モンロー・リクイデーション(裏庭の叩き売り)前編
時:1929年(昭和四年)、12月
場所:ワシントンD.C. 商務省・統計局長室
その日、ワシントンD.C.の官庁街を駆け巡ったのは、雪でも冷たい風でもなかった。それは「認識」という名の、最も残酷な衝撃波だった。
ナショナル・シティ・バンク(NCB)と日本海軍の間で交わされた「南米債権一括譲渡契約」。
その詳細なリストが、各省庁の専門家たちの机上に届いた瞬間、彼らは一斉に悲鳴を上げ、頭を抱え、そして絶望した。
これは金融取引ではない。
これはアメリカ合衆国が半世紀かけて築き上げた「西半球の覇権」の、たった一午後での完全なる消失だった。
ワシントンの冬は、鉛色の空から冷たい雨を落としていた。だが商務省統計局長ジュリアス・クラインの背中を流れていたのは、雨水ではなく、脂汗だった。
「ラテンアメリカ貿易の神様」と呼ばれ、ハーバート・フーヴァー大統領の片腕として対南米輸出を倍増させた男、ジュリアス・クラインは、震える手でリストを握りしめていた。
彼の手元には、二つの書類がある。
一つは、商務省が誇りを込めて編纂した『合衆国対ラテンアメリカ直接投資統計書(1929年版)』。
もう一つは、ニューヨークの連邦準備銀行から極秘裏に回ってきた、『日本海軍による南米債権買取リスト(確定版)』である。
クラインは震える手で眼鏡を外し、デスクに突っ伏した。
彼の口から漏れたのは、数字の分析結果ではない。国家の死に際に立ち会った聖職者のような、絶望的な祈りの言葉だった。
「……神よ。我々は、半世紀を売ってしまった」
そこに、扉を蹴破る勢いで、国務長官ヘンリー・スティムソンが入ってきた。
普段は冷静沈着な外交官の顔は、激昂と恐怖で歪んでいる。
「クライン! 数字を出せ!
NCBが日本に売り渡した債権の総額だ!
ホワイトハウスで大統領がお待ちだ! メロン財務長官は『ただの不良債権処理だ』と言い張っているが、本当になくしたのは“借金”だけなのか!?」
クラインは、幽鬼のような顔で顔を上げた。
「……長官。覚悟してお聞きください」
彼は二つの書類を並べた。
「まず、我が国が過去50年かけて、南米に築き上げた資産の総額です。
スタンダード・オイルの油田、ユナイテッド・フルーツのバナナ農園、グッゲンハイムの鉱山、そして各国の鉄道、港湾、電力……。
これら全ての直接投資の累計額は、推計で約35億ドルから、最大で50億ドルです」
スティムソンは頷いた。それはアメリカの「帝国」としての誇りだ。
1890年代から、マッキンリー、セオドア・ルーズベルト、タフト、ウィルソン……歴代の大統領が「棍棒外交」と「ドル外交」を駆使して築き上げた、モンロー主義の結晶だ。
「で、東郷が買い取った額面は?」
「……50億ドル、です」
スティムソンは息を呑んだ。
「……なんだと?」
「正確には、日本海軍が買い取った国債、社債、および担保権の額面総額が、50億ドルを超えています。
つまり……数字の上では、我々が南米大陸に持っていた“全て”と、同等の請求権が、たった一度の取引で日本に移転したことになります」
部下の一人が、恐る恐る口を開いた。
「し、しかし次官補。それはあくまで『債権(借金)』であって、現物の資産ではありません。彼らが手に入れたのは、デフォルト寸前の紙くずで……」
「馬鹿者!!」
クラインの怒号が飛んだ。
「お前はビジネスを知らんのか! 相手がデフォルト(破産)したらどうなる? 債権者は『担保』を没収する権利を得るんだ!
そして南米諸国が借金のカタに差し出せるものなど、一つしかない!
