を買い漁ったのだ。


「……総裁。本日の流出額、1億5,000万ドル」

 職員の報告が、死刑宣告のように響く。

「……正貨準備率、このままでは再び40%を割り込みます」


 悪夢の再来。

 いや、今度はもっと悪い。


 日本との密約で得た「NCB経由の金」すら、右から左へと欧州へ流れて消えようとしているのだ。手元に残ったのは、南米を失ったという事実と、空っぽの金庫だけ。


 窓の外では冷たい雨が降っていた。その雨は、ウォール街のアスファルトを濡らすだけでなく、アメリカ経済の体温そのものを奪っていくようだった。


 ハリソンは、うわ言のように繰り返した。

「分かっている……。金利を、上げろ。公定歩合を6.5%、いや、市場の実勢に合わせて7%に誘導するんだ」


『し、しかし総裁! 先月4.5%に下げたばかりです! 市場は「緩和だ」と喜んで、借金を増やしたばかりなんですよ!? 今ここで梯子を外せば、中小企業は全滅します!』


「やるしかないんだ!!」

 ハリソンは絶叫した。


「ゴールドが逃げているんだぞ! フランスもイギリスも、日本の動きを見てパニックになっている。『アメリカの金庫は空になるかもしれない』と疑い始めているんだ! ドルを守るためには、国内経済を犠牲にしてでも金利を上げて、金を繋ぎ止めるしかないんだ!」


 受話器を叩きつけるように置いたハリソンは、頭を抱えて崩れ落ちた。


 彼は知っていた。自分が今下した決断が、アメリカ中の工場を閉鎖させ、数百万人の労働者を路頭に迷わせることを。


 だが、法律(連邦準備法)と金本位制という「黄金の足枷」が、彼にそれ以外の選択肢を許さなかった。


 FRBは緩和からわずか数週間で、再び金融引き締めへと舵を切らざるを得なくなった。FRBは自らの手でアメリカ経済の首を絞めたのだ。


 そして呼吸ができなくなった銀行や企業たちが、空気を求めてどこへ向かったか。

 ハリソンは、その答えを知りたくなかった。


いつもお読みいただきありがとうございます。


もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。 お侍(カイグン)に裏庭(南米大陸)を売って家の柱(ドル)の修理を準備するトムおじさん。 西の海から、書類を手にお船に乗ってやって来るマリアンヌ嬢。 その後ろからブリタニア嬢…
米国から日本への企業や人材の流出が加速しそう。 加えてドイツがすこぶる心配
いつも楽しく読ませてもらっています。 あれ、これイヤーマーキングの話の時より金利上がってるような? これ、また海軍が何か手助けするのでしょうか。 間違ってたらすみません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