棄てられた民の帰還 後編
前話の続きです
「……海軍……さん?」
ケンジは我が目を疑った。なぜ、こんな地球の裏側の、赤土の荒野に、日本の海軍がいるのか。
先頭に立った士官――まだ若い、松田という少佐――が、集まった移民たちを見渡し、帽子を取って深々と頭を下げた。
「……皆様。長らくの苦労、お察しいたします。
日本帝国海軍、駐米武官府より参りました」
ざわめきが広がる。
海軍少佐松田千秋は、一枚の布告書を読み上げた。
「本日ただ今より、この地域一帯を含むミナスジェライスからサンパウロにかけての物流網は、帝国海軍の『戦略的兵站路』に指定されました」
意味が分からず、顔を見合わせる移民たち。
松田は、ケンジの前に歩み寄った。その視線は泥だらけのケンジの姿を、軽蔑ではなく、敬意を持って見つめていた。
「……お名前は?」
「ケ、ケンジです……。宮崎県から来ました」
「ケンジさん。貴方は、ポルトガル語が話せますか?」
「へ、へえ。まあ、生きるために覚えましたから……」
「この土地の地理は? どこに道を通せばいいか、分かりますか?」
「そりゃあ、毎日歩いてますから……」
松田は頷き、懐から一枚の腕章と、分厚い封筒を取り出した。
腕章には『海軍省・制度債業務監査官補』の文字。
封筒の中には、見たこともない額面の『NCPC債』が入っていた。
「ケンジさん。貴方を、本日付で日本海軍の現地採用職員に任命します」
「……は?」
「我々はこれから、ミナスジェライスの鉄を掘り、鉄道を直し、港を造ります。ですが、我々軍人には現地の言葉も、この大地の気性も分からない。……二十年間、ここで歯を食いしばって生き抜いてきた貴方がたの力が必要なのです!」
松田は、周りの移民たちに向かって叫んだ。
「日本の政府は、貴方たちを見捨てたかもしれません。
ですが、今の海軍は違います!
貴方たちは『棄民』ではない!
この南米という資源の宝庫において、日本の生命線を支える、選ばれし『先遣部隊』なのです!」
その言葉は乾いた大地に染み込む雨のように、彼らの心に響いた。
棄てられたのではない。
先遣部隊。
その言葉の響きが、彼らの失われていた誇りに火をつけた。
「……仕事があるんですか? 俺たちに?」
「あります。山ほどあります。給料は、この『制度債』で支払います。
この証券があれば、我々が持ってきた日本の物資――米も、味噌も、醤油も、医薬品も、全て買えます。
そして将来、日本へ帰るための船賃にもなります」
歓声が上がった。涙を流して抱き合う者もいた。
その時、一台の馬車が乱暴に乗り付けてきた。
現れたのは、この地域の顔役であるブラジル人の地主だった。彼は鞭を振り回し、怒鳴り散らした。
「おい! 誰の許可で騒いでいる!
このジャポネス・スジョ(汚い日本人)どもは、俺の農園の小作人だ! 勝手な真似はさせんぞ!」
コロネルは、松田に詰め寄った。
移民たちは、条件反射的に身を縮こまらせた。長年染み付いた、権力者への恐怖だ。
だが、松田は一歩も引かなかった。
彼は冷ややかな目でコロネルを見下ろし、黒田から預かった書類を、無造作に突きつけた。
「……貴様こそ、誰に向かって口を利いている」
松田は流暢なポルトガル語で言い放った。
「この土地の抵当権は、昨日、日本海軍に移転した。
貴様がアメリカの銀行に借りていた借金は、我々が肩代わりしたのだ」
「な、なんだと……?」
「つまり、今日からここは貴様のものではない。我々の管理地だ。
文句があるなら、リオの大統領府へ行け。……もっとも、大統領も我々のパートナーだがな」
コロネルの顔から血の気が引いた。
彼は目の前の東洋人が、バックに巨大な国家権力と資金力を持っていることを悟ったのだ。
彼は鞭を落とし、逃げるように馬車へ戻っていった。
その光景を見ていたケンジは、震える手で、渡された腕章を握りしめた。
いつも自分たちを虐げていた絶対的な権力者が、一瞬で敗走した。
それを成し遂げたのは、祖国の、海軍の力だった。
「……ケンジさん」
松田が、優しく声をかけた。
「頼みますよ。このプロジェクトには、日本の未来がかかっているんです。
貴方はもう、ただの農夫ではありません。
日本とブラジルを繋ぐ、架け橋なのです」
ケンジは、涙を拭った。
そして日焼けした顔を上げ、背筋を伸ばした。
その顔は、もはや絶望に打ちひしがれた移民の顔ではなかった。
国家の一翼を担う、誇り高き男の顔だった。
「……はい! お任せください!
