密約
時:1929年11月下旬
場所:東京・永田町、首相官邸・奥の間
帝都・東京は、寒風の中にあった。
だが首相官邸の奥の間だけは、暖房の熱気とは異なる、脂汗が滲むような重苦しい熱量に支配されていた。
総理大臣・田中義一は、目の前の卓上に置かれた極秘電文を、まるで爆発物でも扱うかのように指先で押さえていた。
同席しているのは、大蔵大臣・高橋是清、海軍大臣・岡田啓介、そして陸軍大臣白川義則の代理、陸軍省軍事課長・永田鉄山の三人だけである。
電文の発信者は、ワシントンの東郷一成。
内容は、NCBとの南米債権譲渡契約の完了報告と、それに伴うアメリカ政府との「最終手打ち」の条件提示についてであった。
「……おい、岡田君」
田中首相が、呻くように口を開いた。元陸軍大将の彼をして、その声は震えていた。
「これは、夢物語ではないのか?
額面50億ドルの南米債権を、15億ドルで買い取った?
しかもその代金は、アメリカから吸い上げた金を、アメリカの銀行に戻してやるだけ……つまり、実質的に日本の懐は痛んでおらんと?」
「左様です、総理」
岡田海軍大臣は、能面のような静けさで答えた。だがその膝の上の拳は、微かに震えていた。武者震いか、あるいは畏怖か。
「東郷大佐の報告によれば、NCBは破綻を免れるために、二束三文で南米の権益を手放しました。チリの銅山、ペルーの油田、ボリビアの錫鉱山……。南米大陸の主要な資源インフラの債権が、今や日本海軍の金庫にあります」
その言葉に、それまで腕を組んで天井を仰いでいた高橋是清が、ふっ、と息を吐き出した。
「……モンロー主義を、殺しよったわ」
その一言が、部屋の空気を凍らせた。
モンロー主義。1823年以来、アメリカ合衆国が掲げてきた「南北アメリカ大陸への欧州列強の不干渉」を定めた外交ドクトリン。アメリカにとって南米は聖域であり、排他的な裏庭である。
「是清さん、あんたもそう思うか」田中が脂汗を拭った。
「アメリカが、黙っているはずがない。これは虎の尾を踏むどころではない。虎の寝床を奪うようなものだぞ。戦争になるのではないか?」
「なりませんよ、総理」
是清は、ニヤリと笑った。その笑顔は、かつてペルーの銀山で辛酸を舐めた若き日の山師の顔に戻っていた。
「戦争をするには、カネが要るのです。
今、アメリカにはそのカネがない。銀行は死にかけており、FRBの金庫は空っぽだ。
彼らが戦争を始めようとすれば、その瞬間に東郷君が『イヤーマーキング』していた残りの金を全て引き出し、日本へ持ち帰るでしょう。そうなればドルは紙屑になり、アメリカ政府は戦費を調達できずに崩壊する」
是清は、電文の後半部分を指差した。
「見なさい。東郷君は、アメリカ政府に対して『命の値段』を提示しておる。
『今後三年間、金の引き出しを凍結する』と。
これは、アメリカという国家に対する『執行猶予』です。
アメリカ政府は、南米という裏庭を差し出してでも、この猶予を受け入れざるを得ない。……喉元にナイフを突きつけられているのは、彼らの方なのですから」
田中は絶句した。
一介の海軍大佐が、列強のパワーバランスを、大砲一発撃たずにひっくり返してしまったというのか。
その時、沈黙を守っていた陸軍の永田鉄山が、低い声で口を挟んだ。
「……総理。陸軍としても、この取引を支持します」
田中が驚いて振り返る。
「永田君? 陸軍は、海軍の独走を許すのか?」
「独走ではありません。これは『国益』です」
永田は、手元の手帳を開いた。そこには、南米から得られる資源のリストがびっしりと書き込まれている。
「チリの硝石は火薬の原料。ボリビアの錫、ブラジルの鉄鉱石。……これらは全て、来るべき総力戦において、我が国に決定的に不足していた資源です。
満州だけでは足りない。だが、南米が手に入れば……帝国は自給自足の体制に大きく近づく」
永田の目は、冷徹に輝いていた。
「海軍は、この資源を陸軍にも優先的に割り当てると約束している。
アメリカの裏庭だろうが何だろうが、取れるものは取る。それが総力戦です。
スティムソン国務長官が泣き言を言おうが、知ったことではありません。……やりましょう」
大蔵省は財政的勝利を確信し、陸軍は資源の確保に生唾を飲み込んでいる。
田中義一は、覚悟を決めた。
張作霖爆殺未遂事件の処理で、一度は死にかけた自分の内閣。それが今、東郷一成という男の魔術によって、歴史上かつてない時代を迎えようとしている。
「……分かった」
田中は、重々しく頷いた。
「東郷に、訓令を打て。
『政府は、貴官の交渉を全面的に支持し、その結果について全責任を負う』と。
……アメリカの首輪を、しっかりと締めてこいとな」
岡田海軍大臣が、深く頭を下げた。
「はっ。……直ちに」
部屋を出ていく岡田の背中を見送りながら、高橋是清は独りごちた。
