棄てられた民の帰還 前編
時:1929年(昭和四年)、11月末
場所:チリ北部、アタカマ砂漠・チュキカマタ銅山
南半球の夏の日差しが、赤茶けた大地を灼いていた。アタカマの空は、暴力的なまでに青かった。
数週間前まで、世界最大の露天掘り銅山を支配していたのは、アメリカの「アナコンダ・カッパー」社だった。しかし、ニューヨークの親会社が暗黒の木曜日で致命傷を負い、資金供給が停止した瞬間、この巨大な富の源泉は死に体となった。
だが閉鎖され、ゴーストタウンのようだった世界最大の露天掘り銅山に、再び轟音が戻ってきていた。
巨大なショベルが動き、砕石機が唸りを上げる。
現場監督のホセは、埃まみれの顔を拭いながら、新しく掲げられた看板を見上げた。
そこには、見慣れた「Anaconda Copperアナコンダ・カッパー」のロゴの下に、今まで見たこともない、奇妙なマークが追加されていた。
錨に、桜の花。そして漢字。
『技術・資金提携:日本帝国海軍』
「……おい、ホセ! 日本人たちが来たぞ!」
同僚の声に振り返ると、数台のトラックが到着したところだった。降りてきたのは、背広を着た東洋人たちと、作業服姿の技術者たち。三菱や住友、古河の鉱山技師たちだ。
彼らはNCBの銀行員たちのように、「ドルで払えなければクビだ」とは言わなかった。
代わりに彼らは制度債(NCPC債)の束と、最新の採掘機械のカタログを持ってきた。
「……セニョール」
日本人の代表者が、片言のスペイン語でホセに言った。
「我々は、ドルは持っていない。だが、この『制度債』で、必要な機材も燃料も、食料も提供する。……その代わり、あなた方はただ、銅を掘り出してくれればいい。掘り出した銅は、全量、我々が適正価格で買い取る」
ホセは、その言葉に耳を疑った。
ドルがいらない? 掘れば掘るだけ、買ってくれる?
それは、アメリカ資本のくびきに苦しめられてきた彼らにとって、夢のような提案だった。
「……あんたら、何者なんだ?」
ホセが問うと、日本人はにこやかに笑って空を指差した。
「我々は、ただの客だ。……だが、一番の『上客』だと思ってもらっていい」
その日、地球の裏側で、ドルの支配が終わった。
代わりに始まったのは、「モノ」と「信用」が直接結びつく、東郷の制度経済圏への編入だった。
鉱山鉄道は動き出し、港には日の丸を掲げた輸送船が入港してくる。それらは銅を満載し、横浜や神戸、呉へと向かう。
その銅はやがて電線となり、薬莢となり、日本帝国の筋肉となっていく。
⸻
時:同日
場所:ブラジル、リオデジャネイロ。カテテ宮殿(大統領府)
南半球の真夏。チリと同じくリオデジャネイロの熱気は、ねっとりと肌にまとわりつくようだった。
だが、ブラジル大統領ワシントン・ルイスの背筋は、極寒の中にいるかのように凍りついていた。
執務室の窓からは、美しいグアナバラ湾が見える。しかし彼に見えているのは、港に積み上げられた、売り先のないコーヒー豆の山だけだった。
ウォール街の暴落は、この「コーヒーの国」の心臓を直撃した。価格は暴落し、外貨は枯渇。アメリカの銀行団からは連日、借款の返済を迫る脅迫めいた電報が届いている。
「……破産だ」
ルイスは呻いた。軍部には不穏な動きがある。南部のヴァルガスらがクーデターを画策しているという噂も絶えない。金がなければ、軍も警察も動かせない。
その時、秘書官が告げた。
「閣下。日本の特使がお見えです」
「日本? 移民の話なら後にしてくれ」
「いいえ、閣下。……『借金の話』だそうです」
通された男は、海軍の白い制服ではなく、仕立ての良い麻のスーツを着ていた。
黒田。宇垣軍縮で予備役となったかつての陸軍将校であり、今は海軍軍属として東郷一成の手足となって世界を駆ける男。彼は恭しく一礼すると、鞄から分厚い書類の束を取り出し、テーブルに置いた。