この辺りの土のことは、誰よりも知っています! 鉄でも何でも、掘り出してみせます!」
その日、ブラジルの赤土の上に、新しい風が吹いた。
「棄民」と呼ばれた人々は、日本海軍の制度の下で、最強の「現地マネージャー」へと生まれ変わった。
その日ブラジルの奥地で、数千人の日系移民が涙を流しながら「万歳」を叫んだ。
それは軍国主義への賛美ではない。人間としての尊厳を取り戻した者たちの、魂の叫びだった。
⸻
時:数ヶ月後、1930年
場所:ブラジル、ミナスジェライス州・イタビラ鉄山
かつてアメリカ資本が所有し、恐慌で閉鎖されていた巨大な鉱山は、今やかつてない活気に包まれていた。
現場監督として指揮を執るのは、作業着に身を包んだ日系移民たちだ。彼らは現地のブラジル人労働者たちに、流暢なポルトガル語で指示を飛ばしている。
「オーライ! 次のトロッコを持ってこい! 船が待っているぞ!」
彼らの懐には、NCPCカードが入っている。
鉱山の資材購入、労働者への賃金支払い、その全てが日本海軍の決済システムで回っていた。インフレに苦しむブラジルにおいて、日本の制度債だけが、唯一価値の変わらない、事実上の「基軸通貨」として流通していたのだ。
その様子を視察に訪れたアメリカの元鉱山主が、呆然と眺めていた。
彼は借金のかたに、この鉱山を日本へ二束三文で手放した男だった。
「……信じられん。あのジャップたちは、ただの貧しい農民だったはずだ。それがどうして、こんなに見事に組織化されているんだ?」
案内役の源三郎――今や「日本海軍・南米資源開発公社」の現地理事となっていた――は、英語で静かに答えた。
「ミスター。我々は二十年間、この過酷な大地で生き抜いてきました。
マラリアと戦い、ジャングルを切り開き、互いに助け合って組合(コチア産業組合)を作ってきた。
組織を作ることも、物流を管理することも、我々にとっては生きるための『日常』だったのです」
源三郎は、積み上げられた鉄鉱石の山を指さした。
「あなた方は、我々を『安価な労働力』としてしか見なかった。
だが日本の海軍は、我々を『パートナー』として扱ってくれた。
……その違いが、この結果です」
採掘された鉄鉱石は、専用の鉄道で港へ運ばれ、そこから日本の輸送船団に乗って、八幡製鉄所や海軍工廠、陸軍砲兵工廠へと運ばれていく。
そしてその対価として、日本からは安くて高品質な繊維製品や、自転車、ラジオが届き、日系移民の商社を通じて南米全土へ販売される。
「カネ(金融)」と「ヒト(移民)」と「モノ(資源)」。
この三つが、「制度債」という血液によって完全に循環する巨大な経済圏が、アメリカの裏庭で誕生していた。
アメリカの外交官たちは、後にこう報告書に記した。
『……南米において、米国人の地位は地に落ちた。
今や、最も尊敬され、最も金を持ち、そして実質的にこの大陸の経済を支配しているのは、我々が見下していた日系移民たちである。
彼らは日本海軍の威光を背に、我々が捨てた鉱山と農園を、黄金を生む帝国へと変えてしまった』
東郷一成の「方舟」は、日本列島だけでなく、地球の裏側に住む同胞たちをも、その巨大な船体に乗せて走り始めていた。
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