『資源』と『インフラ』だ!」
クラインは、乾いた笑い声を上げた。
「長官。我々は50年かけて、血と汗と海兵隊の銃剣でこの資産を積み上げました。
東郷一成は、それをたった一日の午後に、銀行の応接室で、わずか15億ドルの小切手(と金塊)で買い取ったのです。
……バーゲンセールにも程があります」
⸻
時:同日 午後
場所:ホワイトハウス、オーバルオフィス
大統領執務室の空気は、死体検分所のそれにも似た、冷たく無機質なものだった。
ハーバート・フーヴァー大統領は、ナショナル・シティ・バンク(NCB)から極秘裏に提出された「資産売却リスト」を前に、長い時間、言葉を失っていた。
それは単なる債権譲渡の契約書ではない。
アメリカ合衆国が半世紀をかけて築き上げてきた「モンロー主義(南北アメリカの支配権)」と、将来の「国家安全保障」の、死亡診断書だった。
同席するアンドリュー・メロン財務長官は、重苦しい沈黙に耐えかねたように口を開いた。彼の手には、NCBの救済によって回復しつつある銀行間取引のデータが握られている。
「……大統領、そう悲観したものではありません。落ち着いてください」
メロンは、銀行家の論理で強弁した。
「東郷が買ったのは、所詮は『デフォルト寸前の紙くず』です。チリもペルーも、革命前夜の火薬庫だ。あんな不良債権を抱え込んで、日本は損をするだけです。我々は、腐りかけた足を切り落として、身軽になったのです」
「……黙れ、アンドリュー」
国務長官ヘンリー・スティムソンが、地を這うような低い声で遮った。彼の顔色は蒼白で、唇は震えていた。
「君は銀行のバランスシートしか見ていない。……これを見ろ。東郷が買ったのは、借用書ではない。『現物』だ」
スティムソンは、机の上に広げられた南米大陸の地図を指さした。その指先は、まるで癌細胞の転移を示すかのように、大陸の主要な動脈を次々と押さえていった。
「アイテム1:カッパーベルト(チリ)」
「チリ政府は破綻寸前でした。日本は、彼らがアメリカの銀行に負っていた借金を肩代わりし、棒引きにしました。
その見返りに彼らが手に入れたのは、鉱山そのものの『独占開発権』です」
スティムソンは、報告書の一節を読み上げた。
「特に、グッゲンハイム財閥がコスト高を理由に開発を縮小していた『チュキカマタ』等の環太平洋造山帯の低品位銅鉱山。
……東郷はこれを二束三文で手に入れましたが、調査によれば、彼らはここに日本の安価な電力技術と、最新の選鉱プラントを持ち込む計画です。
……今後、日本海軍の電線と弾薬(薬莢)の原料となる銅は、永遠にタダ同然で供給されるでしょう」
メロンが口を尖らせる。
「たかが銅だろ? アメリカ国内にもいくらでもある」
「たかが銅だと!?」
フーヴァー大統領が、机を拳で叩きつけた。普段の温厚な技術者としての顔は消え失せ、憤怒の形相で机を叩いた。
「銅は電気文明の血液だ! 通信、送電、モーター、全てに銅がいる! 戦艦の配線だけで何トン使うと思っているんだ!
それを仮想敵国に、しかも我々の裏庭で独占されて、何が『身軽になった』だ!」
大統領の怒声が響く中、スティムソンは冷徹に、次の急所を指し示した。
「アイテム2:ボリビアの錫」
「缶詰の容器、機械のベアリング、ハンダ付け。近代戦の兵站と精密機械に不可欠な錫。これを支配していた『錫男爵』パティーニョは、ロンドン市場の暴落で破産寸前でした。
そこへ日本海軍が『制度債』という救命浮輪を投げた。パティーニョは今や、日本の資金で動く傀儡です。ボリビアの錫は、今後アメリカではなく、日本の工場へ流れます」
「アイテム3:ブラジル(鉄と食料)」
「ここが一番の政治的急所です。コーヒー暴落で死にかけていたブラジル政府は、日本の『制度債』という、ドルに代わる新しい決済手段を掴まされました。
その見返りに日本が手に入れたのは、ミナスジェライスのイタビラ鉄鉱山。
日本の製鉄所は、これでもう鉄鉱石の輸入先に困ることはない。
……おまけに、現地には10万人の日系移民がいる。彼らは今や『棄民』ではない。日本海軍の手先となって現地を支配し、ブラジル政府すら動かす、有能な統治者だ」
フーヴァーは頭を抱えた。
資源がない。それが日本の唯一の弱点だったはずだ。だからこそ、いざとなれば「輸出禁止」というカードで彼らをコントロールできた。
だが、その前提が崩れた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
後編に続きます。
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