それはブラジル政府がアメリカの銀行に対して発行した、国債の束だった。
「大統領閣下。単刀直入に申し上げます。この国の対米債務は、全て日本海軍が買い取りました」
ルイスは椅子から転げ落ちそうになった。
「な、何を……!? 日本が? なぜだ?」
「ご安心を。我々は、ニューヨークのハイエナどものように、今すぐドルで返せとは言いません」
黒田はポルトガル語で静かに、しかし力強く告げた。
「その代わり……条件があります。
ミナスジェライスのイタビラ鉄鉱山。その採掘権と、ヴィトーリア港への鉄道敷設権、および港湾の独占使用権を頂きたい」
ルイスは息を呑んだ。資源だ。彼らは、コーヒーではなく、この国の地下に眠る鉄を求めている。
「……それだけか?」
「いいえ。代金の一部は、この債券の償還(借金の棒引き)に充てます。
そして残りの開発資金は……貴国の経済を支えるための『制度債』でお支払いしましょう。
この証券があれば、貴国は日本から必要な機械を輸入し、インフラを整備できる。……アメリカのドルに頼る必要はありません」
ルイスの手が震えた。
これは救済ではない。国家の主人の交代劇だ。
だが、溺れる者に選択肢はない。
「……分かった。……受け入れよう」
契約書にサインがなされた時、黒田はもう一つの、そして東郷から厳命されていた最も重要な条件を提示した。
「最後に一つ。この巨大な開発プロジェクトの現場監督、および実務担当者についてですが……」
「もちろん、貴国から技術者を派遣されるのでしょう?」
「ええ。ですが、言葉も習慣も違う土地です。我々には、現地を熟知し、かつ日本人の魂を持った『仲介者』が必要です」
黒田は、窓の外、遥かサンパウロの方角を見据えた。
「現地の運営は、日系移民に委ねていただきたい。
彼らの地位を向上させ、このプロジェクトのリーダーとして遇すること。……それが、我々の条件です」
⸻
時:同日
場所:サンパウロ州奥地、バストス移住地
赤土の大地が、地平線の彼方まで続いていた。
コーヒー農園の片隅で、日系一世のケンジは、泥にまみれた手で鍬を振るっていた。
汗が目に入る。だが、拭う気力もない。
今年は豊作だった。だが、それが地獄の始まりだった。
暴落。コーヒー豆は、収穫するコストさえ賄えないゴミと化した。農園主は賃金を払わず、ケンジたち移民に「出て行け」と怒鳴り散らした。
「……俺たちは、何のためにここへ来たんだ」
隣で作業していた友人が、涙声で言った。
日本では食い詰めて、「金のなる木がある」という宣伝文句に騙されて海を渡った。
だが待っていたのは、奴隷のような労働と、差別と、そしてこの絶望だった。
日本政府は「棄民」政策をとった。一度出国した者は、もう日本の人間ではない。帰る場所などない。
領事館すら彼らの窮状を黙殺していた。彼らは南十字星の下で、ただ朽ち果てるのを待つだけの存在だった。
その時、集落の入り口が騒がしくなった。
土煙を上げて、数台の黒塗りの自動車と、トラックの車列がやってくる。
トラックの荷台には、見たこともない物資が山積みになっている。
「……おい、なんだ? 警察か? 軍隊か?」
移民たちが怯えて集まってくる。また、立ち退きを迫られるのか。
だが、車から降りてきた男たちは、銃を持っていなかった。
彼らが着ていたのは、懐かしい、あまりにも懐かしい、帝国海軍の白い第二種軍装だった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
次回に続きます。
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