「……それにしても、恐ろしい男よ」
田中もまた、深く息を吐き出した。
「……まぁ良い。今の日本には、仏よりも鬼が必要なのだからな」
⸻
時:1929年11月下旬
場所:ワシントンD.C. ポトマック公園・深夜
凍てつくような夜気の中、二台の黒塗りの車が、公園の奥まった場所でヘッドライトを消して停まっていた。
一台には星条旗、もう一台には旭日旗が、闇に紛れて小さく掲げられている。
車内で向かい合うのは、東郷一成と、ヘンリー・スティムソン国務長官。
護衛も秘書もいない。記録に残せない、トップ同士の密談だ。
「……単刀直入に言おう、大佐」
スティムソンは、疲労でくぼんだ目を向けた。
「南米の件だ。ナショナル・シティ・バンク(NCB)から報告を受けた。……君は、我が国の金融機関が保有する南米債権額面50億ドルを、15億ドルで買い取ると言ったそうだな」
「ええ。困っている友人を助けるためです」
東郷は魔法瓶から熱いコーヒーを注ぎ、スティムソンに差し出した。
「だが、それは同時に、我が国が半世紀守ってきた『モンロー主義』の事実上の破棄を意味する。……議会が知れば、大統領弾劾ものだ」
「では、破談にしますか?」
東郷はコーヒーを一口啜った。
「NCBは明日にも破綻し、取り付け騒ぎは全米の銀行に飛び火する。そして私は、手元のドルを全てゴールドに換えて、日本へ持ち帰る準備を再開しますが」
スティムソンは唇を噛んだ。脅しではない。事実だ。
今、アメリカの首を絞めているロープの端を握っているのは、目の前の男だ。
「……取引だ」
スティムソンは、苦渋に満ちた声で言った。
「政府は、NCBと貴国海軍との取引を『民間同士の契約』として黙認する。南米における貴国の権益保全についても、外交ルートを通じて『異議なし』と南米各国に通達しよう。
……その代わり、条件がある」
スティムソンは、一枚のメモをテーブルに置いた。
「1.貴国海軍による、連邦準備銀行(FRB)からの金引き出し(イヤーマーキング)の即時停止。
2.今後三年間、貴国が保有するドル資産の金転換を凍結すること。
3.この件は“口頭合意”とし、議会答弁では否認できる形にすること」
これこそが、アメリカが喉から手が出るほど欲しかった「命乞い」だった。
日本がこれ以上、金を吸い上げないという保証。それさえあれば、FRBは息を吹き返せる。
東郷はメモを一瞥し、ニヤリと笑った。
「三年間。……奇遇ですな。私の『長期債』の償還期限と同じだ」
「……イエスか、ノーか」
「いいでしょう」
東郷は右手を差し出した。
「私はアメリカの崩壊を望んでいない。貴国には、健全な市場と、そして我々の『良き顧客』であってほしいのですから」
スティムソンはその手を握った。
その手は温かかったが、彼は自らの魂が冷え込んでいくのを感じた。
彼は今、ドルの延命と引き換えに、モンロー主義を売り飛ばしたのだ。
⸻
時:翌日
場所:ワシントンD.C. 連邦準備制度理事会(FRB)
奇跡が起きた。
ニューヨーク市場が開くと同時に、目を疑うようなニュースが駆け巡ったのだ。
『日本海軍、金引き出し(イヤーマーキング)を停止!』
『NCB、巨額の金塊をFRBに預託! 正貨準備率、一気に50%台へ回復!』
それは、複雑怪奇な資金のロンダリングの結果だった。
東郷が南米債権の代金としてNCBに支払った金(元は日本がイヤーマーキングしていた金)。その所有権がNCBに移った瞬間、金は「アメリカの銀行の資産」として復活した。
NCBはその金を直ちにFRBに預け入れ、準備預金とした。
結果、FRBの帳簿上の金準備はV字回復し、「40%ルール」の呪縛から解き放たれたのだ。
「……助かった……」
FRB議長ロイ・ヤングは、執務室で崩れ落ちるように椅子に座った。数日前まで死人のようだった彼の顔に、赤みが差している。
「金がある。金が戻ってきた! これで、ドルを守れる!」
彼は受話器をひったくった。
「……今すぐ公定歩合を引き下げろ! 6%から、一気に4.5%へ! 市場にドルを流せ! 窒息しかけていた経済に、酸素を送るんだ!」
FRBは、即座に公定歩合の引き下げを発表した。
市場は歓喜した。「救世主が現れた!」「最悪期は脱した!」と。
株価は反発し、企業の倒産ラッシュには一旦の歯止めがかかった。
だが、その緩和されたドルがどこへ向かうかを知っている者は、ごく一部だった。
FRBが蛇口を開いて供給したドル。それは傷ついたアメリカ企業を癒やすためだけに使われるのではない。
その一部は、配当や利払い、そして新たな製品購入代金として、大株主であり最大の顧客である「日本海軍」の懐へと、再び還流していく運命にあった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




